城に帰りました
歩むリリアーナの心臓は、うるさいほどに鳴っていた。ラニアの手が、強く引く。その感触がなければ、きっと足がすくんでいた。
――本当は、逃げ出したかった。
それでも、このまま城へ戻れば、自分はきっと、ずっと後悔する。その確信だけが、彼女を前へと押していた。
繁みを抜けた、その先に――いた。
狼型の魔獣。
その中でも、一回り大きい個体。だが、威圧感よりも先に目に入ったのは、全身を覆う、夥しい血だった。地面にも、赤黒い血が広がっている。
「……ひどい、怪我……」
喉が、こくりと鳴る。
魔獣は、ラニアとリリアーナを見ても、全く動こうとはしなかった。リリアーナは、ラニアの手をそっと離した。そして、ゆっくりと魔獣へと歩み寄る。
「……少しだけ、治すわ」
自分に言い聞かせるように、静かに告げる。
「後ろから襲われたら、困るから……」
震える手を、必死に抑えながら、魔獣に触れようとする。
怖い。それでも、止めなかった。
――魔力を、流す。
(……矢じゃない。剣でもない……)
傷の形を、指先で感じ取る。
(噛み傷……?爪……?)
魔獣同士の、激しい争いを感じた。リリアーナは、祈るように魔力を編んだ。血が止まるように。傷口が、これ以上広がらないように。薄く、薄く――塞ぐ。
すべては、治さない。それでいい。
生き延びるために、必要な分だけ。
「……いいんじゃない?」
少し離れたところで、ラニアが言った。
「そう……?」
リリアーナは、魔獣の瞳を見る。色は、先ほどと何も変わらない。そして、魔獣はやはり、動こうとはしなかった。
それでも――空気が、変わった気がした。
張り詰めていた殺気が、ゆっくりと、森へ溶けていく。
「……さよなら」
リリアーナは、魔獣に向かってそっと言った。
「もう、ここには来ないわ」
「感謝するんだな」
ラニアが、軽く言う。
「望んでないわ」
リリアーナは首を振ってそう答えた。
「気にしないで」
もう一度、魔獣へと向き直る。言葉なんて、通じない。わかっている。
それでも――言わずには、いられなかった。
森の奥で、魔獣は、ただ静かに、彼女を見つめていた。
男たちは、戻ってきた二人の姿を見つけた瞬間、無意識に肩の力を抜いた。
どちらも、怪我はない。
途中から、確かに空気が変わった。あの、重く圧し掛かるような圧力が、すっと霧散したのを、全員が感じ取っていた。
だが――誰も、それを口にしなかった。
「……もう、いいのか」
エドモンドが、慎重に問いかける。
「ええ。大したことは、してないわ」
リリアーナは、ほんの少し言葉を選んで答えた。
「ただ……大怪我をしていたから」
それ以上は、何も言わない。
彼女の治癒に関する能力は、セリウスとローデンには伏せられている。
「もう、夜になっちゃうよ?」
ラニアが、いつもの調子で言った。
「急いで帰ろうよ」
「そうだな。……急ごう」
エドモンドは頷き、周囲を一度見渡してから歩き出す。こうして一行は、足早に城へと向かった。
その道中、セリウスもローデンも、リリアーナとラニアの会話や行動について、一切、口にしなかった。
疑問はある。違和感も、確信に近い何かも。
だが――今は、迂闊に話すべきではない。
二人ともが、同じ結論に辿り着いていた。
森は、何も語らず、彼らを静かに送り出していた。
城へ戻ると、一行は自然と別れた。リリアーナは採集した薬草を片付けるため調合室へ。
エドモンドは、何が起きたのかを報告するため、オルフェウスのもとへ向かう。
「……今日は、少し休ませてください」
セリウスの申し出に、誰も異を唱えなかった。セリウスとローデンは用意された部屋へと戻る。扉が閉まり、外の気配が遠のくと、
二人は距離を詰め、頭を突き合わせるようにして小声で話し始めた。
セリウスは言った。
「……ローデン。君は、リリアーナとラニアについて、どう思う?」
沈黙の後、ローデンは短く答えた。
「……普通、じゃあないよな」
「……どのあたりが?」
「それが……よく、わからん」
ローデンは眉を寄せた。
実際、分からないのだ。森の奥で、彼女たちが“何をしたのか”。あれが本当に魔獣だったのか。――想像することすら、できない。
「聞けば、教えてくれると思うか?」
セリウスが、慎重に言う。
「無理、じゃねえの?」
ローデンの脳裏に、ラニアの顔が浮かぶ。
あの平然とした目。
簡単に語るような内容では、決してない。
「……本国への報告は」
セリウスは、呻くように言った。
「やめとけ」
ローデンは、即座に、はっきりと言った。
「何も確定してない。下手に書けば、向こうが動く。――それは、面倒どころじゃ済まないぞ」
セリウスは、口を閉ざした。そしてローデンは、胸の奥で、ずっと引っかかっている感覚を否定できずにいた。
――セリウスの婚約者を、救ったのは。アグネッタではなく。……あの二人、なんじゃないのか。
それは証拠もない、ただの直感。
しかし。ローデンは、自分の直感が外れたことは、ほとんど無かった。




