12、離宮での暮らし
柃華たちが離宮で暮らしはじめて、しばらく経った頃。
陶岳国の次兄、愁飛から便りが届いた。通信用の鳩ではない、駅站という街道沿いの宿場ごとに郵便を繋いでいく方法で届けられている。
陶岳国の山を越える商人に便りを頼み、南洛国に入ってからは整備された郵便を使ったのだろう。
夜、蚊遣りの煙が立ち上る四阿で柃華は書を紐解いた。
榧の木の葉を燃やした煙の匂いを蚊が嫌うので、離宮ではよく焚いている。すでに馴染みの匂いになってしまった。
蒼海は任春が寝かしつけてくれている。
四阿には凌星も座っている。
愁飛からの便りには、離宮で暮らすことになった柃華のことを喜ぶ文面の後に、本題が書かれていた。もう暗号ではない、そのまま読める文章だ。
――兄、威龍が密偵として使っていた女官が処刑されたことは、陶岳国には伝わっていません。柃華が後宮を出たことも。兄は井紅雨を南洛国に送るべく、牢から出しました。そして刺されたのです。
巻物を持ったまま、柃華は息を呑んだ。四阿の卓に置いた蝋燭の明かりが夜風に揺れて、柃華と凌星の顔を暗くする。
――長い獄中の暮らしでうす汚れた紅雨を見た兄は、眉をひそめていました。そして紅雨に近寄り、垢にまみれた衣の胸もとを剥いだのです。「風呂に入れて、食事をさせろ。もっと肥え太らせるんだ。これでは南洛国の皇帝に見向きもされんだろう」と。
肋骨が浮き出るほどに痩せた紅雨は、乳房を露わにしながら兄を突き飛ばしました。
弱い女性の力でも、油断していた兄はそのまま倒れたのです。後頭部を強く打ちましたが、一命はとりとめました。ですが歩くことも腕を上げることも困難で、兄は床に就いたきりです。
絶句した。柃華と凌星はただ視線を交わすのみで、言葉も出ない。
――紅雨は追放されました。兄は、彼女の処刑を強く望みましたが、もう起き上がることができず、喚き散らすだけの王太子に従う臣下はおりません。
父と母は激しく落胆し、王座を私に譲ると宣言なさいました。
「愁飛兄さまが、陶岳の王になるの?」
思いがけない知らせに、柃華は声を上げた。
――腹の底の知れない黒水族との繋がりよりも、私は南洛国と友好関係を結ぼうと思っています。いずれ宣皇帝に謁見しますので、その折に柃華たちに会うことができますよ。
文にはこうも書いてあった。頭から血を流して倒れる威龍を、紅雨は踏みつけたのだと。威龍の頰に汚れた足を載せながら「ざまぁみろ!」と叫んだそうだ。
「ざまぁみろ」とその一言のために、紅雨は獄中での惨めな暮らしを耐え忍んだのだろう。
もう動くこともできない威龍を憐れむ感情は、柃華には湧きあがってこない。
故郷がより良い国になるためには、威龍は邪魔であった。そうはっきりと気づいてしまったのだから。
◇◇◇
翌日の朝、柃華と凌星は海辺の砂浜を歩いていた。さくさくと砂に足が沈んでいく感覚は、初めてだ。
しばらく歩くと、布の沓の中にまで砂が入り込んでくる。痛いわけではないが、不思議な心地だ。
これから陶岳国は良くなる。それは分かっているのに、威龍が自ら招いた惨事に気持ちが晴れない。
「柃華、朝食もあまり食べなかったようだが。苦夏になるぞ」
「そうですよ。目の下に隈ができています。夜も眠れなかったのでは?」
凌星だけではなく、蒼海と手を繋いだ天遠にも心配されてしまった。
苦夏は夏バテのことだ。ふと、暑さに負けた柃華のために涼茶をふるまってくれた皇后娘娘のことを思い出した。
「リンホアさま。ほら、みてみて」
前を行く蒼海が、しゃがみこんで拾ったものを柃華に見せる。右腕を上げた蒼海を護るように天遠が駆け寄った。
もっとも蒼海の命を狙う者は離宮にはいない。
「へんなのがおちてるの」と駆け寄ってくる蒼海が流木につまずいた。
