耳障りな蝉の声は真実を告げる
結構シリアス。
あれは夏だった。そう、夏だった筈なんだ。だって蝉が鳴いていたんだから。
なのに何故、こんなにも不安になるのだろう。自分の記憶を、疑ってしまうのだろう。
《耳障りな蝉の声は真実を告げる》
白衣は凶器だ。
胸元のボタンを外し谷間を見せつけるように話す院長を前に、私は一人ひたすら薄目の限界に挑戦していた。人に指摘される程の卑屈さもなく、適度に外界の視覚情報を遮断する究極の薄目に。自分で言うのもなんだが、私は馬鹿だ。
「ちょっとあんた、聞いてるの?」
院長のやや苛立った声に私はビクッとし目を全開にした。
「院長の乳から目が離せません!」
私は何を言っている。だが院長はさして気にした様子もなく、平然と続けた。
「あらそう。やっぱり聞いてないわね」
「う……すいません。っていうか悪いのは院長です。乳しまって下さい。話に集中出来ません」
「ふふ、ウブねお猿ちゃん」
私も十分意味不明な発言をしたが(私は驚くと思わず下卑な本音が出るようだ)院長も十分意味不明、いや、プーさんだった。私がお猿ちゃん?どういう了見なのだ。実を言うとお似合いすぎるあだ名だわ。確かに今の私はほそっこいし挙動不審だし猿っぼい。猿から豚になるとは私も随分多才な女ではないか。
院長はシャツのボタンを一つ閉じ、私が挙動不審でなくなったのを確認すると話し出した。
「まずこの空間について説明するわ。ここは眠っている貴女の中の精神世界よ。ここでならあの警官にも邪魔されず話せるでしょ?」
私の精神世界。思ったより普通……というかマジ何もないな。それともみんなこんなものなのだろうか。まあそれは今は問題ではない。
「ま、まあ確かに………今更何言われても驚きませんけど。それにしても何者なんですか、院長。私の精神世界?に入ってくるなんて」
「ふっ、愚問ね。経験の差よ。要するに私は貴女の先輩なの。いろんな意味でね」
「はあ……」
「それは今回貴女が挑戦している蘇りの試練についても同様よ」
「そうですか…………………ってうそぉマジでぇ!? 私超驚いちゃったんだけどぉ!! じゃあ院長死んだことあるんですか!? 天使とか知ってるんですか!?」
驚きのあまり痛いほど女子高生テンションになった私に適当に頷き、院長は淡々と続ける。
「ええ、死んだわ。あと私が知ってるのは男の天使だったけど」
「あ、それじゃ私のとこに来たのは違う天使ですね。美少女天使でしたから……いや、ほんと驚いた」
「そうなの。まあそれは重要じゃないわね。要するに私は貴女にアドバイスをしてあげたいの。自分の経験を生かしてね」
「そ、それは有り難いです! 狂喜乱舞です!」
私は飛び上がりたい気持ちを抑え、だがしかし抑えきれず飛び上がって喜んだ。
「簡潔に言うわよ。貴女、自分の記憶に自信ある?特に死因についてとか」
ん?それはどういう………いささか突飛で予想外の質問に私は眉を顰めた。何度思い返そうと私は明らかにトラックに撥ねられ、仏になっ………いや、なり損なったのだ。うう。思い出すに耐えない記憶であることは確かだが、この死因に間違いがあるとも思えない。それ程に、あの記憶は生々しいのだ。……うう、誰か、胃薬………。
そんな私の眉間を見て、院長が溜め息をつく。
「……やっぱりわかっていないようね。良いわ、分かり易く説明してあげる」
私は神妙な面もちで頷いた。案外、彼女は怖い人ではないのかもしれない。知れば知るほど謎は深まるが。
院長はゆっくりと歩き出した。同じペースで私の周りをグルグルと回りだす。何を言い出すのかと緊張していると、彼女が口を開いた。
「良い?貴女は実際に経験したワケだから疑う筈もないけど、ある条件を満たせば、死んだ人間は魂だけで現世に留まり――そうね、幽霊のようなものになることがあるわ」
