第一章 20『灰の知性』
灰色の肉塊が、笑った。
それは人間の笑みではない。
頬が吊り上がるわけでも、目尻が緩むわけでもない。そもそも、その顔に目などなかった。ただ、顔面の中央から裂けた口だけが横へ広がり、濡れた歯列を剥き出しにしただけだ。
だが爆には、それが笑っているのだと分かった。
「……おいおい」
ベッドの上で、爆は乾いた声を漏らす。
「病室まで見舞いに来るとか、礼儀正しいじゃねぇか」
「火神さん、下がってください」
照夜が前に出る。
その足元から影が薄く伸び、病室の床を這う。白い床材の上を、墨を垂らしたような黒が広がり、灰色の怪物との間に細い境界線を作った。
怪物は動かない。
ただ、笑っている。
ぬるりとした灰色の肉が扉の隙間から完全に入り込み、人の形へと整っていく。肩、腕、腰、脚。骨格だけは人間に近い。だが、関節の向きがわずかに違い、皮膚の表面は焼けた粘土のようにひび割れていた。
そのひびの奥で、何かが蠢いている。
血ではない。
筋肉でもない。
煙だ。
灰色の煙が、肉体の内側で呼吸するように膨らみ、縮み、裂け目から細く漏れ出していた。
「……こいつ、さっき映像に映ってたやつか?」
「本体か、分身体かは不明です」
照夜は視線を外さない。
「ですが、普通のグールではありません」
「見りゃ分かる」
爆はベッド脇に立てかけてあったスルトへ手を伸ばした。
柄を握る。
その瞬間、脇腹に鈍い痛みが走った。
「ぐっ……!」
「動かないでください」
「無理言うな。あいつ、完全にこっち狙ってんだろ」
灰色の怪物の口が、さらに開いた。
喉の奥は暗い。
そこから、濁った音が漏れる。
「――ヒ、ガ……ミ」
病室の空気が止まった。
爆の目が見開かれる。
照夜も、一瞬だけ呼吸を止めた。
「……今」
「ああ」
爆はスルトを握る手に力を込める。
「俺の名前、呼んだな」
「ヒ、ガミ……バ、ク」
怪物が言葉を繰り返す。
不完全な発音。
だが、確かにそれは名前だった。
火神爆。
この怪物は、彼を認識している。
偶然侵入したのではない。
迷い込んだのでもない。
ここへ来た。
爆を目指して。
「……なんで俺の名前知ってんだよ」
爆の問いに、怪物は答えない。
代わりに、首を傾けた。
ぐきり、と骨が折れるような音がする。
だが折れてはいない。
首があり得ない角度まで傾き、その口が、耳まで裂ける。
「ツ、ヨイ」
「は?」
「ツヨイ、ヒ、クイ」
怪物が一歩踏み出す。
照夜の影が反応した。
床から黒い棘が飛び出し、怪物の足を貫く。
灰色の肉が弾けた。
だが。
「――――」
次の瞬間、弾けた肉が煙になり、元に戻る。
貫いたはずの影の棘は、空を刺していた。
「やはり、物理干渉が薄い」
照夜が低く呟く。
「実体化と霧化を切り替えている」
「つまり?」
「斬っても殴っても、当たる瞬間に逃げられる可能性があります」
「めんどくせぇな!」
爆はベッドから降りようとする。
だが身体が思うように動かない。
試験の疲労。
折れた肋骨。
全身に残る打撲。
普段なら無視できる痛みも、今は重石のように身体へまとわりつく。
怪物が、さらに一歩踏み込んだ。
照夜が腕を振る。
「天照」
病室の蛍光灯とは別の光が走った。
照夜の掌から白い閃光が放たれ、怪物の胸部を一直線に貫く。
灰色の肉が焼ける。
じゅう、と嫌な音。
煙が暴れる。
怪物の上半身が大きく仰け反った。
「効いた!」
「まだです」
照夜の言葉通りだった。
怪物は倒れない。
焼けた胸部の穴から灰色の煙が噴き出し、その煙が周囲の肉を引き寄せていく。溶けた蝋が固まるように、傷口が塞がっていく。
