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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第一章「素描」
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 桜の下に並んだ顔は、どれも黒く塗り潰されていた。


 夕方のニュースが川沿いの花見を中継していて、青いシートの上で紙コップが持ち上がり、拍手が起きる。笑い声はスピーカーからはっきり聞こえてくるのに、笑っているはずのところだけは、そろって黒い。


 僕には、人の顔が見えない。目や口がそこにあるのは分かっても、それを顔だと思ったとたん、黒く塗り潰されて見える。テレビの中でも写真の中でも、鏡に映る自分でも変わらない。生まれつきではなかったらしいけれど、見えていたころのことは、もうほとんど思い出せない。


「あら、もう満開なのね。今年もお花見、行きそびれちゃった」


 梓(あずさ)さんがそう言っているあいだに、画面の下に字幕が出た。都内の桜は、今週いっぱいが見頃らしい。


「みんな楽しそうねえ」

「そうだね」


 楽しそうかどうかなら、声で分かる。分かるのはそこまでで、誰がどんな顔で笑っているのかを知らないまま、僕はいつも、そうだね、と返している。


 梓さんは、僕の目がこうなっていることを知らない。言ったことがないからだ。返事さえしておけば、たいていの話はそこで終わってくれる。


 生姜焼きは今日も玉ねぎが多くて、皿の端に汁が溜まっていた。それをキャベツで拭って食べるのがこの家のやり方で、画面に人が映っているあいだ、僕は皿だけを見ている。


「そういえば、怜奈(れいな)から電話があったのよ。そのうち帰ってくるかもって」

「来るのか来ないのか、どっちなの」

「あの子がそう言ったんだもの。かも、って」


 姉の怜奈は、高校を卒業してすぐにこの家を出た。それからは、連絡もなく帰ってきては、連絡もなくいなくなる。まさに嵐のような人間だ。


 梓さんは笑いながら立って、コンロの前へ戻っていった。スリッパの踵を鳴らさずに、爪先で床を滑るように歩く。エプロンの紐は背中で蝶結びになっていて、片方の端が長く垂れている。


 鍋の蓋を取る手は、指の関節が太い。水仕事で荒れていて、爪は短く切りそろえてある。顔は分からないのに、この手が何のために動いてきたのかは分かってしまう。


「朔(さく)くん、お味噌汁、おかわりは?」


 返事のかわりに、空いたお椀を差し出した。


 お玉が鍋の縁に当たって、かちんと鳴った。ニュースはいつのまにか天気予報に変わっている。そこでようやく、僕は顔を上げた。


♢♢♢


 美術は週に一度、三組との合同で受ける。


 新学期の最初の授業の日、美術室には二つのクラスから美術を選んだ生徒が集まっていた。放課後なら僕しかいないことのほうが多い部屋で絵の具と古い紙の匂いに、知っている声と知らない声がいっぺんに混ざりこんでいる。棚の上の石膏像はどれもこちらを向いていて、その顔も、僕には黒い。


 窓際の机の端に座ると、隣の丸椅子には誰も来なかった。来ないだろうと思ったから、端を選んだのだ。


 チャイムが鳴り終わるころ、美術部の顧問でもある先生が黒板の前に立った。白髪の混じった、線の細い人で、声が低い。


「今日と来週の二回で、校舎の風景を描いてもらう。二人一組で校内を回って、場所をひとつ決めろ。同じ場所を、それぞれ一枚ずつ、鉛筆のみで描く。授業で終わらなきゃ家で仕上げて、再来週の頭に出すこと」


 先生は黒板に、二枚でひとつ、と書いた。チョークの粉が、窓から差しこむ光の中をゆっくり落ちていく。


「同じ場所でも、描く人間が違えば別の絵になる。並べてみれば分かる。だから評価も二枚まとめてつける。片方だけ出しても受け取らんぞ。組む相手は、いま隣に座ってるやつだ」


