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アルトレウスの娘 ~イグニシア戦旗~  作者: 名も無きサルカズ
アルトレウスの娘

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第4話 母と娘


 イザベラ・フォン・ニコメディアは、窓辺で針仕事を続けていた。

 その手の動きは変わらぬ優雅さを保っていたが、瞳は時折、遠くの空を見つめていた。


 「母上」


 フェリシアの声に、イザベラはゆっくりと針を置いた。歩み寄った娘の手を取り、「どうしたの?」と表情だけで問いかける。その手の温かさが、少女の震えを静かに受け止めた。


 「敵軍は…六百ともそれ以上だとも聞きました。私たちには、三百八十しか……帝都からの援軍は、本当に来る、のでしょうか」


 声は途切れがちで、指先は無意識にドレスの裾を強く握りしめていた。軍事を知らぬ身で、必死に恐怖を飲み込もうとする娘の姿に、イザベラは胸を痛める。


 「あらフェリシア、軍議を覗いていたの? いけない子ね。あなたは聡いから色々感じることもあるでしょう。でもね、あなたができる最も大切なことは、お父様や兄様たちを信じることよ」


 「しかし……本当に……」


 イザベラは重ねた娘の手を、さらに優しく包み込んだ。


 「信じるということは、時に最も難しいことね。だけどね、それが今の私たちにできる全てなのですよ」


 イザベラの言葉は、不安を完全に払拭するものではなかった。しかし、その声に宿る静かな強さと母としての温もりが、フェリシアの心を幾分か安らげた。


 このまま館に留まれば、重苦しい空気の中でフェリシアの心はさらに蝕まれていくかもしれない。そう案じたイザベラは、娘を外へ連れ出すことに決めた。


 「フェリシア。一緒に外へ出ましょう」


 「母上?」


 「神殿へ参りましょう。神官の方々に館への避難を勧め、領民への呼びかけについても協力を仰がなくてはなりません」


 娘の気を逸らそうとしていることは隠せていなかったが、それは優しさゆえの判断だとフェリシアにも理解できた。


 「母上が、自ら行かれるのですか……」


 「ええ。フェリシアも一緒にね。外の清々しい空気を吸いに行きましょう」


 イザベラは娘の手を取り、立ち上がった。そして控えていた侍女に外出の段取りを指示すると、すぐに出発するよう促した。




           * * *


 アルトレウス領にある神殿は館の西に位置し、徒歩で一刻ほどの距離にある小さな建物だったが、この領地では重要な信仰の支柱だった。


 日干し煉瓦れんがと木造の建屋には、漆喰の剥落や木部の継ぎ、瓦の張り替えなど、丁寧な補修の跡が幾層にも重なっていた。材料の色の差異は、住民の寄進と、アルトレウス家が限られた領地財政の中から捻出し続けた、細やかな支援の証だ。

 特にその精緻せいちな仕上がりからは、神官と共に汗を流した、派遣した従士たちの金銭以上に尊い「手間」の痕跡が、建屋の隅々にまで刻まれていた。


 道すがら、イザベラは供回りを前後左右に慣れた指示で配置した一方で、フェリシアを自分のすぐ側に置くという対処をごく自然にこなし、何かあれば即座に守る準備を整えていた。


 フェリシアの前では優しき母も、やはり領主の女主人としての振る舞いが自然にできる人なのだ。


 神殿に着くと、イザベラはフェリシアを側に置いたまま、神官長ヒエロニムス・ペルガモンコスを訪ねた。


 五十代半ばの神官。茶髪に白髪が混じり始めた髪、中肉中背の体格。帝都の高位神官たちのような威厳よりも、むしろ平民出身らしい親しみやすさが漂う顔立ちである。それでも長年神官として奉仕してきたためか、その所作には宗教的な落ち着きが備わっていた。


 神官長が穏やかな表情で出迎えたが、その目元には普段とは違う、何か時間を気にしているかのような焦燥感がわずかに滲んでいた。


 「神官長。本日はお忙しいところ急な来訪をお許しください」


 イザベラは敬意を示しながらも挨拶もそこそこに単刀直入に本題を切り出した。


 「火急の要件にて時間の猶予もございませぬゆえ」


 イザベラの声は率直に、それでいて丁寧に事態の緊急性を伝えた。


 「敵軍が迫っております。神殿の皆様にも館への避難を是非お勧めしたいのですが、いかがでしょうか。そして、領民への避難呼びかけに、神殿からもご協力いただきたいのです」


 神官長がゆっくりと首を振り、穏やかだが確かな拒絶を示した。


 「我らの耳にも入ってきております。ですが、私どもはここに留まることにいたします。過分なご心配をいただき恐縮ではございますが、神殿は信仰の象徴。ここを簡単に離れるわけには……」


 ——何かおかしい…


 言葉は途中で濁されこそしたが、まるで最初から用意されていた言葉かのように淀みなく発せられたことにフェリシアは違和感を覚えた。

 それはまるで、拍車を当てて促しているのに、一向に動こうとしない馬。その背に乗っている時のようにもどかしく、得体の知れない拒絶感。神官長の言葉には、そんな「響かなさ」があった。

