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アルトレウスの娘 ~イグニシア戦旗~  作者: 名も無きサルカズ
アルトレウスの娘

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第5話 時間との競争


 帝国歴467年7月23日 払暁ふつぎょう


 夜明け前の街道を、三騎の馬が走っていた。


 エウスタティウスからの使者、ジュリアーヌス・オ・アルトレウスと、従う従士二名。馬の蹄が乾いた土を叩き、白い息が夜気に消える。


 ジュリアーヌスは、帝都アルトレウス家――そう呼ばれる本家アルトレウス家の傍流の次男という立場の下級貴族だった。

 家風ゆえに帝都官僚層との人脈を持ち、本人もまた官僚として高い能力と、クレバーな交渉力を備えている。


 本家アルトレウス家に仕えるようになったのは、数年前のことだ。

 帝宮への用務で帝都を訪れた当主エウスタティウスが、形式的な挨拶のために立ち寄った分家屋敷で、偶然ジュリアーヌスと顔を合わせた。


政務の雑談の中で交わされた、ほんの数言。

帝都の官僚機構についての率直な指摘と、遠慮のない見立て。


その場で何かが決まったわけではない。

だが数日後、エウスタティウスは彼を本家へ招いた。


 帝国歴467年の深刻な危機的状況において、エウスタティウスがジュリアーヌスの選出を決めたのは、それらに期待してだった。


 「帝都に着いたら、直接帝宮へ向かうのではなく、すぐさまファルセリ家のセルギウス殿のもとへ。わかったな」


 マティアスの言葉が、ジュリアーヌスの耳に残っていた。


 帝都ファルセリ家屋敷まで、最短ルートで。そこで帝都の軍事を担う有力貴族で同じ七家であるファルセリ家の当主セルギウスに事態を知らせ、帝宮への根回しを依頼する。


 ジュリアーヌスはそのとき、当主エウスタティウスとその弟マティアスそれぞれの顔に浮かんでいた表情を思い出していた。マティアスが帝都に抱く感情は極めて強い不信感。そしてそれよりはかなり楽観的ともいえるエウスタティウスですら、帝国を信頼したい願望と、その信頼への疑いが入り混じったかのような複雑な表情だった。


 だが、今はそれを考える時間はない。


 馬を急かし、帝都への道を急いだ。




           * * *


 帝都の城壁が視界に入ったのは、日が高く昇った午前中のことだった。


 遠くにそびえる灰白色の城壁。それは、古記録を散逸した現在の帝国では成立年代すら定かではないほど、古の遺産であった。

 継ぎはぎの修復跡がモザイクのように広がる壁面は、統一感こそ失っているが、三十フィートを越す高さで見る者を圧倒している。


 やがて、帝都の大正門が見えてきた。


 帝都最大の門。皇帝の権威を象徴する、黄金色に輝く装飾を施された巨大な門だ。その前には帝都衛兵が数名控えており、出入りする商人や貴族の馬車をしっかりと視認していた。


 ジュリアーヌスは手を上げて後ろに続く二騎を停止させた。


 「待て」


 短い声で、ジュリアーヌスは後ろの従士二人に指示を与えた。


 「そなたはそのまま大正門を潜り、衛兵たちに伝えよ。『アルトレウス領からの使者が約一刻後に到着する予定なり。帝宮へ受け入れの取次を願いたし』と」


 「かしこまりました」


 指示を受けたその騎乗の従士は、素早く頭を下げ、明朗に返答を返す。


 そしてその従士は馬を進め、大正門へと向かった。衛兵たちが従士の接近に気づき、視線を向ける。従士は何事かを告げ、衛兵たちが何度か頭を動かしながら会話を交わし、やがて従士は城門をくぐって消えた。


 それを見届けたジュリアーヌスともう一人の従士は、大正門から南へ迂回するルートを取ることにした。

 目立つ正面からはアルトレウスの使者が来たと大々的に触れ回らせ、自分は裏から最速で本命のファルセリ家のセルギウスへ接触するためだ。

 「使者が到着後に私邸へ寄り道した」という、後々の政敵からの揚げ足取りを封じるための、彼なりの布石でもあった。




           * * *


 馬を降り、門の外側の石段を登りながら、城壁沿いに南へ進む。


 やがて、主にこの地域の農民が出入りするために使われている、小さな門が見えてきた。


 城壁の各所には、大きな門のほかにポステルンと呼ばれる小さな勝手口のような門がいくつかあり、ここもその一つだ。大正門ほどの装飾はなく、実務的な造りの門だ。石造りではあるが、ひびが入り、何度も修繕されてきた跡がある。その前には衛兵が一人だけ控えており、出入りする農民や商人たちを無関心な目で見ていた。


 「通してくれ」


 ジュリアーヌスが簡潔に告げると、衛兵は何も言わずに門の横に身を引いた。大した身分の者とは思わなかったのだろう。それはジュリアーヌスとしても好都合であったため、こちらから異議を唱えることはしない。


 二人は馬を引いて門をくぐった。


 先ほどの大正門の内側は帝都の云わば公式なエリアであり、そこには一応の帝国の権威と秩序が保たれていた。だがポステルンと呼ばれるこれら通用門の内側は、それとはまったく様相が異なる。


 狭い路地が迷路のように絡み合い、低い家々が立ち並んでいた。瓦葺きの屋根は色褪せ、壁には苔が生えている。往来する人々は薄ぼけた衣装を纏い、肩を並べるようにして通り過ぎていった。市の匂いがした。汗と塵、そして何か腐った臭いが混じった。


かつては一面を埋め尽くしていたであろう市街も、今や門や中央広場の周辺に村落のような密集地を残すのみだ。それ以外は空地や廃墟が点在する、いわば「巨大な器を持て余した村々の集合体」。それが、ジュリアーヌスの知る帝都の真の姿だった。