 あちこちで椅子が鳴って、相手の決まった声が飛び交いはじめた。僕の隣だけが空いたままで、先生が名簿を指でたどりながら、足りない一人ぶんを確かめている。


「神崎の相方は……三組の中原だな。遅れてくるそうだ」


 三組の中原、と頭の中で繰り返してみても、声も背の高さも浮かんでこなかった。


 画用紙が配られて、先生が黒板の端に提出の日を書き足したところで、後ろの扉が開いた。


 話し声がいったん途切れて、それから、さっきとは違う低さのひそひそ声になる。誰が振り向いたのかは分からなくても、何人も振り向いたことは、椅子の軋む音で分かった。


「すみません! 遅れました」

「聞いてる。課題のペアを組んでてな。中原は、神崎の隣だ」


 小走りの足音が机のあいだを抜けてきて、隣の丸椅子が引かれた。


「中原です。よろしくね」


 高い声で、語尾が少し跳ねる。肩まで垂れた髪の先が綺麗に内側へ巻いていて、甘い粉のような匂いと、整髪料の匂いがした。顔は、ほかのみんなと同じように黒く潰れている。


「……神崎です」


 後ろの席から、笑いをこらえて鼻を鳴らすのが聞こえた。笑われているのが僕なのか、この組み合わせなのかは、考えないことにした。授業のあいだは、隣の丸椅子に座っている人が中原さんで、見分けるのにそれ以上は要らない。


 画板を抱えて、二人で校舎を回った。中庭には先に出た組がもう座りこんでいたし、グラウンドでは体育の授業がランニングをしている。中原さんが指さす場所を、僕はどれも通り過ぎた。


「人がいるところ、嫌なの?」

「……描きにくいから」

「じゃあ任せるよ。神崎くん、美術部だからいい場所知ってそう」


 美術部だと言った覚えはなかった。


「ねえ、私のこと知ってた?」

「さっき先生が、三組の中原って言ってた。ごめん。それ以外は何にも」


 返事の前に、短く息の抜ける音がした。たぶん、笑ったのだ。


「そっか。うん、そうだよね」


 何に頷いたのかは、聞かなかった。


 校舎裏には大きな桜の木が一本あるだけで、わざわざ来る人を見たことがない。角を曲がったところで、隣の足音が止まった。枝の先までみっしりと花が詰まっていて、風が枝を渡るたびに端のほうから剥がれていく。


「すご。こんなとこ、あったんだ」

「ここなら、誰にも話しかけられないから」

「今、私が話しかけてるけど」

「……授業だから」


 中原さんは吹き出して、桜の下まで歩いていった。幹に手をついて、枝を見上げている。花びらが一枚、彼女の肩に乗って、すぐにまた落ちた。


「でもさ、来週までもつかな。ニュースで今週いっぱいって言ってたよ」

「もたないと思う」

「描いてるうちに違う木になっちゃうじゃん」

「今日のを覚えとくから」

「全部?」

「うん」


 すごいね、と見上げたまま言われて、返事はしなかった。木なら覚えておける。その下に立っている人のことは、来週には、声と髪の長さくらいしか残っていないだろう。


 校舎の壁ぎわにあるコンクリートの段に並んで座り、画板を膝に立てる。中原さんはノートに字を書くときの持ち方で鉛筆を握っていて、紙に溝が残るほど、線が硬かった。


「それだと、手が疲れるよ」


 鉛筆を寝かせて、上から軽くつまんでみせた。肘から動かして、紙の上を滑らせる。中原さんは僕の手をじっと見てから、それをそのまま自分の手に移した。指の置き方も手首の角度も、すぐに僕と同じになる。


「こう?」

「……それ。そのまま」


 僕が何年もかけて慣れた持ち方を、一度見ただけで自分のものにしている。器用な人なんだな、と思った。


 次の美術の時間には、花びらが降っていた。


 一週間のうちに桜はずいぶん軽くなっていて、風が来るたびに枝の端からまとめて剥がれては、根元のまわりに降り重なっていく。土の色は、もうほとんど見えなかった。先週と同じ段に並んで座り、続きの紙を画板に留める。


 しばらくは、二本の鉛筆が紙を擦る音が続いた。中原さんの紙の上では枝と花ばかりが増えていって、花びらは一枚ずつ、同じ大きさで並んでいる。僕は木の全体を描いていた。校舎の角から、花びらの積もった地面まで。


