18.タージマハル
4月初旬、賢孝と奈津美はスワンナプーム国際空港で出国手続きを取っていた。タイランド国際航空、インディラ・ガンディー国際空港行10時発の便に搭乗予定の2人は小さめのキャリーバックをそれぞれ引きながら出発ゲートに向かっていた。
「奈津美がインドに行きたいなんて意外だったけど、せっかくの誕生月なのにインドで本当に良かったの?」
「前から行ってみたかったけど、女1人のインド旅はさすがに危ないって聞いてたから自重してたの。賢孝も興味あるって言ってたし、ちょうどいいじゃん」
日本からだと7~8時間はかかるニューデリーも、バンコクからだと4時間30分で到着出来る。旅行が好きな人間にとっては、バンコクは地理的に非常に便利な場所だ。1~2時間のフライトで行ける国も数多くあるし、直行便が接続している都市も非常に多い。その地の利を生かして賢孝と奈津美はタイ以外の場所でも定期的に旅行を楽しんでいた。
ニューデリーまでのフライトはあっという間だった。入国審査を順調に終え、予約したホテルに付帯している送迎サービスのドライバーを探す。他のアジアの国と同様にここインドでも空港タクシーのボッタクリがえげつないらしく、各ホテルには必ず送迎サービスが付いている。バンコクも一昔前までは空港タクシーが悪質過ぎることが社会問題となり、政府主導のシステム化によりクリーンな環境にした経緯がある。奈津美が「Mr ISHIDA」と書かれたプラカードを持っているドライバーを発見し、声をかけたらにこやかに出迎えてくれた。送迎用の車止めまで100mほどあるからそこまで徒歩で移動することになり、外に出ると早速インドの洗礼が待ち受けていた。4月というのに体験したことの無い恐ろしい暑さで、賢孝と奈津美は外に出た瞬間、顔をしかめて思わず立ち止まった。デジタルの気温計は「42℃」と表示されている。
「ちょっと……。これマジかよ」
「4月で40℃以上って、どういうこと?」
2人の様子を見て、ドライバーが白い歯をむき出しにして笑っていた。彼の説明によると、ニューデリーは「10~3月の乾季」「4~6月の暑季」「7~9月の雨季」に分かれていて、暑季が最も暑く、50℃以上を記録することも珍しくないそうだ。不思議なことに4月よりも8~9月の方が涼しいらしい。それにしてもこのうだるような暑さの中なのにドライバーの彼は長袖のシャツを着ているにも関わらず平気な顔をしている。生まれ育った環境は、人間をこんな状況にも適応させるということに賢孝は驚いた。
空港を出発し、バイパスを走って市内へ向かう。途中、すさまじい数のタワーマンションが建設されている光景が目を惹き、冗談のように高級車と馬車が同じ道路を並行して走行しているのが見えた。数十年後、世界を制覇するであろうインドがまさに今、物凄いスピードで発展していることがリアルに体感できる象徴的な情景であった。信号が赤になり車が停車した途端、両側から一斉に子供達が土産物を持って車を回り「買ってくれ」と窓を叩いている。その衝撃的な光景に奈津美は驚いて絶句していた。
「絶対に窓を開けちゃダメ。1人から買ってしまったら、あの人は買ってくれると思って何十人も集まってしまい、車を動かせなくなるから。街中で歩いてても、同じだからね」
ビックリし過ぎてドライバーの説明に賢孝と奈津美はうまくリアクション出来ずにいた。急速に成長しているとはいえカースト制度の名残がまだ濃いインドでは、貧富の差が絶望的に逆転不可能な現状となっている。それにしても、こんなにもカルチャーショックを受けたことは今まで無かった。
「こんな程度で驚いてたら、街中に行ったら身が持たないよ」
ドライバーが笑ってそう言ったのを聞き、さらに賢孝と奈津美は不安になったが、同時に何が飛び出してくるのかという好奇心も掻き立てられていた。
インド最大の鉄道駅であるニューデリー駅から縦に伸びているパハールガンジのメインバザール通は、国内外の旅人や地元の人々で賑わうツーリストエリアだ。混沌としたその街並みと混み具合、お世辞にも衛生的とは言えないそのエリアはまさに「カオス」という言葉が最も似つかわしい場所であった。あまり経費をかけたくない賢孝と奈津美は、その一角にあるイエス・プリーズホテルに宿泊することにしていた。日本人スタッフが常駐していることと、ネットの口コミがそれほど悪くないことが決め手となった。ホテルのエレベーターのドアが手動で開閉するタイプだったことには驚いたというより笑ってしまったが、肝心の部屋の中は「可もなく不可もなく」というレベルでとりあえずホッとした。これで1泊1000ルピー、日本円で約1600円というのは割とコスパはいいだろう。
「賢孝、早く街を散策してみようよ」
部屋に入ってすぐ、奈津美が興味津々といった様子で急かすように賢孝に準備を催促したので、すぐに外に出ることとなった。メインバザールは大国の首都の駅前とは到底思えないほど不衛生でゴミも散らかっており、やせ細った野良犬や牛が我が物顔で道路のど真ん中に鎮座している。安宿や雑貨屋、カレー屋などがひしめき合い、賢孝と奈津美が歩いているとやたらとインド人が話しかけてくるのだがそれが興味本位なのか何かをボッタくろうとしているのかわからない。空気もとにかく埃っぽいし道路自体もまともに舗装されておらず、所々に水たまりがある程であった。環境的には最悪だがこれがきっと旅人達が語るインドらしさなのだろう。綺麗に整備されては逆に魅力が半減してしまうのかもしれない。
