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カムサリガタリ  作者: 夢物語草子
弐の編

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35/35

酒と刀と元許嫁 4話

北部の冬は、よく眠る。

大地が眠り、木々が眠り、川が眠り、人もまた眠る。そういう土地柄だ。北部高原の民は古くから冬をひとつの死として捉え、春をその甦りとして祝ってきた。凍てついた土の下で密かに息を潜める種のように、すべてのものがいつか開花する日を待ちながら、静かに、静かに熟成してゆく。

酒もまた、その例外ではない。

明保能阿久刀が足を踏み入れた酒蔵は、屋敷の奥まった一角にひっそりと佇んでいた。引き戸を押し開けると、年季の入った木材と麹菌と、それから説明しがたい時間の匂いが混然と押し寄せてくる。蔵の中は薄暗く、梁の上には蜘蛛の巣が幾筋か光を絡め取って光っていた。床は土間のままで、踏み締めるたびに微かな冷気が足の裏から忍び上がってくる。大小様々な甕や桶、瓶が整然と、しかしどこか呼吸しているかのような脈動を感じさせるような佇まいで並んでいた。

阿久刀は静かに蔵の奥へと歩を進める。

怒れる相手の土産に何を持っていくか。普段なら迷うほどのことはない。問題は、何を持っていけば日彦の機嫌が幾分なりとも和らぐか、という一点に尽きた。雷家の領地・東部絶佳谷は酒の名産地として知られているが、それはつまり日彦が相当な目利きであることをも意味する。生半可なものを持参するのは駄目だ。微笑みながらも瞳の奥で確実に値踏みされた挙げ句、火に油を注いでしまう。日彦のそういうところは、二十年来変わっていない。

――無駄足を踏ませたことを謝りに行く。

口にすれば簡単な一文だが、その重みを阿久刀は皮膚の内側で静かに感じていた。謝罪とは本来、向かい合い、頭を垂れ、言葉を尽くす行為だ。手土産はその補助に過ぎない。しかし補助を軽んじればよい理由にも結果にもならない。

蔵の奥へ進むにつれ、空気がさらに冷え、密度を増す。積み重なった時間の重みとでも言うべきものが、石造りの壁から染み出てくるようだ。

阿久刀は一列に並んだ甕の前で立ち止まり、それぞれの側面に貼られた和紙の札をひとつひとつ確認してゆく。北部の冬籠もり。この製法を他所の者に説明しようとすると、かえって要領を得ないことが多い。熊のように寝ろ、という言い方をするのが最も手っ取り早い。冬の初めに仕込んで、以後は人の手をほぼ介入させずに眠らせる。発酵の速度を意図的に遅らせ、寒気の中でゆっくりと、ゆっくりと熟成させる。急ぎとは無縁の製法だ。そうして生まれた酒は、口に含んだ瞬間に淡い甘みが広がり、しばらくして底から苦みが顔を出し、最後に喉の奥で深い香りが残照のように揺れる。

これは、北部の冬そのものだと阿久刀は思っている。

目当ての一本を見つけたのは、蔵の最も奥まった棚の上だった。

「冬母子」。

墨書きされた札が、薄暗がりの中でも目に入った。肩幅ほどの甕ではなく、手のひらに収まる小さな瓶の形をしている。それが五本、きちんと横並びに置かれていた。北部においてこの銘柄が最高峰と称される所以は、単に旨いからというだけではない。この酒が醸し出す時間の密度、そこに込められた土地の風味と職人の趣と気候のすべてが一滴に凝縮されているという、その事実にある。

阿久刀は一本を手に取り、指先で表面をそっと撫でた。

入れ物の冷たさが指腹に伝わってくる。

これを持っていったら、と阿久刀は考えた。日彦は怒るだろうか。喜ぶだろうか。おそらくは両方だろう。怒りながら栓を抜き、喜びながら一献傾ける。それが日彦という女だ。

その刹那、空間の一部が微かに揺らいだ。

視界の端に、気配というより存在の変位とでも言うべき現象が起きた。空気の密度が局所的に変わる感覚。蔵の冷気の中に、さらに別の種類の冷気が滑り込んでくる。しかしそれは不快なものではなく、むしろ馴染みのある、どこか安堵に似た感覚を伴っていた。

阿久刀は振り向かずに言った。

「影から唸るなよ」

返答の代わりに、蔵の隅、薄暗がりの中で空間がさらに顕在化してゆく。灰青色の毛並みが、闇の中に徐々に輪郭を結んでゆく。大きな狼が、まるで元から其処に在ったかのように、不機嫌な目つきで阿久刀を見ていた。