 一年前の侵攻の際には神殿の神官たちは館に自主的に避難をしてきたぐらいだ。「それなのに、なぜ」という疑念が、うまく言語化できないままフェリシアの胸におりのように溜まっていく疑念。


 何か、言葉の背後に隠されたものがあるのだと、彼女は直感し、隣の母に視線を移すと、彼女も相手がちょうど視線を外した一瞬だけだが、自分と同じように感じているようなしぐさを見せた。


 いや、そうではない。おそらくは自分よりもっとはっきりと、自分が言語化できない部分まで感じ取っているのだと思う。


 イザベラは一呼吸置き、落ち着いた声で続けた。


 「かしこまりました。ですが、領民への避難呼びかけだけはお願いできますでしょうか」


 「それはもちろんでございます」


 うやうやしい所作とともに発せられたその言葉は、フェリシアの目にはもはや、胡散臭さすら感じさせるのに十分な違和感となっていた。


 二人は神殿を出て、夕暮れの道を館へと戻り始めた。


 フェリシアは母の横顔を見つめ、先ほどからの何か言い知れぬ引っかかりについて母に尋ねてみたかったのだが、イザベラはまだ何も口にせず表情にもあらわさなかったので、切り出すことを躊躇われた。


 神殿から出て四半刻も歩いたところで、イザベラはようやく立ち止まった。 その背中からは先ほどまでの母の温もりが消え、領主の妻としての厳しい鋭さが立ち上っていた。

 彼女は左右にいた警護の供を呼び寄せた。


 「その方らはひそかに神殿の動きを監視せよ。誰が、いかなる理由で出入りするか。特に夜間、動きがあれば即座に報告を」

 迷いのない、冷徹さすら感じさせる声だった。

  「決して、気づかれるな。よいな」

 指示のすべてを真剣なまなざしで聞き遂げた彼は、一言も発さず、ただ静かに頷くと、すぐに木陰に身を隠すように離れていった。


 イザベラは再びフェリシアの手を取り、何事もなかったかのように歩みを進めたが、その瞳は遠目に映る神殿に向けられていた。




           * * *


 帝国歴467年7月22日

 その夜が深まる頃、館の中庭には招集兵、家臣、館の使用人達が松明たいまつを手に集まっていた。


 冷えた空気が肌を刺し、炎が揺れるたびに影が壁に大きく踊った。


 軍議の後のフェリシアの様子を横目に見て気になっていたエウスタティウスは次男のセバスティアーヌスからも「フェリシアも気にかけてほしい」と耳打ちされ、家中を安心させ結束させるための何かが必要と考えた。


 この集会は、そのための窮余の一策でもあった。


 エウスタティウスは中庭に集まった者たちの前に立ち、静かに、しかし確かな声で語り始めた。


 「敵軍が迫っている。これはもはや逃れられない現実だ。だが我々は孤立していない。帝都はすでに動き始めている。援軍は必ず来る!」



 マティアスはその言葉の危うさを知っていたが、声を上げなかった。


 今更これに異を唱えたところで事態は悪化こそすれ好転はしない。それはマティアスの本意ではない。



 アウレリウスは父への絶対的な信頼を胸に抱き、父のその言葉に心酔していた。


 いつもの示し合わしたうえでのパフォーマンスともいえる国境の小競り合いなどではない。これから始まるのは本物の戦であり、彼はそこで活躍する自分を思い描いていた。



 セバスティアーヌスは、そんな兄の横顔を見て危惧を深めていた。


 彼には、帝都への不信、家中にある不穏な気配、そして父や兄の危うさが見えすぎていた。その思考は叔父マティアスのそれに近い。だが、見えているものを自らの手で解決すべく動くには、彼の性質はあまりに内省的すぎた。



 フェリシアは娘としての思いを胸に、父の言葉を素直に受け止めようとした。


 心配はいらない、父や兄、叔父たちがきっとこの危機的状況を何とかしてくれる…そう思い込もうとしていた。

 そして、自分にも何ができるかはわからないが、できることは必ずあるはず。そうでありたいと願った。



 「この領地を、この民を、私は守る。皆はその責任を果たす手助けをしてくれ」


 「援軍は3日のうちに必ず来る!」


 その力強い断言は、自らの不安を押し殺すための呪文のようでもあった。そしてその力強い断言に、庭を埋めた者たちから地響きのような歓声が上がった。

 松明の火に照らされた父の顔は、英雄のようでもあり――同時に、物語で見た生贄を捧げる祭司のようにも見えた。

 フェリシアは、その眩しくも恐ろしく映る父の姿に耐えかね、思わず目を逸らした。


 げきを飛ばした甲斐あって、少なくとも家中に一体感が生まれるような雰囲気を醸し出せたことに、エウスタティウスは満足していた。たとえそれが表面上のほんの薄皮一枚のものであったとしても。


 その言葉が中庭に響き終わる頃には、館を包む闇はさらにその深さを増していた。



■ 登場人物紹介ページを作成しました


本作には多くの人物が登場します。興味のある方や、「この人は誰だったかな?」という場面などで、ぜひご活用ください。


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