私は頷いた。だが、条件とは?院長は私の正面で一旦足を止める。
「その条件とは―――太っていることよ」
「嘘だあっ!!」
「嘘よ」
院長は意地悪そうに笑ってまたグルグルし始めた。さっきの冗談に私はどきっとしたが考えてみれば今の私は太っていない。院長、益々何者なんだ。
彼女はどこかの大学教授のように、ゆっくり、決まったペースで、そして何より偉そうに歩きながら話を続ける。
「冗談はさておき、さっき言った条件は2つあるの。1つめは、死んだ本人に何かしらの罪の意識があること」
「なるほど……」
確かに小説やらでありそうな条件だ。要するに罪悪感ということだろう。でもそれを言ってしまえば、ほとんどの人間が幽霊になってしまうのではないか?こんな私だっていくらかの罪悪感は抱えて生きてきた。例えば、飼い犬に3日間餌をやり忘れていたこととか、保育園でオネショした子の名前を言いふらしたこととか、弟に野菜を押し付けて好きなものばっかり食べてたこととか……我ながら酷く低レベルな罪悪感だ。だが“あるある”だろう?
私の疑念を見抜いたのか、院長が丁寧に説明してくれる。
「罪の意識、と言っても軽いものは入らないわ。友人の彼を奪ったとか、男に散々貢がせて捨てたとか、そういうのは入らないのよ」
軽いのそれ?実話でないことを祈ろう。
「この条件に当てはまるのは、人として最も深い罪の意識だけ……言うなれば、人殺しね」
重い。重すぎる。私の罪悪感とは比べるべくもない。
「人殺し、ですか………まあ筋は通ってる気がしますが…ピンと来ませんね。第一私からは縁遠すぎる」
院長は軽く何度か頷いた。確かに私は幽霊になったが、これが原因ではないだろう。
となればもう一つの条件に該当している筈。
「それで、もう一つの条件って何なんですか?」
私の問いに、院長はサラリと答える。
「死者が、自分が何故死んだのか理解出来ていない、或いは死んだことにすら気付いていない場合よ」
「………え?あれ?それじゃ私それはしっかり理解してるし、どっちも当てはまらないですよね?」
院長は私の目をじっと見た。
「あまり自分の記憶が正しいと思い込まないことね」
「それはつまり、私の記憶が何かしらの間違いを含んでいる、ということですか……?」
「条件はこの2つしかないから、恐らくはそうね」
何ということだ。私は呆然とした。どちらにも当てはまらないということは、私の記憶がいかれているとしか考えてられないが………じゃあ私はどこかで人殺しをしたのか?私の死因は交通事故ではないのか?
「そんな……くっ、どこが間違えているのか、皆目見当がつかん。どうすれば………じゃあプリンおじ、いや、今私が殺すべき相手だと思っている人物も、取り違えているってことなんですか?」
「さあ、それはわからないけどその可能性も高いわね」
私は首をうなだれた。ここまできて、見つけたと思ったターゲットさえも確実ではないなんて。もう駄目かもしれないと思った。すると、予想外に厳しい声が耳を貫く。
「諦めちゃダメよ。とにかく記憶を遡って正しいかどうか検証しなさい。はい、まず貴女は人殺しをしたことがある?」
どうやら院長は諦めてないらしい。他人の私の為に何かしようとしてくれている。私は弱気な考えを振り払った。
「いや、ないと思います。そんな恐ろしいことを明日の天気を聞くみたいなノリで言わないで下さいよ」
「文句の多いガキね………じゃあ次の質問。貴女の命日は?」
私はボソボソと答えた。院長は訝しげな表情をした。
「それじゃ貴女が死ぬのは今よりだいぶ先の話じゃない。道理で生意気なガキだと………いや、何でもないわ。それにしても怪しいわね。天使は何故ここまで貴女を戻したのかしら。貴女はどういう状況で亡くなったの?」
