第3話 領主の義務、弟の叫び
叔父のマティアスが身を乗り出し、鋭く問うた。
「実際のところ、どこまで敵軍の全容が掴めている?」
「それについて、再度偵察のご許可を。日暮れまでに敵の全兵力、側面の配置、背後の動きを可能な限りすべて掴みたいと思います」
エウスタティウスは即座に頷いた。
「そうせよ。だが深追いはするな。時間はそれほど残されてはいない」
マティアスはそれを受け指示を出すべく動こうとしたが、その前に別の家臣が重苦しくなった会議の雰囲気に抗いながら、おずおずと口を開いた。
「閣下、ドロミア……いえ、ヴァルデリク・オ・ドロミアからは、何の知らせもありませぬか。このような軍事行動に及ぶ前に、彼ならば一言、こちらへ寄こしてきそうなものですが……」
そう発言した彼は有事には小隊規模の指揮官を担う家臣だ。その声には、わずかに期待が混じっている。
アルトレウス領の北側に隣接するドロミア領とは、表向きの敵対とは別に、古くから細い交流が続いていた。
表向きは毎年のように国境を挟んでの小競り合いを起こしているが、実のところそれは、ドロミア・アルトレウス両家で初めから示し合わされた、見せかけの戦いだった。
名目上は独立した領主でも、実質的にセヴァリスの強い影響下にあるドロミアには、そのような言い訳が必要だった。アルトレウス家もそれを承知で、長くその建前に合わせてきたのである。
エウスタティウスは答える前に、マティアスに視線を向けた。
「ヴァルデリクからは何か」
マティアスは静かに首を振った。
「何も。先月の会合でも、いつもと変わらぬ顔をしていましたし、何も言ってはおりませんでした。少なくともその時点では、彼は今回の動きを知らなかったようにも見えます」
その言葉は、ヴァルデリクが自発的に動いているわけではなく、何らかの圧力下にあることを示唆していた。
「つまり、旗印はドロミアでも、実態はセヴァリスの軍ということか」
そう問うエウスタティウスに、マティアスは頷いた。
「セヴァリス王国の圧力で表に立てられた、ということでしょう」
「交渉の余地はございませぬか。強制されたのであれば――」
最初に口を開いた家臣が、縋るように言葉を重ねた。その提案は理屈の上では成り立たなくもなかったが、マティアスは冷徹に首を振った。
「難しい。セヴァリスが前面に出ぬのは、帝国との公然たる戦を避けたいからだ。もしドロミアが我らに応じて裏切り、それが露見すれば、王国はすぐさま報復する。あの小領主に、その賭けは選べまい。交渉の余地はない」
「では、ひそかに兵を出させて側面から衝けば――」
また別の家臣が言った。提案というよりも、そうあってほしいという願望の類だった。
「セヴァリス本隊に対して側面から。もしドロミアが我らに加われば――」
マティアスは、その言葉をやや乱暴な動作で遮った。――ありもしない希望に縋るな。現実を見よ。その態度が、所作に現れていた。
「それも無理だ。セヴァリスはすべての動きを掌握せんと動いているはずだ。それにあの小領主にはそこまでの判断力も勇気も――」
マティアスはそこで、その言葉を一度止め、部屋を見回してからエウスタティウスに体を向け言葉をつないだ。
「――これについては議論の余地がありませぬ」
その一言の後、この件について異論を唱える者はいなかった。
エウスタティウスは沈黙を制するように、静かに言葉を継いだ。
「帝都に急ぎ追加で使者を立てる。皇帝陛下へ帝国直轄軍の援軍要請だ。内容は――」
「兄上」
そこでマティアスが、初めて兄の言葉を遮った。
声は静かだった。だが、それが異議であることは、部屋にいた誰にも分かった。
部屋の家臣たちは、その言葉に息を殺した。マティアスが兄に異を唱えることは、極めて稀だからだ。
「帝都への使者も必要です。ですがここは、兄上が直接帝都に赴かれるべきではないかと」
あの帝都で、多くの貴族の思惑が折り重なり蠢いているあの場への不信。エウスタティウスを見るマティアスの表情がそれを物語っていた。
「この地の兵事は、わたくしが代行いたします。領主であり、七家アルトレウス家の当主でもある兄上が皇帝陛下に直訴されれば、使者の報告とは重みが違います」
マティアスの提案は、理に適っている。だが、その提案が簡単には兄に受け入れられないであろうことを、マティアスは知っている。だが、それでもこれは言わなければならない。
エウスタティウスは、マティアスの言葉を最後まで聞いた。
その後、長い沈黙が落ちた。
エウスタティウスは、ゆっくり目を閉じた。
「その進言はもっともだ。だが、できん」
マティアスの目が微かに動いた。
「領主たる者が領地を離れるわけにはいかん。今この瞬間に、この地を離れることは、領民を見捨てることに等しい」
エウスタティウスの声は揺るがない。その声は、選択ではなく、領主としての義務を語っている。