 途中で、中原さんが僕の画板を覗きこんだ。肩が触れない程度に体を寄せて、鉛筆の尻で紙の上の一点を指す。根元から少し左の、花びらしか描いていない地面だった。


「ここ、誰か立てそうだね」


 風が吹いて、枝から落ちてきた花びらが一枚、紙の上を横切っていった。


 空いている、と言われたことならある。人がいない、とも。立てそうだと言った人は、これまでいなかった。


 立つ人を僕が描けないから、そこは空いている。中原さんの声で言われたとたん、その地面は、描かれないままの誰かが来るのを待っている場所に見えた。


 どんな顔で言ったのかが知りたくて、隣を向く。


 そこには、いつもの黒があるだけだった。髪の先が風に揺れて、黒の縁を出たり入ったりしている。声は、さっきより少し低かった。冗談なのか、そうではないのか、声だけでは決められない。顔さえ見えれば、たぶん一目で分かることなのに。


 見えなくて困ったことなら、数えきれないくらいある。見たい、と思ったのは、これが初めてだった。


 中原さんのポケットで、スマホが短く震えた。鉛筆が画板の上に置かれる。


「ごめん、今日ここまで」

「先生に言わなくていいの」

「言ってあるから大丈夫。またね」


 理由は言わなかった。足音が校舎の向こうへ回って、聞こえなくなる。段の上に、角がひとつだけ削れた消しゴムが残っていた。置いたままにも出来ず拾って、自分の筆箱にしまう。


 紙の上の空いた地面に花びらが一枚落ちてきて、すぐに風に持っていかれた。


 提出までの一週間、あの消しゴムは筆箱に入れたままだった。中原さんの一枚がなければ、僕の一枚も受け取ってもらえない。三組へ行けば、途中で抜けた理由を知っている人もいたのだと思う。そこで誰に声をかければいいのかが、僕には分からない。


 週の半ばに雨が続いた。昼休みに校舎裏まで行ってみると、桜はもう葉のほうが多くなっていて、地面に残った花びらは茶色く変わり、濡れた土に貼りついていた。家で仕上げた僕の紙の中では、まだ花が降っている。根元の左だけが、空いたままだった。


 提出の日、出席をとる先生の声が、中原さんの名前のところで一度止まって、次へ移った。


 隣の丸椅子は空いている。先生が机を回って絵を集めはじめても、僕は仕上げた一枚を膝の上で押さえたまま、扉のほうにばかり耳を向けていた。


 先生が僕のひとつ前の机まで来たところで、後ろの扉が開いた。足音がまっすぐこちらへ来て、隣の丸椅子が引かれる。


「ごめん、遅れた」


 それだけ言って、丸めてきた画用紙を机に広げる。家で仕上げてきたらしい。僕は筆箱から消しゴムを出して、差し出した。


「あ、これ! どこ行ったのかと思ってた。ありがと」


 二枚をそろえて、先生に渡した。中原さんの紙には、同じ大きさの花びらが、枝のあいだに隙間なく並んでいる。次の課題の説明が始まると、中原さんは三組の女子が固まっている机へ移っていって、隣の丸椅子はまた空いた。


 数日後、課題の絵が廊下に貼り出された。


 昇降口から続く廊下の掲示板に、ペアごとに二枚ずつ並んでいる。昼休みのあいだ、その中の一か所にだけ人が溜まっていた。


「これ、雫ちゃんのだよね」

「じゃあ、隣のは誰の」

「知らない。でも綺麗だし、美術部の人じゃない?」


 人垣の後ろからでも、絵は見える。しゃべっている人たちの見分けはつかないけれど、その中に僕の名前を知っている声がひとつもないことだけは分かった。


 人が引くのを待って、前に出た。二枚の下には一枚ずつ、先生の字で紙が貼ってある。中原さんの絵には『きれいに描けている』、僕の絵には『木の下に人を置かなかった判断が良い』とあった。


 根元の左には、花びらだけの地面がある。そこに立つ人を描けなかったから、描かずにおいた。先生はそれを、判断と書いた。


「判断がいい、だって。かっこいいじゃん」


 隣に並んだ人が、紙を指でつついた。この二枚の前でそんなことを言う人は、一人しかいない。


「中原さんのも、褒められてる」

「きれいに描けてる、だけだよ」


 語尾が軽く上がって、そこで途切れた。中原さんは自分の絵の下の紙に指を伸ばして、浮いている角を押さえている。指を離すと、角はまた浮いた。


 廊下の向こうから、女子の声が飛んできた。


「雫(しずく)ー、何してるの?」

「今行く! ……じゃあね、神崎くん」


 足音が、昼休みの廊下に混ざっていった。上履きの音がいくつも重なって、どれが彼女のものだったのか、すぐに分からなくなった。

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