碧天だ。

狼の御遣様は、人間の言語で不満を述べる代わりに、鼻孔を微かに動かして酒蔵の匂いを嗅いだ。その所作には言葉以上の雄弁さがあった。甘いものが好きなこの神獣は、酒の類については辛口を好む。否、辛口というより、力強いものを好む、と言うべきか。

「日彦にあっちの旨い酒をもらうつもりだ」

阿久刀は瓶を棚に戻しながら言った。声は静かだが、心友に向ける親しみに満ちていた。それは命令でもなく懇願でもなく、普段通りの、他人には決して口にしない口調だった。

碧天の眉間に、人間なら眉と呼ぶに相当する部分の毛が、ほんのわずかに寄った。

「天稲妻をもらえるよう頼んでみるよ」

阿久刀がそれを口にした瞬間、碧天の態度が一変した。

先ほどまでの不機嫌な威厳は、砂上の楼閣が崩れるように霧散し、狼の目が異様な光を帯びた。両の瞳が、金色の内側でさらに明るく輝く。大きな耳が前へと傾き、鼻が忙しなく動き、尻尾が一回だけ力強く床を打った。

『!おお!』

神獣の声は、人間の声帯が生む音ではなく、もっと深いところから、空間そのものが震えるような響きで現れた。しかしその内容は、どこまでも単純だった。喜んでいる。純粋に、疑いの余地なく、子供のように喜んでいる。

天稲妻は雷家の領地で生まれる幻の名酒だ。「幻」という言葉が陳腐に感じられるほど、その入手困難さは本物だ。雷家の外へは年に数本しか出回らず、その殆どは朝廷の贈答に充てられる。碧天でさえ飲んだことはない、というのが阿久刀の把握するところだった。

神獣の口元に、透明な光沢が滲んだ。

阿久刀は、それをさりげなく視界の端に収めながら、冬母子の瓶を再び手に取り、旅の荷に加えるべき品々を頭の中で整理し始めた。


「さて、これで――」

瓶を布で丁重に包みながら、阿久刀は漠然と呟いた。あとは旅支度を整えるだけだ、という気分で、思考が次の手順へと移ろうとした、その瞬間。

ふと、手紙に目が落ちた。

日彦からの書簡は、すでに一度読んでいた。読んだ、というより聞かされたのだが。山彦の声のように言葉が届き、その意味は確かに受け取った。だから用件は把握していると思い込んでいた。

しかし今、改めて目にした手紙には、見落としていた一節があった。

几帳面な、しかしどこかに抑えきれない感情の揺れを感じさせる筆跡で、こう書いてあった。

「謝りに来るなら碧天様も連れてくるように」

阿久刀は、その一文をもう一度読んだ。

そして、もう一度。

碧天が傍らで静かに座っていた。狼の大きな目が、阿久刀の手元を見ていた。

「碧天」

阿久刀は振り返らずに言った。

「お前を連れてこいと書いてあるぞ」

狼は瞬きもせず、どこか遠くを見るような目つきで答えた。

『ほう。我を呼びつけるか』

その声には驚きも不快もなく、むしろ何事かの答え合わせをしているような、静かな確認の響きがあった。

「何かしたのか?」

阿久刀は問うた。日彦が碧天を名指しで呼ぶとは、いかにも引っかかる。日彦は気難しい女ではないが、軽率でもない。碧天の名を手紙に記すということは、何らかの経緯があるはずだった。

『さてな。我は思い至らぬ』

碧天は、大きな欠伸をした。

口腔の奥まで見えるほどに大きく開けた顎の中に、鋭い歯が並んでいた。それは神獣としての力の象徴であると同時に、問いに対する答えを持ち合わせていない、あるいは持っていても言う気がない、という表明でもあった。

阿久刀は、短く息をついた。まぁいいか、と内心で思った。日彦の性格を知っている。あの女が碧天を呼ぶのなら、それなりの理由があるのだろうし、その理由は会ってみればわかることだ。悪い話にはならない。少なくとも、日彦が碧天に危害を加えることはない。碧天に危害を加えられる人間が、この島に何人いるものか。

