境界崩落の爪痕
グリーンハイツドラゴンへ戻る頃には、空はすっかり夕焼け色に染まっていた。
有斗はいつもより口数が少ない。
隣を歩く葵も同じだった。
無理もない。
今日一日で知ったことが多すぎた。
魔王は生きていた。
しかも現代で会社を経営していた。
さらに、自分たちを探していたという。
理解しろと言われても簡単には無理だった。
アパートへ戻ると、共有スペースから夕飯の匂いが漂ってくる。
瀬玲奈が台所に立ち、味噌汁をよそっていた。
「おかえりなさい」
いつも通りの笑顔だった。
その光景を見た瞬間、有斗は少しだけ肩の力が抜ける。
喫茶店での出来事が嘘だったかのように、グリドラの日常は何も変わっていなかった。
夕食が始まる。
莉愛奈は職場での出来事を話し、瀬玲奈は近所のスーパーで見つけた特売品の話をしている。
しおりは相変わらずスマホを眺めていた。
部長だけは机の下で何か落ちてこないか待機している。
平和だった。
だからこそ、有斗はなかなか切り出せなかった。
「どうしたんですか?」
最初に気付いたのは瀬玲奈だった。
有斗は箸を置く。
皆の視線が集まる。
少しだけ迷ったが、隠しておく話でもない。
「今日、人に会った」
「知り合いですか?」
「いや」
有斗は首を横に振る。
そして静かに続けた。
「魔王だった」
共有スペースの空気が止まった。
莉愛奈は目を見開き、瀬玲奈は持っていた茶碗を危うく落としかける。
しおりだけが首を傾げた。
「誰?」
「魔王だ」
「知ってる」
「ゼルグラード」
そこでようやくしおりの動きが止まる。
数秒後、ゆっくりスマホを置いた。
「魔王?」
「魔王」
「生きてたの?」
「生きてた」
有斗も未だに信じられなかった。
むしろ誰かに夢だと言ってほしいくらいだった。
莉愛奈は腕を組み、険しい表情で考え込んでいる。
騎士として魔王と戦い続けてきた彼女にとって、その事実は簡単に飲み込めるものではない。
「敵ですか」
静かな声だった。
有斗は少し考える。
今日のゼルグラードを思い出す。
敵意はなかった。
殺気もなかった。
むしろ昔より穏やかだった。
だから余計に分からない。
「それが分からない」
正直に答えた。
「少なくとも襲ってはこなかった」
「魔王なのに?」
瀬玲奈が戸惑う。
有斗も同じ気持ちだった。
魔王なのに。
その一言に尽きる。
食後、有斗は一人でベランダに出た。
夜風が少しだけ涼しい。
住宅街には灯りが並び、遠くから車の走る音が聞こえてくる。
どこにでもある夜の景色だった。
それなのに心は落ち着かない。
ゼルグラードの言葉が頭から離れなかった。
お前たち以外にも来ている可能性がある。
あの時の表情は本気だった。
脅しでも冗談でもない。
本当に何かを警戒していた。
有斗は空を見上げる。
異世界へ繋がる裂け目など見えない。
ただの夜空だった。
だが、あの日の光景だけは忘れられない。
空間そのものが砕けるような感覚。
世界が軋む音。
そして現代への転移。
あれは本当に偶然だったのだろうか。
同じ頃。
駅前のオフィスビル最上階。
ゼルグラードは一人で資料に目を通していた。
机の上には何枚もの写真が並んでいる。
有斗。
莉愛奈。
瀬玲奈。
しおり。
勇者パーティーの写真だった。
だが、それだけではない。
別の写真も混ざっている。
その中の一枚を手に取った。
写っているのは四十代ほどの男性だった。
スーツ姿のどこにでもいそうな会社員。
だがゼルグラードの視線は別の場所へ向いていた。
男の右手。
袖口から覗く皮膚には、黒い紋様のようなものが刻まれている。
それはノクスフィアでは見慣れたものだった。
現代に存在するはずのない印。
ゼルグラードは静かに目を細める。
「やはりいたか」
小さな呟きは誰にも聞こえない。
勇者と魔王だけならまだ良かった。
だが境界崩落で流れ着いたのが他にもいるのだとしたら話は別だ。
しかも、それが自分の予想通りの存在なら。
窓の外では夜景が輝いている。
平和な世界だった。
少なくとも表面上は。
ゼルグラードは資料を閉じる。
有斗たちはまだ知らない。
本当に危険なのは魔王ではない。
境界崩落が残した爪痕は、まだ誰にも見えていないだけなのだから。