ただし。
完全ではない。
光に焼かれた部分だけ、再生が遅い。
「火と光は通るのか」
爆の目が細まる。
「なら、俺の出番だろ」
「火神さん」
「分かってる。無茶はしねぇ」
「今の発言がすでに信用できません」
「うっせぇ」
爆は笑った。
痛みに汗が滲む。
それでも口角を上げた。
恐怖はある。
だが、それ以上に腹が立っていた。
試験で倒れ、病室に運ばれ、仲間が外で戦っている中で動けず、そこへ怪物がわざわざ自分の名前を呼んでやって来た。
上等だ。
喧嘩を売られているのなら、買わない理由がない。
「スルト」
爆が柄を握り直す。
刀身が低く唸った。
爆炎を内側に押し込めたような赤い光が、刀身の継ぎ目から漏れる。
照夜が一瞬だけ横目で見る。
「撃てますか」
「一発くらいならな」
「一発で決めるつもりで」
「おう」
怪物が動いた。
予備動作はない。
灰色の身体が床に崩れたかと思った瞬間、煙となって左右に広がり、病室全体を包み込むように膨れ上がる。
視界が灰に染まる。
消毒液の匂いが消えた。
代わりに、焦げた肉と湿った土のような匂いが鼻を突く。
「照夜!」
「吸わないでください!」
照夜が叫ぶ。
直後、影が壁のように立ち上がった。
黒い幕が爆の周囲を囲い、灰の煙を押し返す。だが完全には防げない。煙は影の隙間を探すように細く伸び、針のようになって侵入してくる。
それが、ベッドの鉄柵に触れた。
鉄が腐る。
じわじわと黒ずみ、音もなく崩れた。
「毒かよ!」
「腐食性の霧です。長く浴びれば肉体も持ちません」
「病室で使う技じゃねぇだろ!」
爆は叫びながら、スルトを構える。
呼吸を浅くする。
肋骨が痛む。
肺が膨らむたび、内側から針で刺されるようだった。
その痛みの向こうで、灰色の霧が形を作る。
照夜の背後。
口。
裂けた口だけが、煙の中に浮かび上がる。
「後ろ!」
爆が叫ぶより早く、照夜は動いていた。
影が足元から跳ね上がり、背後の口を包み込む。だが、その瞬間にはもう口はない。灰色の霧はするりと抜け、今度は照夜の足首へ絡みついた。
「っ……!」
照夜の足元が崩れる。
床ではない。
影が腐食されている。
灰色の霧が影に食い込み、黒を灰に変えていく。
「影まで食うのかよ!」
「相性が悪いですね」
照夜の声が僅かに苦い。
次の瞬間、彼は自分の足元に光を落とした。
白い閃光。
灰色の霧が焼け、離れる。
だがその隙を狙って、怪物の本体が天井から落ちてきた。
逆さまに。
四肢を蜘蛛のように広げて。
口を開けて。
狙いは照夜の首筋。
「照夜ぁッ!!」
爆がベッドを蹴った。
身体が悲鳴を上げる。
肋骨の痛みが視界を白く染める。
それでも爆は前へ出た。
スルトの刀身に火が走る。
紅い光。
爆発寸前の熱が、病室の空気を歪ませる。
「こっち見ろ、灰野郎!!」
爆が振るう。
斬撃ではない。
叩きつける。
スルトの重い刀身を、落下してくる怪物の胴体へ横殴りにぶつける。
直撃。
その瞬間、刀身が爆ぜた。
轟音。
病室の窓が吹き飛ぶ。
壁の一部がひび割れ、天井の照明が破裂する。
爆風が怪物を横へ押し飛ばし、灰色の肉体が壁に叩きつけられた。
「ぐ、ぁ……!」
爆も反動で床を転がる。
背中を打つ。
息が詰まる。
痛みで吐きそうになる。
だが、目は逸らさなかった。
壁際。
灰色の怪物は、半身を失っていた。
焼けている。
爆炎に巻かれた部分が黒く焦げ、煙になって崩れていく。
再生は――遅い。
「効いてんじゃねぇか……!」
爆が笑う。
だが、怪物も笑った。
残った半分の顔で。
「ヒ、ガミ……ツヨイ」
「褒めても何も出ねぇぞ」