酒蔵を出ると、外の空気が頬を打った。

蔵の中の澱んだ時間とは異なる、北部の清潔な冷気だ。阿久刀は空を見上げた。雲の動きが速い。旅立ちには好い日和だろう。


自室に戻った阿久刀が、まず行ったのは荷物の整理だった。

今度は急ぎではない。

この事が、阿久刀にとって少なからず重要だった。二十年に亘る監視の身には、時に急ぎの旅が付き物だった。夜半に使いが来て、夜明けには出発する、その逆もあり。そういう種類の移動が当たり前になっていた。しかし今回は違う。謝罪の旅というものは、相応の準備は必要だが、余裕を持って行ける旅だ。少なくとも阿久刀はそう考えている。

箪笥を開け、旅に適した装束を取り出す。着替えを畳み、道中に必要な品々を吟味して一つ一つ確かめていく作業は、阿久刀にとって一種の再確認できる時間だった。何を持ち、何を捨てるか。それは旅の準備であり、自分が何を必要としているかを問い直す行為でもある。

そこへ碧天が声を寄越した。

『阿久刀』

「なんだ?」

阿久刀は着替えを畳みながら答えた。

『器の娘も連れていけ』

手が止まった。

「白院様を?」

碧天はにやりとした。人間的な表情の変化には乏しい神獣だが、笑うときには確かに笑う。その笑みは、上品さのかけらもない、純粋に何かを楽しんでいる種類のものだった。

『あやつの毛繕いは心地好い』

しばらく間があった。

阿久刀の脳裏を、いくつかの映像が駆け抜けた。白院が、退位した現人神の器が、屋敷の縁側でひっそりと膝を折り、大きな狼の首周りに静かに手を伸ばしている光景。碧天が目を細めて、頭を少しだけ傾けている光景。その組み合わせは、妙に容易く想像できた。白院は一般常識に徹底的に欠けている。人間の社交的交流は難しい。反面、神獣は人間の社交性を必要としないため白院には居心地がいい。その意味では、二者は相性が良いのだろう。

しかし。

「白院様にやらせてたのか!?」

声が、わずかに上擦った。普段は感情の起伏を面に出さない阿久刀にしては、珍しいことだった。

碧天はどこ吹く風だった。狼は阿久刀の反応など眼中にない様子で、大きな前足を舐め始めた。その態度は「何が問題なのかわからない」ではなく「問題だとしても我には関係ない」という、より根本的な無関心を示していた。

阿久刀は額に手を当てた。

白院を連れて行くこと自体は、別段問題ではない。むしろ道中の安全という観点では、退位したとはいえ強大な咒の使い手を同行させることの意味は小さくなかった。また、白院自身は屋敷の外の世界をほとんど知らない。見聞を広めることは、今後の白院にとっても悪いことではないだろう。

「はぁ…まぁいいか。碧天といると落ち着くようだしな」

それは事実だった。白院はテンが離れてから落ち着かないのか、碧天の傍に寄ることを好んでいた。神獣の前では、元の器の少女は過剰なまでの緊張も困惑もなく、ただ静かに在ることができるようだった。神と人が向き合うときの、あの奇妙な平穏さだ。

『かかか!』

碧天が笑った。乾いた、しかし満足げな笑い声だった。


部屋の外に気配があった。

阿久刀が荷物に集中しながらも、それを正確に捉えたのは反射に近い習慣によるものだった。気配の薄さ、足音の間隔、廊下の板の軋み方。それらを瞬時に総合して、阿久刀は「東雲だ」と判断していた。

「お師匠様。入ってもよろしいですか?」

ほぼ同時に、襖越しに声がした。

「あぁ。いいぞ」

東雲が入ってきた。

明保能東雲は、かつての北部豪族・火鳥家の血を引く娘であり、暁家に身を置く阿久刀の弟子だった。七大剣の弐の剣の遣い手として既に一流の域にある若い剣士。阿久刀の前では師弟の礼を東雲は崩さない。それは阿久刀への敬意であると同時に、彼女の生真面目さの現れでもあった。

