第2話 迫り来る現実
館への道のりは、朝の穏やかな光景から一変していた。
同じ草原を戻っているはずなのに、風の音だけが先ほどより硬く聞こえる。馬の蹄が乾いた土を叩くたび、誰も口を開かない沈黙が、いっそう濃くなっていった。
草原を急ぎ足で進む馬上で、エウスタティウスは何度か顔を上げ、周囲の地平線に目を凝らした。
セバスティアーヌスが横に並び、長兄アウレリウスは少し後ろに控えていた。
そしてフェリシアは、手綱を握る指に力を込めたまま、言葉少なに馬を進めていた。先ほどまで馬上で見せていた無邪気な高揚は、もうその横顔には残っていなかった。
館の重厚な石壁が視界に入ったとき、叔父マティアスと数名の家臣がすでに門前に待ち構えていた。
太陽の光が壁に影を落とす中、マティアスは膝を折ることなく、ただ深く頭を下げた。それは単なる敬礼というより、兄の無事を確かめるための短い所作だった。
だが、顔を上げた彼の目には、これから始まる苛烈な現実を、一刻も早く共有しなければならないという硬さがあった。
「兄上。ご無事で」
「報告を聞こう」
マティアスの声は平坦で、感情の揺らぎを一切感じさせなかった。その目は、状況の厳しさを正確に理解している者のそれだった。
エウスタティウスはその瞳の色から、弟マティアスが既に状況の深刻さを見抜いていることを察した。
「すでに速報の使者は出立させました。セヴァリスの正規軍が関与している可能性、敵の兵力見積もり、進軍速度――詳細な報告書を携えてです。すでに出立から半刻は経っております。順調であれば、昼前には皇帝陛下のもとへ報告が届くものと思われます」
帝都までは約八リーグ。伝令なら二、三刻で着く。
御前会議がすぐ開かれ、援軍の決定がその日のうちに下れば、練度の高い常備軍なら翌日には間に合う。
御前会議が紛糾せず、即座に動いたとして、だが――。
そこから先に浮かぶ可能性に、エウスタティウスは今だけは目を背けた。
父としては無責任かもしれない。
それでも、その「もしも」を今の子供たちに告げることだけはできなかった。
「敵軍は今どのあたりか?いつ到達する?」
マティアスの後ろに控えていた、領軍の副隊長格――ディオニシウスという若い騎士が一歩前へ進み出た。
「国境の守備隊からの報告では今朝の時点で、敵軍は国境から二リーグをこちらに向けて進軍中とのこと。本日は国境の小川の手前に陣を張るものと思われます」
ディオニシウスは一呼吸置いた。
「こちらからの手出しがない場合は、明後日には館周辺に達する可能性もあります」
その言葉が落ちた瞬間、誰もすぐには口を開かなかった。馬の鼻息と、遠く草木を揺らす風の音だけが残った。
「軍議を開く。主だった家臣をすべて集めよ」
エウスタティウスは馬から降りながら静かに命じ、その声にはいつもの穏やかさが残っていたが、そのいつもとは違う声色の変化に状況の深刻さがその場の誰にも伝わった。
* * *
館の会議室は、壁灯代わりの松明の煙が薄く立ち込め、蝋と古い木材の匂いが混じり合っていた。
十名の家臣たちが円卓を囲み、マティアスはその中に立ち、エウスタティウスの言葉を待っていた。
壁に掛かった古いタペストリーが、わずかな風で揺れていた。
だが、部屋に満ちた重苦しさの中で、それに目を向ける者は誰もいなかった。
「現在の我らの兵力はどうなっている」
先ほどのディオニシウスが一歩進み出て、声を落としながら答えた。
「領内で徴募できる招集兵が約二百八十、常駐兵が七十。館の使用人たちにも武装させれば、さらに三十。総数は三百八十程度となる見込みですが、今回の敵の装備・練度と比較するべくもありません」
会議室の片隅で、フェリシアは身を小さくして座っていた。
父が馬から降りて会議室へ向かう際、彼女もどさくさ紛れに後ろについていったのだ。居並ぶ家臣の半数ほどはその存在に気づいていたが、あえて咎める者は誰もいなかった。
他家であれば、厳しく叱責され、その場から追い出されていたかもしれない。
アルトレウス家でも、女性が軍議に口を挟むことは許されない。だが、子供が部屋の隅で大人たちの話を聞いている程度なら、あえて咎め立てしないだけの寛容さはあった。
卓を囲む面々の配置は、フェリシアにも大体は把握できている。
卓の手前、壁際には叔父――マティアス・オ・アルトレウスが腕を組んで立っていた。
大柄な体を揺らすことなく、場を見渡す視線は静かだが鋭い。
その奥には、軍務で叔父を支えるディオニシウス。
そして卓の背後、最後列に追加で置かれた椅子には――彼女も顔をよく知る、ヴィクトル・オ・シルミウムとグレゴリウス・オ・マケドニアが控えめに座っていた。
ふさふさの黒髪と頬の傷が目を引くヴィクトル。その横には、薄くなった髪を思い切って剃り上げたグレゴリウス。二人とも父に仕えた古い部下だ。
エウスタティウスは卓の端に手を置き、報告を促す。
「続いて敵軍の報告です」
「北境で敵影が確認されました。旗の紋章はドロミア軍のものです。数は六百以上」
騎士の報告にその場の面々の表情が微かに強張った。
「ただ、あれは招集兵の寄せ集めではありません。装備と動きから見て、王国の正規兵の類と思われます」
報告役の騎士が続ける。
「進軍の足並みも揃い、隊列の乱れも少ない。かなり統制された兵です。さらに別動隊の存在の可能性も否定できません。輜重隊が随伴しているのかも現時点では不明です」
フェリシアは、指先に伝わる木卓の感触を確かめるように、そっと押さえた。冷たい。その冷たさが、現実の重みを伝えていた。
六百。数字だけなら分かっているはずなのに、実感が追いつかない。
こちらは、かき集めても三百八十。
それに対して敵は六百以上。
フェリシアには、その差が戦術の上でどれほど深刻な意味を持つのかまでは分からない。だが、数字が告げられた瞬間に部屋の空気がいっそう重く沈み、家臣たちの顔に動揺が走ったことで、それがただ事ではないのだと肌で悟った。
そして、領主エウスタティウスもまた、家臣たちのその微かな動揺を見逃してはいなかった。




