第29話 焦りの痕跡
違和感に最初に気づいたのは、監査対象ではないはずの書類だった。
「……この修正、記録がありません」
書記官リヒャルトの声は、いつもと変わらず平坦だった。
だが、その一言が示す意味は重い。
「修正日は三日前。しかし、修正指示の履歴が残っていない」
監察官アーデルハイトは、無言で資料を受け取る。
ページをめくる速度が、わずかに遅くなった。
「筆跡は?」
「原本と同一です」
「……本人か」
それ以上、言葉は続かなかった。
だが、空気は明確に変わった。
――痕跡が、残った。
同じ頃、第一王子アルノルト殿下の執務室。
「問題はないのだろうな」
低く問う声に、側近たちは一斉に頷いた。
「はい。数値の調整は、形式上の整理に過ぎません」
「記録も整っています」
その言葉に、殿下は小さく息を吐いた。
「ならいい」
だが、その“ならいい”は、確信ではなかった。
ヴェルナー・シュタインは、沈黙していた。
彼は気づいている。
調整ではない。
整理でもない。
これは――踏み込みすぎだ。
「殿下」
ついに、口を開く。
「この件、監察官が気づけば……」
「気づかれぬ」
アルノルト殿下は、即答した。
「これまで、どれだけの記録が見過ごされてきたと思っている」
ヴェルナーは、何も言えなかった。
それが、最大の違いだった。
かつては、見過ごされてきた。
だが、今は違う。
制度が整い、
記録が残り、
比較されている。
小さな歪みは、すぐに浮かび上がる。
一方、第二王子殿下の執務室では。
「第一王子側の一部資料に、不整合が見つかりました」
アーデルハイトの報告は、簡潔だった。
「現時点では、断定できません。ただし――」
「痕跡がある」
殿下が、静かに続ける。
「はい」
私は、そのやり取りを黙って聞いていた。
ここで何かを言う必要はない。
これは、感情の問題ではない。
手続きの問題だ。
「記録は?」
殿下が問う。
「すべて残しています」
書記官リヒャルトが答える。
その声は、いつもと同じ。
淡々として、容赦がない。
私は、胸の奥で静かに理解した。
第一王子は、焦っている。
そして、焦りは必ず――
痕跡を残す。
それが、今まで何度も見てきた現実だった。
小さな一歩。
だが、それは確実に、
越えてはいけない線へと近づいている。
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