その東雲が、部屋に入って荷物を目にした瞬間に表情が変わった。

「出掛けられるのですか?」

「日彦のところにな」

阿久刀は着替えを重ねながら言った。

「無駄足を踏ませたことを謝りに行く」

東雲の顔に、理解と記憶の回路が繋がる様子が見えた。そして次の瞬間に、血の気が引くような、しかし強烈な焦りを帯びた表情になった。

「………………………あ」

その間の長さが、彼女が完全に失念していたことを如実に語っていた。

「た、たいへんです…すぐにでも土下座をしにいかないと……!」

「今から領地を訪ねるつもりだ。土下座はしないが」

「す、すぐに私も支度を!」

東雲が足を踏み出しかけたところで、阿久刀が言った。

「今回の供は清子だ」

東雲の動きが止まった。

「では私と清子さんが」

「シノは同行できない」

その言葉は柔らかではなかったが、冷たくもなかった。ただ、確定したことを述べる響きがあった。

「え!?」

予想もしていなかった拒絶に、東雲は茫然とした。困惑と落胆と反論したい気持ちが、整理される間もなく顔に出た。

「なんでですか!?」

「シノ、お前は咒刀造りに参加するんだろう?」

阿久刀は荷物から目を離さずに言った。しかし声には確かな意図があった。東雲に思い出させることと、その選択の重みを感じさせることの両方を、その問いは担っていた。

東雲の口が、開きかけて止まった。

「…………あ………」

咒刀造り。

それは生涯に一度の儀式だった。自らの手で咒刀を製作し、それを完成させることで初めて正式な咒刀の使い手と認められる。その機会は二度も訪れない。まして東雲は暁家の跡取りとしての立場にある。この儀式を逃すことの意味を、彼女は剣士として、家の人間として、誰よりも深く知っているはずだった。

それでも。

「で、でも」

東雲の声に、わずかな縋るような響きが混じった。それは子供の声に似ていた。義務と感情の間で引き裂かれるときの、人間の声だ。

「俺が二人分謝ってくる。シノは咒刀造りに集中しろ」

「けど…」

「いつまでも借り物の咒刀だと示しもつかないだろう」

沈黙。

その一言は、優しくなかった。しかし必要な言葉だった。阿久刀は東雲に甘い師ではない。甘い師では、東雲が本当に必要なものを見落とすことになる。

「……はい」

東雲は、うつむいた。

声は小さく、しかし揺らぎのない、返事だった。武家の娘として積み上げてきた矜持が、最終的には感情の揺れに勝った。それを見届けながら、阿久刀の胸の内に何か微かなものが過ぎった。この娘は、いつも最後には自分の足で立つ。

「白院様と…あぁ、アティヤも連れていくか」

阿久刀が、半ば独り言のように口にした。

その瞬間、東雲の肩が、ほんのわずかに張った。

見逃せるほど微細な変化だったが、阿久刀は見た。振り返らなかったが、確かに見た。

「……彼女…ですか…?」

東雲の声が、さきほどとは別の種類の緊張を帯びていた。先の落胆が、静かに別の感情と合流しているようだった。それが何かを、阿久刀は問い質さなかった。問い質すべきではないことが、長年の経験でわかっていた。

「見聞を広める必要があるしな。…ん?なんだ?どうした?」

東雲の顔を見ると、それは大人びた剣士の表情ではなく、どこか十四、五の少女が返ってきたような、拗ねとも怒りとも判別しがたいふくれっ面だった。

「………どろぼうねこ……」

「なんだ?何か言ったか?」

阿久刀は耳を傾けたが、東雲はすでに表情を引き締め直していた。そして、廊下へ続く襖に手をかけながら、背筋を伸ばして言った。

「――――失礼します」

最後の一言だけが、微妙に不穏な余韻を持っていた。襖が静かに閉まった。

阿久刀は、その後ろ姿を目で追ってから、荷物へと視線を戻した。

まぁいいか、と内心で思った。


しばらくして、外が騒がしくなった。

最初に届いてきたのは、声だった。

「ぎゃああああ!!なにすんのよ!」

これはアティヤだ、と阿久刀は瞬時に判断した。植民地27番国・旧皇国陸軍特務調査隊に在籍していた混血の娘は、窮地においても声量を保てる人間だった。つまり今は本気で危機に瀕しているわけではないものの、しかし確実に追い詰められている状態だった。

次に届いてきたのは、別の声だった。

「私はどろぼうねこは嫌いです!」

東雲だ。

阿久刀は荷物から手を離さずに、ただ天井を見た。

「足腰立たなくしてやります!」

「アッタマきた!やってみやがれー!」

廊下ではなく庭の方角から音が来ていることから、二人はすでに外に出ている。追いかける、追いかけられる、という構図がほぼ確定した。東雲が木刀を持ち出した可能性は高い。あの娘の怒りは、剣を握ることで物理化する性質を持っている。

外から、足音と、木が風を切る音と、駆け回る音とが、入り混じって届いてきた。庭石の縁を踏む音。縁側の端を跳ぶ音。土の上を走る音。それらが複雑に絡み合い、短い叫びとともに庭を縦横に移動している。