だが、マティアスは頷かなかった。
「兄上」
その声には、初めて感情が滲み出ていた。
「領民のためにこそ、帝都で直訴して援軍を確保する方が重要ではありませんか。ここに留まるだけでは、領民を守ることはできません。ですが、皇帝陛下の元に赴き、当主たる兄上自身の言葉で援軍を願えば――」
マティアスの声はそれでもまだ静かなトーンを保っていたが、その言葉の一つひとつには、兄への強い懇願の念が伺える。
部屋の家臣たちの視線が、一気にマティアスへ集中した。当主が主張するような決定を、家臣が反対するのはアルトレウス家では異例だからだ。だが、それゆえに誰もがそこに必死さを感じ取ってもいた。
エウスタティウスは、マティアスの言葉を聞き終わるまで、何も言わなかった。
「使者だけでは、帝都の有力貴族たちの思惑に埋もれてしまいます。多くの貴族の思惑が重なり蠢いているようなあの場で、当事者が不在ともなれば、皇帝陛下の判断も揺らぎかねません。兄上が当事者として赴くことによって初めて、決定へと導く力を持つのではありませんか」
その言葉は、エウスタティウスの耳に届いた。だが、それでもなお、彼の瞳は揺るがなかった。
「わかっている。お前の言うことは正しい。だが、それでも、ここを離れることはできん。領主が領地を離れるとは、そういうことだ」
エウスタティウスの声は、さらに低くなった。だが、その拒否は、先ほどよりもさらに強固だった。
「しかし兄上!」
遂にマティアスの声は感情を露わにした強い語気で発せられた。その瞬間、部屋にいた者たちが、一斉に息を呑んだ。
「くどい!」
その瞬間、窓の隙間から吹き込んだ風が、卓上の地図の端をめくった。
怒鳴った直後、エウスタティウス自身が、その声の大きさにわずかに息を詰めたように見えた。
怒りというより、苦悶に満ちた兄の表情を見たマティアスは、その後に続けるはずだった反論を、喉に詰まらせた。
兄の瞳の奥にある「逃げ場のない覚悟」を見た。兄は、援軍が間に合わない可能性さえ飲み込んで、この地に骨を埋める気なのだ。
誰も次の言葉を探せなかった。めくれた地図の端だけが、風に小さく震え、沈黙がしばらくの間、部屋を支配した。
会議室の片隅に身を小さくしていたフェリシアは、父と叔父の間から漂い始めた肌を刺すほど冷たい沈黙に、思わず身をすくめた。
――もはや、これまでか。
マティアスは一瞬、唇を噛んだ。その後、ゆっくりと頷く。
「かしこまりました。では、防衛準備に全力を注ぎます」
――兄上のおっしゃる理屈も分かる。
だがそれは、領主としての義務に身を縛られた者の言葉だ。そして、それがまた兄らしいとも、マティアスには思えた。
だが、その判断が一族の命運を、皆の命を、どこまで危うくするのか。兄は本当に分かっておられるのか。
マティアスはそう問いかけたい気持ちを胸の内に抑え込み言葉には出さなかった。それでも、その頷きの重さだけは、部屋全体に確かに伝わった。
周辺領主への援軍要請、帝都への追加使者、防衛体制、民の避難――すべてが冷静に議論され、実行可能な最善が決定されていった。
その一つ一つが、時間との競争であることは、部屋にいる誰もが理解し、逼迫した状況を痛感していた。
軍議が終わり、家臣たちが散会した後、エウスタティウスは部屋の片隅に立ち、窓から広がる領地を眺めていた。
夕陽が草原を赤く染め、遠くの村落からは炊煙が細く立ち上っていた。
それは、まだ壊れていない日常の名残のように見えた。
フェリシアは会議室を出る家臣たちの後ろに続き、廊下へと出た。
父に話しかけようか。
だが、窓辺で領地を眺める父の背中を見た瞬間、言葉は出てこなかった。
会議の中で、叔父に対して自分の言葉で反論しようとする父の声を、彼女は聞いていた。あの時の声に込められていた苦しさ。あの時の沈黙。その全てが、フェリシアに話しかける勇気を奪っていた。
叔父ならば――そう思いかけて、フェリシアはすぐに唇を閉ざした。
マティアスはすでに家臣たちへ指示を飛ばしている。その声は鋭く、会議の中で見た厳しさをまだ残していた。
では兄上たちは――。けれどアウレリウスもセバスティアーヌスも、家臣たちと共に急ぎ足で廊下の先へ消えようとしている。
縋りつくような思いが胸に湧いたが、彼らの背中を見ると、今、自分がすべき言葉など無いのだと悟った。
本当は会議で聞いた話の意味をもっと知りたかった。六百という数字の重さを、誰かに教えてもらいたかった。だが今は、それを父に尋ねる時間も勇気もない。
フェリシアは踵を返し、母の居間へと向かった。
長兄に付き従っていたセバスティアーヌスだけが、妹の後ろ姿を気にしていた。
だが、彼もまた立ち止まることはできない。声をかけることもできぬまま、少し遅れて先を行く兄を早足で追いかけた。
誰もいなくなった廊下には、言葉にならなかった想いだけが取り残されたような静けさが残った。