「ツヨイ、ホシイ」
「……あ?」
怪物の裂けた口が蠢く。
「ツヨイ、ニク。ツヨイ、ホネ。ツヨイ、ヒ」
灰色の煙が、焦げた肉の断面から噴き出す。
それは再生ではなかった。
増殖。
床に落ちた灰が盛り上がり、小さな腕を作る。
壁にこびりついた肉片が震え、小さな口を作る。
吹き飛んだはずの欠片が、ひとつひとつ、別々の生き物のように動き出す。
「うわ、キモッ……!」
「火神さん、下がって!」
照夜が光を放つ。
白い線が病室を走り、小さな肉片を焼き払う。だが数が多い。焼け残った欠片が床を跳ね、爆の足へ飛びかかる。
爆はスルトを振ろうとして、痛みに一瞬遅れた。
その一瞬で、灰色の肉片が爆の足首に噛みつく。
「っ、こいつ!」
痛み。
ただの噛みつきではない。
歯が皮膚を破った瞬間、冷たいものが体内へ流れ込んでくる。
灰色の煙。
それが血管を逆流するように這い上がる感覚。
「火神さん!」
照夜が駆け寄る。
爆は歯を食いしばる。
足首に噛みついた肉片を、スルトの柄で叩き潰す。
潰れた肉片が灰になった。
だが、すでに遅い。
足首から膝へ。
冷たい感覚が上がってくる。
「……入られた」
「すぐ焼きます」
「待て待て待て、俺の足ごと焼く気か!?」
「それが一番早いです」
「怖ぇよ!」
言い合う間にも、灰色の感覚は太腿へ迫る。
爆は息を吸う。
痛い。
怖い。
気持ち悪い。
だが、身体の内側に入ってきたなら話は早い。
「俺の中に入ってきたのが運の尽きだ」
爆はスルトを床に突き立てる。
刀身から火が流れた。
外ではない。
爆自身の足元へ。
赤い熱が床を伝い、爆の身体を包むように立ち上がる。
「火神さん、無茶です!」
「無茶じゃねぇ」
爆は笑う。
「根性だ」
炎が爆の脚を包んだ。
灰色の煙が悲鳴を上げる。
体内に入り込んだ異物が、熱に焼かれて暴れる。血管の中で針が破裂するような痛み。骨の髄を火箸でかき回されるような激痛。
爆の喉から、声にならない声が漏れる。
それでも炎を止めない。
焼く。
焼き切る。
自分の身体ごと。
灰を。
異物を。
侵入してきた怪物の一部を。
「――ッ、ああああああああ!!」
爆の叫びと同時、足から灰色の煙が噴き出した。
煙は炎に巻かれ、黒く焦げ、消える。
足首の傷口から血が流れる。
だが、冷たい感覚は消えた。
「はぁ……はぁ……!」
爆は片膝をつく。
照夜が支えようとするが、爆は手で制した。
「まだ立てる」
「立てる状態ではありません」
「立ってんだろ」
「そういう問題では――」
照夜の言葉が止まる。
病室の奥。
壁際。
灰色の怪物が、完全に再生していた。
ただし、姿が変わっている。
先ほどよりも大きい。
腕が四本。
背中から、煙のような触手が六本。
口は一つではない。
胸にも、腹にも、肩にも、小さな口が開いている。
それらが一斉に笑う。
「ヒ、ガミ。テ、ルヤ」
「名前覚えんな、気色悪ぃ」
爆が毒づく。
照夜は無言で構えた。
影と光が、彼の左右に揺れる。
病室は半壊している。
窓は吹き飛び、外の夜風が流れ込む。
遠くではまだ戦闘音が続いている。
銃声。
爆発。
咆哮。
警報。
世界政府マンダラ本部の夜は、完全に戦場へ変わっていた。
そしてその一角で。
傷だらけの火神爆と、冷静さの裏で焦りを隠す暁照夜が、灰色の知性体と向かい合っている。
「照夜」
「はい」
「こいつ、ここで倒すぞ」
「当然です」
怪物が膝を曲げる。
四本の腕が床を掴む。
煙の触手が広がる。
爆はスルトを担ぐ。
照夜は光を掌に集める。
次の瞬間。
灰色の怪物が、弾けるように襲いかかった。