「泥棒猫…なんのこっちゃ?爛漫?わかるか?」

「しらねー」

低い、落ち着いた声と、乾いた少年の声が、庭のどこかから聞こえた。鶴罪と爛漫だ。

阿久刀は立ち上がり、障子を少し開けた。

庭の光景は、こうだった。

東雲が木刀を右手に携え、袴の裾を翻しながら走っていた。その顔は、剣術の稽古のときの顔だった。つまり、本気に近い何かが、そこにある。弐の剣の速度と精密さを叩き込まれた脚運びは、追いかけているにもかかわらず、美しかった。

逃げるアティヤは、混血の身体が持つ野生的な俊敏さで縁側と庭石の間を縫うように走り回っていた。追いつかれそうになるたびに、軽やかな横跳びで軌道を変える。その動きは無駄がなく、長年の生存本能に根ざした実践的な逃走術だった。しかし東雲の剣速に対しては、常に紙一重だった。

その傍ら、縁側の端に、鶴罪と爛漫が仲良く並んで座っていた。

二人の前には、饅頭が乗った皿がある。鶴罪は筋骨隆々とした腕を縁側の手すりに載せ、頬杖をついて庭の二人を眺めながら、もぐもぐと饅頭を食っていた。爛漫は顔のバッテン傷を微動だにさせることなく、同じように饅頭を口に入れながら、東雲とアティヤの追いかけっこを観戦していた。二人の間には、評論も感想も野次もなかった。ただ食いながら、見ていた。

阿久刀は障子を閉めた。

碧天が、人間なら「やれやれ」と言うような表情で横になっていた。

「まぁ、今日のところは致し方ないな」

阿久刀は独り言を言い、荷物の続きに取りかかった。


日が傾いた頃、庭の騒ぎはいつの間にか静まっていた。

阿久刀が旅支度を概ね整え、荷を縛り終えたのは、空の端が橙から紫へと変わり始めた時刻だった。蔵から取り出した冬母子の瓶は、外から衝撃を受けぬよう、着替えの合間に丁寧に収められていた。手に取るたびに、あの蔵の匂いを思い出す。時間の匂いだ。

縁側に出ると、庭の空気は夕暮れとともに鋭さを増していた。

遠くに北部の稜線が暗く沈み、その上に最初の星が一つ、瞬いていた。

「冬母子か」

阿久刀は酒瓶を旅の包みの中にあることを確認しながら、低く呟いた。声は誰にも向けられていなかった。

日彦に会う。謝る。そして宴を開く。それだけのことだ。しかしその「だけのこと」に、どれだけのものが含まれているか。二十年来の縁と、一度は結ばれかけた別の縁と、解消された許嫁という事実と、それでも諦めていないという日彦の意地と。阿久刀は、それらを心の奥の整理棚に収めながら、空を見ていた。

碧天が傍らに来た。

大きな狼の体が、縁側の端で静かに阿久刀の隣に坐した。夕闇の中で、その毛並みは夜の色に溶け込みながら、わずかに内側から光っているように見えた。

「天稲妻、必ず頼んでみるからな」

阿久刀は、空に向けて言った。

狼は答えなかった。ただ、大きな頭が、ほんの少し阿久刀の肩の方へ傾いた。

北部の夜が、静かに降りてくる。

旅は、明日から始まる。

そして屋敷のどこかで、東雲はひとり、自分の咒刀について考えているだろう。まだ自分の刀を持たない剣士として、生涯に一度の機会と向き合いながら。剣術の才は既に一流だが、咒刀造りは才能とは別の問いを人間に突きつける。何を軸に、何を以て、自らの刀を作るのか。その問いに、東雲はまだ答えを持っていない。だからこそ、今がその時だ。

阿久刀は、その事実を静かに、しかし確かな言葉にして、胸の内に収めた。

弟子を手元に置いておきたい、という気持ちは、師ならば誰でも持つ。しかし弟子を真に育てることと、手元に置いておくことは、しばしば相容れない。それが師というものの、最も基本的な矛盾であり、宿命だった。

「さて」

阿久刀は立ち上がった。

旅支度は整った。

明日は東部絶佳谷へ向かう。碧天と、白院と、アティヤと、清子とともに。日彦に謝り、天稲妻をもらい、そして帰ってくる。それだけのことだ。

ただし、「それだけのこと」には、往々にして世界が詰め込まれているものだ、と阿久刀は長い経験から知っていた。

夜風が、北部の高原から吹き下りてきた。

冬籠もりの時間が、また一夜分だけ深く熟成してゆく。

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