それは私もうっすら感じていた疑問だ。確かにここまで時を戻す必要があったのだろうか。っていうか生意気なガキって酷くない?大人っぽいという意味だと解釈してやろう。
「学校の帰り道、途中で弟に会って一緒に横断歩道を渡ってたらトラックが突っ込んできたんです」
「なるほど、そういえば貴女には弟がいたわね。弟君も、一緒に?」
「はい、この試練にも一緒に参加してます」
「今はどこに?」
「今は、ホシらしき人を追って●×運送会社に向かってる筈です」
「●×運送?確か、大きな車庫があるところよね。あの、天井がガラス張りの」
「そうでしたっけ?……ああ、思い出しました。私の家から公園に行く途中にありますよ。あそこだったのか」
「そう………ねえ、嫌かもしれないけど事故のときのことを覚えている範囲で教えてくれない?」
「う……わかりました」
私は深く息をつき覚悟を決め話し出した。
「横断歩道を歩いてたって言いましたよね。私が前、弟が10メートルくらい後ろから離れて歩いてきてました。帰る方向は同じだけど、一緒に帰るのは嫌だったみたいで」
「なる程、じゃあなんであなた達は一緒に轢かれたの?弟君、だいぶ後ろにいたんでしょ?」
「それは………」
私はフリーズした。言われてみればそうだ。10メートルも後ろを歩いていた弟が私に突っ込んできたトラックに跳ねられるのは変だ。でも確かに、私達は一緒に轢かれた。
頭がガンガンしてくる。思い出そうとする程頭の中がぼやける。何かが、おかしい―――私の背筋を得体のしれない悪寒が這い上がってくる。私は額を押さえた。
「どうしたの?大丈夫?」
院長の問いに答える余裕はなかった。
眩い閃光。思わず顔を背け、再び見上げた時には目の前に迫っていたトラック。―――いや、おかしい。夏の夕方なら、普通ヘッドライトは点けていないだろう。ならば光ったのは何なんだ?私の眼前で煌めいたのは、トラックのヘッドライトでないならフロントガラスの反射光なのか?そんな光に、私は目が眩んだのか?
後に続く鼓膜が裂けるような轟音。揺れる地面。
手を伸ばした。―――何故?一体何に?あのトラックを、止められるとでも思ったのか?そうじゃない。でも私は、必死に手を伸ばしていたのだ。
“ ”
誰かが叫んだ。直後、体中に激痛が走る。視界が赤く染まる。
そして、世界が闇に沈んだ。
どこかで蝉が、鳴いていた。耳触りなあの鳴き声は未だに耳にこびりついている。けれど、それは有り得ないことだった。蝉の鳴き声なんて、聞こえる筈がなかった。何故ならあの日は、雨だったから。
思い出した。そう、すべてを。何故私がここにいるのか、何をすべきなのかということも。小さい頃の弟が雷を嫌いだったということも。思い出してしまうのは一瞬だった。だが受け入れるには重い真実。
私は、絶対にターゲットを殺せない。
「わかりました」
私は顔を上げ、院長に囁いた。心配そうに私を見ていた彼女が驚いた顔をする。
「ありがとう院長。私、行きます」
私の言葉を聞いた院長の表情が険しくなる。
「間違いは赦されないわよ。失敗すれば、貴女達は地獄に堕ちる」
「大丈夫です」
私は頷いた。真っ直ぐに彼女の目を見ながら。
やがて彼女は表情を緩め、優しく微笑んだ。あの院長が、優しく微笑んだのだ。
「なら行きなさい。貴女なら、運命を変えられる。健闘を祈るわ」
暗黒の世界に光が差す。私は光に向かって走り出した。そうすれば現実世界に戻れることはなんとなくわかった。
目覚めれば薄暗い病院の天井と、お巡りさんの厳ついアホ面が出迎えてくれるだろう。外は暗く、雷も激しく鳴り出している筈だ。憂鬱極まりない。
それでも取り戻す為、そして守る為に私は走るのだ。