「危ない」と、とっさに蒼海を抱えあげたのは天遠だ。まだ走っている途中の蒼海は、宙で足を交互に動かしている。
現在の天遠の任務は、もっぱら蒼海が転ぶのを未然に防ぐことになっている。
「転倒予防の仕事ぐらいが平和でいいんじゃないか?」と、凌星は気楽だ。
「暑い時期ですから怪我をすると治りも遅いですし。蒼海も大泣きしますからね」
ぶらぶらと抱っこされた状態で蒼海が運ばれてきた。小さな手に、にょろんと尖った部分が五か所ある奇妙な物を握っている。
磯の匂いが強いし、ぶつぶつした突起が表面を覆っている。色は橙色っぽい茶色だ。
「え、これは海の生き物ですか? 貝ではありませんよね」
蒼海は気軽に握っているが、柃華は腰が引けている。もし蒼海に「これ、リンホアさまにあげるね」とか「おへやにもってかえるね」と言われたらどうしよう、と困惑した。
「海星だな。なんだ、柃華は見たことがないのか」
なぜか凌星は得意げだ。
「種類によっては、焼いたり揚げたりして食べるそうだ。まぁ、あまりうまいものではなかったが」
「凌星さまは、召し上がったんですか? これを?」
「そういえば海星を乾燥させて砕けば、虫や小動物を忌避することができるといいますよ。食べることもできますし、殻も使える。蒼海さまは万能の品を見つけましたね」
言葉を添えたのは天遠だった。
そこを褒めたら蒼海は調子に乗ってもっと海星を集めるに違いない。
「ツァンハイ、すごいのみつけたから。りっぱなこうしゅになれる?」
「え? 公主ですか」
突然の問いかけに、柃華は驚いて目を見開いた。
「こうしゅになったらね、リンホアさまを、いいこいいこするの」
「ふふ、楽しみにしていますね」
立て続けに事件があり、蒼海も心細い思いをしたはずだ。なのに、幼いながらに自らの立場を考えるようになったのは、閉ざされた後宮を出たからかもしれない。
ふと、柃華は気づいた。
珍しい海星を蒼海が見せてくれたのも、凌星や天遠が軽口を叩くのも。すべて気が塞いでいる柃華の心を明るく照らすためなのだと。
優しい子なのだ、蒼海は。
「蒼海、離宮に戻ったら任春に教えてもらって涼茶を作ってみましょうか」
柃華はしゃがんで、蒼海に顔についた砂を指で払ってあげた。
「いっしょにつくっていいの?」
「ええ、いずれ愁飛お兄さまがいらっしゃいますから。この臨洛の暑さに負けぬように、ふるまってさしあげましょう。そのためには練習ですよ」
いつか蒼海が公主に冊報され、この手を離すその時まで。憂いよりも、楽しいことを積み重ねよう。
「ツァンハイ、りっぱにつくれる? たくさんつくってもいい?」
「勿論です、わたしがお手伝いしますからね。たっぷりと用意しましょう」
涼茶の中でも確か五花茶は、苦みが少ないはずだ。五種類の花――金銀花、菊花、鶏蛋花、木綿花に槐花なのだから、苦くなる要素が少ない。
乾燥させた花や蕾を鍋で煮出して、ザルで漉し。黄氷糖を溶かして甘味をつける。凌星が教えてくれた涼茶の作り方で問題はない。
大丈夫、おいしい五花茶ができるはず。
「えへへ。リンホアさま、だぁーいすき」
海星を握ったままの手で、蒼海が柃華に抱きついてきた。後宮でもこうしてよく抱きしめていたけれど、少し背丈が伸びただろうか。
子供の成長が嬉しくて、けれど少し切なくなる。
今日、この時のことを。後宮での、そして離宮での日々の暮らしを。蒼海がずっと覚えていてくれるといい。
「まぁ、愁飛殿下にふるまう前に、最初に柃華お手製の涼茶を飲むのは私だがな」と胸を張る凌星の言葉を、海風がさらった。
飲みやすいはずの五花茶がとてつもなく苦いことを、凌星はまだ知らない。
柃華だって知らない。
《了》
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