「賢孝、あれに乗ろうよ」
インド版のトゥクトゥクは、オートリキシャと呼ばれていてバンコクよりも簡易的だ。ノリのよいドライバーが声をかけてくるが奈津美は全てスルーして、端の方にいた無口で地味な年配のドライバーに声をかけ、値段交渉をし始めた。1時間くらい街中を回りたいと伝えると100ルピーと提示され即決して乗車した。
「奈津美、何で他をスルーしてこの人にしたの? しかも値引き交渉しないで即決だったし」
「ああいうノリがいい連中は決まってボッタクリだし、調べておいた相場通りの金額を最初に言ってきたから、この人は信用出来ると思ったの」
奈津美の生命力ならどこでも生きていけるな、と賢孝は思った。オートリキシャの安っぽいエンジン音は意外にうるさく会話の妨げになる上に、吹き付ける風はドライヤーの温風のようで爽やかさの欠片も無かったが、それでも見慣れない異国の風景に賢孝と奈津美の気持ちは否が応にも高揚していた。ムガル帝国時代の城塞ラール・キラーや巨大マーケットエリアのコンノートプレイスなどを回り観光を楽しんだ2人は、一旦ホテルに戻り夕食前に水シャワーを浴びることにした。熱中症にならないよう、一度身体をクールダウンする必要がある。
「まるで低温サウナに入った後の水風呂みたいな感じだね」
シャワーから上がり髪をタオルで巻いた奈津美が笑いながら言った。2人とも普段からサウナに通っているせいなのか、この暑さにも耐性があり、グッタリするということは無かった。
翌日、ニューデリー駅から鉄道に乗りタージマハルを見に行くことにした。バスやタクシーだと片道4時間かかるが、高速鉄道だと1時間半で到着出来る。普通運賃の他にミドルクラスとアッパークラスの座席があるらしいが、衛生面や快適さを考慮してアッパークラスのチケットを購入した。ニューデリー駅は大国のメインステーションらしく、ホームの数が一体どれくらいあるのか数えられない程の広さであった。午前10時40分にアーグラ駅に到着した賢孝と奈津美は駅前でオートリキシャを拾い、目的地に向かうことにした。やはりここでも一番気の弱そうなドライバーに声をかける。そしていつも通り、目的地に向かいながら奈津美は解説が載っているウェブサイトを音読してくれた。
「タージマハルは、総大理石の墓廟。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した。インド・イスラーム文化の代表的建築である」
愛する奥さんのために作ったお墓が、世界有数の観光名所になっているという訳だ。現代では考えられない壮大過ぎる愛情表現だな、と賢孝は思った。目的地の入口のセキュリティーゲート前に到着し、ドライバーに50ルピーを渡した。待っててくれるなら帰りも乗るよ、と伝えると快く承諾してくれた。
ゲートを通過し、視界に広がったタージマハルはその名の通り貴婦人のように高貴な佇まいで、左右対称の庭園と大理石のコントラストの美しさに誰もが心を奪われ、賢孝と奈津美と同様に他の観光客もその秀麗な姿に入口で思わず足を止め見惚れていた。
「わぁ、綺麗……」
奈津美は瞳をウルウルさせながら、ため息をついた。完全に心を鷲掴みにされた様子で何度も「綺麗だね……」と感動し続けていた。タージマハルの内部には王妃と皇帝の棺が並べて安置してあり、周囲の壁には無数の宝石が埋め込まれていて、どれだけ皇帝が王妃を愛していたのか、その想いが伝わってくるようであった。
「すごく愛してたんだね、きっと。重機も何も無い時代に奥さんのお墓をこんな規模で作らせた訳でしょ。同じ女として思うと、王妃は本当に愛されて幸せだっただろうな」
感慨深げに奈津美は言った後、賢孝をとても愛しそうに見上げた。美しい髪を揺らす、ヤムナー川から吹き流れる生暖かい風。大理石から照り返す眩しい白日の光線。壮観な愛の物語。そして運命の人。全てが宿命だったような思いで、賢孝はその止まった時間に身を委ねた。奈津美も言葉は無かった。最愛の人に巡り合えた尊さを祈るように微笑みながら見つめ合った。
「奈津美、愛してる……」
「賢孝、わたしもあなたを愛してます……」
皇帝と王妃の愛の詰まったタージマハルで、2人は永遠の愛を誓い合った。
賢孝と奈津美の愛は、非の打ちどころの無い全美な姿であった。
ニューデリーに戻ったあと早めに就寝した翌朝、賢孝は少しの頭痛で目が覚めた。気を付けてはいたが軽度の熱中症なのかもしれない。身体が怠く、なかなかスッキリと目を開けられずにいた。念のため用意してあったから頭痛薬を飲むことにしようと身体を起こしたら、ベットに奈津美がいない。いつも早起きだから散歩でもしてるんだろう。そんなことを考えていたら、スマートフォンが鳴り電話を着信した。奈津美が起こしてくれようとしたのかな、と思い、電話に出た。
「賢孝くん、起きた? 今日仕事だから、そろそろ起きなきゃダメだよ」
「え? 仕事って……」
「わたし身支度しようと思って一旦帰ったんだけど、賢孝く」
血の気が引いて、思わず電話を切った。奈津美ではなく、美里の声であった。恐る恐る周囲を見渡してみる。
あまりにも残酷であった。
そこには札幌で元々住んでいた部屋の光景が広がっていた ──