しおり、ネットの海へ沈む
星里しおりが部屋から出てこなくなって三日目だった。
八月の昼下がり。
外では蝉が騒がしく鳴いている。
グリーンハイツドラゴンの共有スペースではエアコンが静かな音を立てていた。
窓際では部長が気持ち良さそうに眠っている。
平和だった。
少なくとも表面上は。
「そういえば」
麦茶を飲みながら葵が顔を上げる。
「しおり最近見なくない?」
向かいでは有斗がホームセンターのチラシを広げていた。
読める文字はまだ多くない。
それでも毎日眺めている。
本人なりの勉強らしかった。
「生きてはいる」
有斗は顔も上げずに答えた。
「なんで分かるの?」
「夜中に冷蔵庫を漁っている」
葵は思わず笑った。
それなら大丈夫そうだった。
むしろ元気な部類かもしれない。
「でも三日も部屋から出てこないのは心配じゃない?」
有斗は少し考える。
そして。
「……確かに」
珍しく同意した。
葵は104号室の前までやって来た。
廊下は静かだった。
昼間だから住人のほとんどは出掛けている。
ノックする。
コンコン。
返事はない。
もう一度。
コンコン。
「しおりー」
静かだった。
少しだけ不安になる。
まさか倒れているとか。
そんな考えが頭をよぎった。
「入るよー」
返事はない。
葵はゆっくり扉を開いた。
そして固まった。
まず暗い。
カーテンが閉め切られている。
昼なのに夕方みたいだった。
机の上にはスマホ。
ベッドの横にもスマホ。
床にはタブレット。
ノートパソコンまで置かれている。
電子機器に囲まれた要塞だった。
その中心にしおりがいる。
ベッドに寝転がりながら、真剣な顔で画面を見つめていた。
「生きてる?」
「生きてる」
小さな声が返ってくる。
ひとまず安心した。
本当に少しだけ。
「何してるの?」
「ネット」
予想通りだった。
「何見てるの?」
しおりは少し考える。
「猫動画」
「うん」
「料理動画」
「うん」
「ゲーム実況」
「うん」
「都市伝説」
葵は眉をひそめた。
「なんで?」
「面白い」
真顔だった。
どうやら本気らしい。
部屋を見渡す。
空のペットボトル。
開けたままのお菓子。
散らばった充電ケーブル。
完全に引きこもりの部屋だった。
「ちゃんと寝てる?」
「たぶん」
嫌な予感がする。
「昨日何時間寝た?」
「二時間」
「寝ろ」
即答だった。
しおりは少しだけ不満そうな顔をする。
「時間が足りない」
「何に」
「ネット」
重症だった。
夕方。
珍しくしおりが共有スペースへ姿を見せた。
瀬玲奈が最初に気付く。
「あっ、しおりさん」
「ん」
短い返事だった。
有斗も顔を上げる。
「生きていたか」
「失礼」
しおりはそう言いながらソファへ座った。
そしてスマホを取り出す。
何かを見せたいらしい。
「見て」
「何だ?」
画面には猫が映っていた。
段ボール箱の前で助走を付けている。
飛び込むつもりらしい。
猫は跳んだ。
失敗した。
箱の手前で落ちた。
そのまま転がった。
そして何事もなかったような顔で立ち上がる。
共有スペースが静かになる。
「可愛いです!」
最初に反応したのは瀬玲奈だった。
目を輝かせている。
「次は?」
有斗が言う。
「次」
莉愛奈も言う。
「次です」
瀬玲奈も乗り気だった。
しおりは無言で次の動画を再生する。
気付けば全員画面を覗き込んでいた。
葵はその光景を見ながら苦笑する。
少し前まで。
彼らは魔王軍と戦っていた。
世界を救うために剣を握っていた。
命懸けの戦いを繰り返していた。
それが今はどうだろう。
猫が転ぶ動画を見て盛り上がっている。
平和すぎる。
本当に同じ人たちなのか疑いたくなるほどだった。
しおりはそんな様子を見ていた。
瀬玲奈は笑っている。
莉愛奈は真顔だが、動画が変わるたびに少し前へ身を乗り出している。
有斗に至っては一番真剣な顔で見ていた。
その光景が少しだけおかしかった。
異世界では考えられなかった。
戦いが終われば、また次の戦いが始まる。
それが当たり前だった。
平和な時間は長く続かない。
誰もがそう思っていた。
だが今は違う。
誰も戦っていない。
誰も傷付いていない。
ただ猫が転ぶ動画を見て笑っている。
そんな時間が続いている。
「この世界」
ぽつりと呟く。
自然と全員の視線が集まった。
しおりは少しだけ考える。
そして静かに言った。
「嫌いじゃない」
有斗が小さく笑う。
「そうか」
「うん」
それだけだった。
だが十分だった。
その時。
部長がしおりの膝へ飛び乗ろうとする。
正確には飛び乗ろうとして少し失敗した。
太っているからだ。
「重い」
「にゃあ」
「太った?」
「にゃあ」
「絶対太った」
部長は聞こえないふりをした。
窓の外では夕日が沈み始めている。
グリーンハイツドラゴン。
古くて。
少しボロくて。
名前のセンスも微妙なアパート。
それでも。
帰る場所がある。
話す相手がいる。
笑う時間がある。
異世界へ帰れなくなった彼らにとって、それは思っていたよりずっと大切なものだった。
しおりは再びスマホを操作する。
次の猫動画が始まる。
そして気付けば、また全員が画面の前に集まっていた。
平和な夕暮れだった。
その頃。
駅前の高級マンション。
一人の男がモニターを見ていた。
映っているのはグリーンハイツドラゴン。
男は小さく呟く。
「見つけた」




