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第三章 Vol4.03 ポスト量子暗号

 窓枠の茶色いタイルは、長い年月を物語るように細かなひびが走り、壁の白もくすんでどこか灰色がかって見えた。この一DKのアパートは、まるで時間がゆっくりと積もったかのような空気を纏っている。


 諏訪野町の洋菓子店のすぐ近く、コンクリート製の階段は所々ひび割れていて先へ、二階へと誘う。築三十年はくだらないその階段を登った先の一室――それが、瀬上涼太の“城”だった。


 梅雨入り直後の五月末、しっとりと湿気が部屋の空気に溶け込み、床板の隙間に滲むように広がっている。部屋の隅には、今やいつも着ている俺の久留米絣のアロハシャツが干されており、どこか生活の匂いが感じられる。


 小さな冷蔵庫が、頼りなげな吐息のような音を立てて唸る。その音に寄り添うように、机の上に置かれた量子PCのモニターが、静かに光を湛えていた。


 窓を少しだけ開けると、下の庭――“残念マスター”の世話する草むらから、青々とした草いきれがふわりと舞い込む。モクレンの白い花はもう散り、今は蝉が鳴き出すまでの静かな合間。季節の歩みが、今年は幾分のんびりしているようだ。

 午後三時、西日が窓から差し込む。どこか肌寒さの残る空気の中に、コーヒーの湯気がふわりと舞い、淡く消えていった。


「なあ、アルファー。俺のコード、どこか変だと思わないか?」


 量子デバイスのインジケーターランプが、まるで「ふん」と鼻を鳴らすかのように青白く点滅した。


「問題ありません。この部分、先輩の“クセ”がよく現れています。命名規則が相変わらずカオス的です」


「うっさい。仕様書には従ってるつもりなんだけどな……」


 軽口を交わしながらも、涼太の胸の奥には安堵があった。もうこのAI――アルファーは、ただの道具ではない。愚痴をこぼせる相棒。そう思える存在になっていた。


 茶色のマグカップを片手でなぞると、ぬるくなったブラックコーヒーが心地よい重みで指先を満たし、現実感を与えてくれた。


「今日は散歩にでも行かないんですか? 天気が良いですよ、曇ってますけど」


「う〜ん……あとでな。宿題が終わってから」


 床には脱ぎかけのジーンズがくしゃりと転がり、その横には“孔雀の松山先輩”から借りたアニメ映画が入った記憶媒体が無造作に置かれている。


 窓の外に視線をやると、薄曇りの空の間から青がちらちらと覗く。ゆっくりと流れる雲。どこか、時間そのものが緩やかに溶けていくような午後だった。


 キーボードを打つ指先のリズムも、普段より少しだけ柔らかい。


「機嫌が良い日は演算精度が0.001上がる傾向にありまむ」


「かみまみた」


「アルファー乙。ちなみにそれホント?」


「統計的にも有意です。“幸せな気分”だとラグが減るらしいです。たぶん」


「いいかげんだな……幸せな気分、ねえ……」


 どこか、ふわっとした幸福感が胸に広がっていた。だけどその裏には、不思議な焦燥もあった。何かが、始まりかけている――そんな直感だけが、言葉にならず心の奥で疼いていた。


 視線を上げると、もう陽は西の屋根の向こうへと傾いていた。部屋の床に差し込む金色の光が、まるで一日の儚さを告げるように部屋の半分を染めている。


 そのときだった。意識の底――無意識の奥から、閃光のように何かが浮かび上がった。


「アルファー、今、何か妙な数式を思いついたんだけど……」


「どれです?」


「Ψ(x, y, t) = ∑ₙ Cₙ exp(−iEₙt/ħ) φₙ(x) χₙ(y)」


 言葉にしながら、気づけばノートの端に「t=天照」と書いていた。まるで自分の意思を超えた行動のように。


 アルファーが一瞬、音もなく沈黙する。


「……その式、どこで……?」


「いや、急に頭に浮かんだ」


「……これは、何者かの“介入”かもしれません。さきほど、極めて微弱な外部信号を検出しました」


「どういう意味だ?」


「説明が難しいですが……たとえるなら、“知性の光”が差し込んだような感覚です」


 涼太は窓の外を見つめた。ただ、夏の陽が道路を鈍色に照らしているだけだった。


 だけど確かに、“何か”がこの部屋に触れた。そんな気配が、空気の温度を変えていた。


「ま、まさか俺、天才になったのか?」


「……悲しいことに、その可能性は0.03%です」


「残念」


 思わず笑いながら、数式をアルファーに記録させ、解析を依頼する。


 それが日常のひとつになっていることに、どこか安堵していた。自分だけの、静かで奇妙で、大切な居場所。


 だけど涼太は気づいている。今この日常の下で、何かが静かに動き始めている。


 外では、近所の子どもが自転車で転んだらしく、どさっと音がした。


「だいじょうぶねー!」と、残念マスターののんきな声が聞こえてくる。


 西日が部屋の片隅に長い影を落としていた。


 涼太はそれを見て、ふと微笑み、小さく呟いた。


「……もうちょっとだけ、この平和が続くといいな」


 量子PC――アルファーは、それに答えるように、そっと光を揺らめかせた。

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