 朝市の準備をする商人たちが店先に品物を並べ、水売りの少女が樽を担いで歩き回っていた。誰もが生きるために働き、生計を立てるために走り回っている。そこには帝都の華やかさも権威も存在しない。


 ジュリアーヌスは自身にとって見慣れたその光景を一瞥しながら、馬を進めた。


 「北東へ向かえ。ファルセリ家の屋敷までの最短路だ」


 もう一人の従士が頷き、ジュリアーヌスの後ろに続いた。




           * * *


 北東へ向かう迷路のような路地を抜け、やがて帝都の別の顔が見えてきた。


 ファルセリ家の屋敷は、帝都の北東に位置する官僚貴族層が集住する地域にあった。大正門周辺の華やかさとも、ポステルン周辺の市井の賑わいとも異なる、静かで厳格な雰囲気が漂っていた。


 高い石塀に囲まれた屋敷。その塀は装飾を極限まで削ぎ落とした、質実剛健しつじつごうけんそのもの。門も同じく、必要最小限の造りだ。皇帝の権威を示すための黄金装飾など、ここには存在しない。代わりに、ファルセリ家の家紋だけが、門の正面に刻まれていた。


 アルトレウス家の紋章を掲げて門番に要件を告げるとすぐに門は開かれ、ジュリアーヌスたちは馬を降り屋敷へと歩みを進めた。


 中庭に入ると、そこもまた屋敷の姿勢を反映していた。装飾的な水路や庭園などはなく、整然と配置された石畳と、数本の樹木が立つだけ。奥には兵舎らしき建物が見える。ファルセリ家の屋敷は、帝都内でありながら、軍事組織の中心として機能していたのだ。


 執事に案内されて屋敷の中へと導かれた。松明たいまつの光が交互に壁に映っている飾り気のない石造り廊下。

 ジュリアーヌスは思わず苦笑した。帝都の有力貴族の屋敷で、これほどまでに質素な廊下は見たことがない。

 その先にある応接室の扉が開くと、ファルセリ家当主セルギウス・オ・ファルセリが自ら出迎えた。


 年は35歳ほど。赤髪に白髪がわずかに混じり、軍人らしい引き締まった体格。座姿から威厳が滲み出ている。


 その傍らには、若き副司令官ダリオス・オ・ファルセリ(18歳と聞いている)。父に似た体躯で、騎士らしい厳格さと若々しさが共存している。


 そして、帝都出身と思われる黒髪の男性。年はジュリアーヌスより少し上に見え、兵団経験が全身に滲んでいた。おそらくセルギウスの軍事顧問だろう。この男の名前は、後にマルティウス・オ・ペルガモンだと知ることになる。


 「よう参った。挨拶は抜きでよい。話を聞こう」




           * * *


 「北西のドロミア領がどうもきな臭いとは聞いていたが、その件か?」


セルギウスの問い掛けに、ジュリアーヌスは自身の指先が冷たくなるのを感じた。 直面させられている現実に、背筋が凍るような思いがした。


 実直さで知られるセルギウスのその口ぶりは、ジュリアーヌスが予想していたものとは大きく乖離かいりしていた。

 「……昨日届いているはずの第一報を、まだお受け取りでないのですか?」――そう問い直す彼の言葉を待つまでもなく、事態の齟齬は明白だった。


 よもや…いや、間違いない…


 セルギウスは、ドロミア領周辺の事態を不穏な"兆し"としてしか捉えていない。


 昨日の時点で、帝宮には一報が間違いなく届いている。しかし、ここには届いていない。


 応接室の温度が数度下がったかのような錯覚。それは、単なる伝達ミスなどではない。意図的な情報の遮断、あるいは――。

 その事実が、ジュリアーヌスの胸の奥で冷たく形を結んだ。


 なぜ――という問いは、すぐに意味を失った。


 援軍が出ない理由など、帝宮では珍しくもない。利害が絡み、責任が宙に浮き、援軍派遣の決断だけが先送りにされる。


 だが、その停滞は、アルトレウス領にとって致命的だった。


 ジュリアーヌスは一度、息を整えた。


 昨今セヴァリスが表には出ず、小領主同士の小競り合いを名目に侵攻させるのも――

 そうした帝宮内部の優柔不断ゆうじゅうふだんさを、見透かされているが故なのかもしれない。


 隙を決して逃さない、セヴァリスとはそういった国なのだ。


 そんなことを改めて痛感しながら、ジュリアーヌスは報告をはじめた。

 セヴァリスの派遣軍による侵攻、敵軍の兵力、進軍速度、そして何より



 ――帝宮には昨日の時点で既に一報が入っているということを。



 報告が終わると、応接室に沈黙が落ちた。


 セルギウスの表情が一瞬、引き締まった。ダリオスは身を乗り出すようにしてマルティウスを見た。マルティウスも、同じくセルギウスの次の言葉を待っていた。


 セルギウスはジュリアーヌスに視線を戻した。


 「他に伝えるべきことはあるか」


 「マティアス様からは……」


 一瞬の間。


 「『そう長くはもたない』と」


 ジュリアーヌスの言葉が終わると同時に、セルギウスは立ち上がった。


 その動きに、ダリオスとマルティウスも即座に身を起こす。


 「帝宮へ向かう」


 セルギウスの言葉は短く、だが迷いがなかった。


 ジュリアーヌスも立ち上がり、セルギウスに続いた。


 そして副官のマルティウスとすれ違う刹那せつな、セルギウスは彼に目くばせをし、マルティウスも「後はお任せを」と言外に頷き返して答えた。


 応接室を出た瞬間、ダリオスの声が背後から響いた。


 「父上!」


 だが、セルギウスはもう振り返らなかった。


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