その後。
「聖女? ですか?」
「ええ。貴女にお願いしたいのよ」
「でも、だって」
聖女は貴族の子女が結婚まで務める役職だ。昔そう聞いた覚えがあったし、それにわたくしはもう……。
「レイニー様がユリアス様との婚姻を控えているというのは存じておりますわ。クラウディオからそれとなく聞きましたから。それでもあえて、貴女にお願いしたいのよ」
そうこちらを覗き込むそのお顔。
この方はほんと年を取らない。
糸のように細く艶のある金色の髪をおろし、まるで少女のようにも見えるその姿。
聖大祭がつつがなく終わった夜。わたくしが泊まっている部屋に突然いらっしゃった彼女。
なんのお話だろうと思ったらまさかの聖女? でも、でも、流石にちょっと。
「わたくし、出戻りなんですよ? 結婚歴があるわたしなんかが聖女だなんて烏滸がましいわ」
「その辺はあまり心配しなくても大丈夫ですわ。わたくし、お子がいらっしゃっても力が衰えることなく大聖女の職を全うした方も知ってますし」
「カッサンドラ様のこと、ではないですよね?」
「ふふ。わたくしは結婚とは無縁でしたから。でもそれもわたくしの方が例外なので」
そんなふうに笑って見せる彼女。
カッサンドラ様は、わたくしが物心ついた時からもうすでに今のお姿のままだった。
大聖女として長年聖大祭を取り仕切っていらっしゃった彼女。
この世界の平和を祈り。
魔がこの国に蔓延るのを防ぎ。
そして、作物の恵みを祈る。
それが聖女。
帝国聖女庁聖女宮においてそれらの職務を遂行する役職が聖女と言われているわけで。
通常はまだ若く力のある貴族の子女が、婚姻までの間を務めるそんなわりと名誉職なものだと思っていた。
そもそも世界の安寧をたった一人の聖女が背負えるわけはない。
聖女宮には聖女を名乗る者以外にも、多くの力のある聖職者がいらっしゃるのだから。
ああもちろんこの目の前にいらっしゃる大聖女カッサンドラ様は別格だ。
一族の重鎮、お爺さまでさえ頭が上がらないという大叔母様、なのに。
彼女のその霊力のせいなのだろうか?
こんなにもいつまでも若々しく見える。
「でも、わたくし、自信がないですから」
「大丈夫。貴女のお母様はそれは力のある聖女だったもの。その力も、精霊の加護も、貴女に受け継がれているのを感じるわ。だからね?」
うむを言わさない圧力を感じる。
どうしよう。
でも、聖女の職を受けたらお母様のように各国への訪問だってしなくちゃならなくなるだろうし、ロクサンシームにだって。
まだ今はクレインには会いたくない。
あの人の顔なんか見たくもないもの。
わたくしは、とりあえず明言は避けて笑みだけこぼす。
そんなふうに曖昧に笑みを向けるのを見てとりあえず満足したのか、カッサンドラ様もふわっと微笑んでくれた。
■■■■■
「ああ、其方はまったく国政に携わっておらんかったよな。まあ良い。ロクサンシーム王国には帝国より監査員を送り込むとしよう。其方の力量を正確に測ることとするから、心して政務に励むように。なに、其方に無理なら替えもある。筆頭公爵に国王の座をすげ替えても良いのでな」
「馬鹿もの! この期に及んでそれか! ええい、レイニーはものではない。わしが返す返さんというものではないわ! よいか、今のわしの言葉は其方と其方の国に対しての最後通牒であると思え! できなければ全面的に執政官を送り込む。民を苦しめるわけにはいかんからな!」
はっと飛び起きる。
「夢、か……」
気がつくと、汗をグッショリとかいていた。夜着もシーツも湿ってしまっている。
聖大祭は終わった。明日はもう帰路につく予定ではある。
けれど。
「このままでは……」
破滅だ。
腹心達だってあてにはできない。
だいたい、リリスをあの場に送り出したのがマキナスであるのなら、やつはレイニーの味方だということになる。
オールベルだってわかったものじゃない。
皇帝陛下に取り入って、王になろうとするかも知れぬ。
そもそもあやつらはみなレイニーが皇帝陛下の孫であるという事実を知っていたのだ。
知っていながらクレインにそのことを告げなかった。
そういうことなのだから。
あの謁見のあとマキナスを問い詰めると、レイニーの言っていたことはすべて真実だという返事が返ってきた。
「ですから、今レイニー様と陛下が離婚なされた場合、ロクサンシームの政務は滞ると申し上げました」
メガネを押し上げそうしれっと答えたマキナス。
まるで。
それはクレインの無知を嘲笑うかのようにも見えた。
どちらにしても、だ。
まだだ!
まだ間に合うはずだ!
皇帝陛下も言っていたではないか。
自分が返す返さんという話では、ないと。
だったらまだ手はある。
レイニーを取り戻さなければ。
窓の外はまだ薄暗く、陽が昇っていない時刻であると思われた。
クレインは着ているものをすべて脱ぎ捨て体を拭くと、そのまま持ってきた服の中で一番簡素なものを身につけて。
お供の侍従らの目をも盗み早朝の帝都の街に足を踏み入れた。
■■■■■
「手紙、ですか?」
「ええ、お嬢様あてのお手紙でございます。ですが、どうしましょう?」
わたくしの事をお嬢様と呼ぶのは侍女のメアリィ。
わたくしが幼少の頃こちらで暮らしていた時にずっとそばにいてくれた彼女。
宮殿に残っていたメアリィを、お爺さまがわたくしのためにとそばにつけてくれたのだった。
見知った者がいるというのはやはり安心につながるもので。
一人ここに残り、若干の寂しさも感じていた心の穴を埋めてくれていた。
お嬢様と呼ばれるのはちょっとこそばゆいけど。
「誰から、かしら」
「ロクサンシーム王国国王クレイン様、でございます」
胸が、ズン、と痛くなる。
もう、会いたくない。関わりたくはない。そうは思うけど。
それでも。
『国に帰る前に一度だけでいい、会って謝罪したい。もう戻ってきてくれとは言わない。しかしお願いだ、ケジメだけでもつけさせて欲しい』
手紙にはそう綴られていた。
怒りにまかせ騙すような形で追い詰めた結果に、少しだけ罪悪感を感じていた。
吹っ切れたのも事実だけど、それでも。
『明日の朝、自分達が泊まっている宿の近くにある公園でしばらく待つ。どうか顔だけでも見せてくれないか』
そんな言葉に。
少しだけ躊躇してしまう。
謝ってくれたらそれでいい。最初はそう思っていた。その時のそれは本当に本心だった。
あまりにも彼がわたくしの事など見ていなかったという事に気が付き、冷めてしまった心。
それでも。
「ねえメアリィ。わたくし、明日の朝少し外出をしたいのだけど」
「どちらに行かれますか? 馬車や護衛の手配はどう致しましょう?」
「わたくしの荷物を取りに行ってもらった宿がありましたでしょう? そのそばに公園があるそうなのです」
「それなら聖パルト公園ですね、ここからも近いですし、馬車は必要ありませんか?」
「ええ。メアリィ、付いてきてくださる?」
「わかりました。では明日の朝食後でよろしいですか?」
「ううん、お食事の前に行きますわ。新鮮な早朝の空気も思いっきり味わいたいです」
そう言うと、笑みを浮かべ礼をするメアリィ。
やっぱり。
最後にもう一度顔を見て言ってやりたいこともある。
マキナスもジンライトもわたくしの味方をしてくださるはず。
彼にはもう何もできないのだもの。