婚約者の手紙を運ぶ使者①
セリウスの婚約者から手紙を託された使者は、内心、なんとも言えない複雑な気分でいた。
「どうしても、セリウス様が元気でいらっしゃるか、確かめてきてほしいの。ずっと、お会いできていないのだもの」
そうお嬢様に頼まれてしまえば、嫌だとはとても言えない。幼い頃から仕えてきた身だ。あの優しい声で願われては、断る理由など持てるはずもなかった。
とはいえ、現実はなかなか厳しい。給金は出るとはいえ、道のりは長く、行き先は都から遠く離れた田舎の地だ。旅情を楽しむ余裕など、きっとないだろう。舗装もされていない道を揺られ、宿もろくに整っていない場所を渡り歩くことになるのは目に見えている。
だが、出立を前にして、そんな不満めいた思いはすぐに胸の奥へと沈んだ。
お嬢様が、こほ、と小さく咳をしたからだ。
その音は、以前よりもどこか弱々しく、部屋の空気をひりつかせた。ここ数日、毎日服用していた薬は、もう底をついている。アグネッタ様が調合してくださっていた、あの薬だ。侍女たちも、医師も、屋敷の者たちも、皆が皆、お嬢様の様子を気にかけていた。
誰も口には出さない。だが、皆、同じことを思っている。
早く、何か手を打たなければならない、と。
使者は、強く拳を握りしめた。
これは単なる伝言ではない。
お嬢様の不安と、願いと、そして焦りを運ぶ旅なのだと、ようやく理解したのだった。
使者は、予定どおり屋敷を発った。
幾度も馬車を乗り換え、道を進み、やがて国境を越える。かつて戦火を交えたこともある国へ足を踏み入れるときは、さすがに胸の奥がざわついた。不安と緊張は、旅のあいだずっと、うすく身体にまとわりついていた。
だが拍子抜けするほど、旅路は平穏だった。検問も形式的で、人々は穏やかで、噂に聞いていた荒々しさなど、どこにも見当たらない。
そうして北の領地へと辿り着き、ついにセリウスの姿を目にした。
相変わらずだった。姿勢も、物腰も、落ち着いたまなざしも、以前と何一つ変わらない。遠い土地であっても、彼は彼のままだった。
安堵とともに、使者はお嬢様の言葉を思い出していた。
――咳のことは、セリウスには内緒にしていてね。
言いつけは、確かに胸に刻んでいたはずだった。けれど、会話の流れのなかで、ふとした拍子に、口が滑ってしまった。
お嬢様が、少し咳をなさっていること。薬が切れていること。ほんの少しのことだ、と、そのときは思った。
もしセリウスが会いに来てくれたら、それだけでお嬢様はきっと笑顔になる。少しくらい伝えても、悪いことではないはずだ、と。
だが。
その言葉を聞いた瞬間、セリウスの顔色が変わった。静かな湖面に石を投げ込んだように、空気が張り詰める。
使者は、瞬時に悟った。
――話すべきではなかった。
「一日、ここに泊まってほしい。それまでに、薬が見つかるかもしれない」
セリウスはそう言った。
その言葉を聞き、使者は気づいた。――まだ、見つかっていないのだと。見つかるかもしれない、という言い回しが、すべてを物語っていた。待ったところで状況が変わるとは思えない。そう理性では分かっていたが、使者が返事をするよりも早く、セリウスは踵を返し、その場を去っていった。
引き止める間もなく、背中だけが遠ざかっていく。
取り残された使者は、しばらくその場に立ち尽くしてから、小さく息を吐いた。
……少し、疲れているな。
長い旅路の疲労が、いまになってどっと押し寄せてくる。ならば、せっかくの申し出だ。一日くらい、何もせずのんびりするのも悪くない。
とはいえ、この場所には、驚くほど何もなかった。娯楽も、賑わいもない。ただ静かで、風の音だけが耳に残る。
それでも。お嬢様の手紙は、無事に渡すことができた。
そして何より、セリウスが滞在している場所を知ることができた。これを伝えれば、お嬢様はきっと安心して、笑顔を見せてくださるだろう。
そのことを思うと、胸の奥が、少しだけ軽くなった。




