セリウスはラニアに頼む
冬が終わろうとしていた。
森の雪はまだ溶けきらないが、空気の奥にわずかな緩みがある。
けれど今年、魔獣の襲来はなかった。
備えは空振りに終わり、城には静かな安堵が広がっている。
——だが、セリウスにとっては違った。
彼は婚約者の薬を見つけられなかった。
皇国へ帰る約束の日が、刻一刻と近づいている。成果もなく、手ぶらで。
何もない北の領地の日々。そう思っていた。
しかし、何もなかったわけではない。
少なくとも、セリウスにとっても、ローデンにとっても。
人の少ない中庭の回廊。
ラニアが一人でいるところを見計らい、セリウスは声をかけた。その背後には、いつものようにローデンが控えている。
「今、いいかな?」
柔らかい声音。
「何?」
ラニアの返事は、温度がなかった。
「前にくれた葉。あれは、君が作ったのだろう?」
セリウスは遠回しにせず、切り込む。
「どうして、そう思うの?」
視線は合わせない。
「ローデンを見ていたら、わかるさ。あとは消去法だ」
当然だ、とでも言いたげな顔。その言葉に、ローデンはわずかに目を見開いた。
「彼女の病も、君ならわかったのだろう?」
……まさか、そこまでなのか?
ラニアは、ようやく口を開く。
「……彼女は、内からの病。僕のは、抑えるだけ」
淡々とした事実。
「皇国には、来れないな……」
セリウスは小さくため息をついた。
「よく、わかってるね」
「アグネッタ殿の件が、あったからね」
その名が出た瞬間、空気が重くなる。しばらく、沈黙が続いた。遠くで風が鳴る。
やがて、セリウスが静かに言う。
「お願いがある。もう一度、あの葉をくれないか?」
あの後、急ぎの手紙が届いたのだ。小さな袋の薬草が、わずかに効果を示したかもしれない、と。それは、婚約者に仕える者からの報せだった。
希望と呼ぶには小さい。だが、無視できない。ラニアは少し考える素振りを見せ、そして言った。
「……ローデンを、少し貸してくれるなら?」
……は?今、何て言った?ローデンは思わずラニアを見る。その顔は、悪戯を思いついた子どものようでもあり、計算しているようでもあった。
一瞬の間を置いて。
「お安いご用さ」
セリウスはにこやかに言い、ローデンの背中をぽんと押した。
とても良い笑顔で。
「じゃあ、借りるね」
ラニアはそれだけ言うと、くるりと背を向けた。調合室へ寄り、リリアーナに
「少し泉に行くね」
と軽く告げる。
止められることもなく、鞄を肩に掛けると、ローデンを見ることもなく歩き始めた。
ローデンは無言で、その後ろをついて行く。
……泉?あれか。どうして俺が行くんだ?
問いは浮かぶが、足は止まらない。
気づけば、ラニアの横にロキがいた。いつの間に現れたのか、音も気配もなかった。
森へ入る。
枝を踏む音が、やけに響く。だがラニアは迷わない。雪の残る地面を、当然のように進んでいく。
まだ空気は冷たく、吐く息は白い。やがて、泉が見えた。森の奥にぽっかりと開いた、静かな水面。その周囲だけ、空気が重い。
ローデンは一歩踏み込んだ瞬間、眉をしかめた。
……魔力溜まりか。そう、言ってたな。
肌が粟立つ。胸の奥がざわつく。慣れない者なら、立っているだけで酔うだろう。
それでも、ラニアの後ろに立つ。
ラニアは鞄を下ろし、中から玉を取り出した。それを、胸に抱く。
「ロキ、ローデンと少し遊べる?」
まるで庭先での会話のような調子。
……どういう意味だ?ローデンがそう思った瞬間。
背筋が凍りついた。ロキから、魔力が溢れ出す。あの森で感じた、膨大で底知れない圧。
空気が震える。
ローデンは瞬時に身構えた。腰の剣に手がかかる。
ロキは動かない。ただ、そこに立っているだけ。だが、圧だけが増していく。
視界が歪む。呼吸が浅くなる。
ローデンは構えたまま、動けない。
膠着。
時間が引き延ばされたように、長い。
——次の瞬間。魔力の圧が、真正面から叩きつけられた。
重い。押し潰される。考える暇などなかった。
ローデンは剣を振るった。
魔力の圧は、斬れるのか?そんな理屈はない。ただ、身体が反応した。刃が空を裂く。
鋭い一閃。
圧が、弾けた。
霧が散るように、魔力が四散する。静寂。荒い呼吸だけが響く。ローデンは気づけば、全身から汗を流していた。
冬の森だというのに、背中は熱い。剣を握る手が、わずかに震えている。ロキは、ただ静かにこちらを見ていた。
試されたのは、力か。それとも——覚悟か。
ラニアは振り返らない。
玉を抱いたまま、泉を見つめていた。




