31
「ピウス、ここで大人しく待っててな」
「いってきますね」
『ブルル……』
渡船場の近くの水場で馬車を停め、僕とマイカはコーエン夫妻の家に向かった。
「ん? 灯りが点いてる……誰か来てるのかな」
「ミレイさん達じゃないですか?」
「そっか……ごめん、マイカ。念のため僕が先に行ってみる」
「え、でも……」
「大丈夫、念のためだから。もし、僕が戻らなかったらすぐにピウスに乗ってバートンさんを呼んでくれる?」
「やっぱり私も一緒に……」
マイカが不安げな顔で僕を見つめる。
風で銀髪が靡く。
僕はマイカの口元にひっかかった一筋の髪の毛を、そっと耳にかけ直した。
「心配ないよ。こう見えて鍛えてるからね」
少しふざけて見せるが、マイカの顔は晴れない。
「……」
「危ないと思ったら必ず逃げるから。約束する、ね?」
「……はい」
やっと頷いたマイカにそっとハグをしてから、僕はコーエンさんの家に向かった。
家に近づくと妙な気配に気付く。
何だろう……この緊張感というか張り詰めた空気は。
昔、父と森で大きな手負いの熊と出くわしたことを思い出した。
あの時と同じだ……。
どうする、引き返してマイカとバートンさんを呼びに戻るか。
それとも中の様子だけでも探っておくべきか……。
木陰に身を隠し、家の外観を観察する。
父が口うるさく言っていた。
『観察しろ、シチリ。見えているようで人は何も見えていない』
僕は大きく深呼吸をした。
心をフラットにして、ただ目の前の光景を注意深く観察する。
石造りの平屋……入り口側に窓がひとつ……扉は木製……。
家の周囲の地面に少し踏み荒らしたような跡……茂みが建物の裏手にかけて広がっているようだ。
――あれは?
茂みの中に何かが落ちている。
「オレンジ……?」
僕はさながら猟で獲物を追うときのように、気配を殺しながら茂みに近づく。
近くで見ると、それはやはりオレンジだった。
なぜこんな場所に一個だけ……。
不思議に思い周囲を見渡すと、少し離れた場所に紙袋とワインの瓶も転がっていた。
「なぜこんなところに……」
もしかして、ヘンリーさんが持って来たお土産⁉
だとすれば家に入る前に何かあったのだろうか……。
僕は正面に回り込み、そっと窓から中を覗いてみた。
「――⁉」
中にはミレイさんとモーレスさんのふたりが縛られたまま床に転がっていた。
口には猿轡をされ、顔には明らかに殴られたような跡があった。
慌てて入り口のドアを開け、中に入る。
「モーレスさん! ミレイさん!」
ふたりは横になったまま動かない。
「今、外しますから!」
そう言って、ふたりのところへ行こうと足を踏み出した瞬間――、男の声がした。
「せっかく縛ったものを外されると困ってしまいます」
「⁉」
咄嗟に振り返り、壁際に身を寄せて身構える。
「反応がいいですねぇ。君も見た目より強そうだ」
長い黒髪の男……祭司服?
どうして祭司様がここに……。
祭司が黒縁眼鏡の位置を直すとレンズに光が反射した。
「私は大聖堂で祭司を努めているミハイルと申します……。はて、君は何をしにここへ?」
「ふ、ふたりをこんなにしたのは祭司様ですか?」
「質問をしているのは私なのですが……いいでしょう、お答えします。ええ、そうですよ。二人を拘束したのは私です。ですが、勘違いしないでいただきたい、これは大聖堂の意志であり、何よりも優先されるべき事由なのです」
「罪なき人を苦しめるのが? そんな馬鹿な!」
ミハイルが入り口の扉を閉める。
入り口の壁に穴が空いているのが見えた。
「私はある人物を探しています。君はこれをご存じですか?」
祭司服のポケットから、薬瓶を取り出して僕に見せた。
あれは――⁉
僕の作った薬だ……間違いない。
「おや、その顔は何か知っているようですね?」
「その薬が……何だって言うんです」
「なるほど、君が薬師でしたか……」
ミハイルが不気味な笑みを浮かべながら前に出る。
「え……」
「私はこれが"薬"だとは言っておりません」
サッと血の気が引いた。
どうしよう、何がなんだか……。
「作ったら何だって言うんですか? 薬は皆の役に立つものです!」
「ええ、もちろん。これがただの薬なら――の話ですが」
「どういう……」
口を開きかけた瞬間、ミハイルは僕の真横に立っていた。
い、いつの間に⁉
「お聞きしたいことがあります」
「ぐっ⁉」
腕を取られ、背中の方へねじり上げられる。
肩に激痛が走り、片膝を床についた。
「あれを作ったのはあなただけではありませんね?」
「な、何を……」
腕をねじり上げる手に力が加わる。
「ぐあああっ!」
猛烈な痛みが襲ってくる。
「痛むでしょう? あなたが素直に話してくだされば、こんなことをしなくても済むのです」
「ぼ、僕が作ったんだ!」
「やれやれ、そこのふたりといい、あなたといい、どうしてこの町の住人は反抗的なのか……」
「し、知らない! 僕が作ったものを作ったと言って何がいけないんです!」
ミハイルが大きなため息をつく。
そして、僕は意識が飛びそうになるくらいの激痛に襲われた。
「ああああぁっ!!!」
ゴギッという鈍い音が響く。
だらんと垂れ下がった右腕。指の感覚がなかった。
「あ……ああ……うぐ……」
「さあ、言いなさい。誰がいたのですか?」
マイカの顔が浮かぶ。
こんな痛みが何だ……死んでも言うもんか。
今頃、マイカがバートンさんを呼びに行っているはず……、もう少しの辛抱だ。
「し、知るもんか……」
「……そうですか」
左腕を掴まれ、同じようにねじり上げられる。
「うわぁああ!」
頬が床に付く。
ワックスの匂いがした。
向こうに横たわるふたりと目が合う。
眉をしかめ、辛そうな瞳を向けるふたりに、僕は精一杯大丈夫だと目で訴えた。
負けない……。
たぶんミハイル祭司は、ヘンリーさんの言っていた禁忌の森の監視人だ……。
マイカを見つけたら、きっと……。
「知るもんかぁーーっ! 僕は、僕は何も知らないぞ!」
腹の底から叫んだ。
「困りましたね……君はずいぶんと我慢強い。では、他人の痛みならどうでしょうか?」
僕の手を離すと、ミハイルはミレイさんの側に行った。
「や、やめ……」
「まずは彼女から――」
ゴッ! という籠もった音が響く。
ミレイさんの頭をミハイルが踏みつけていた。
「やめろ!」
ミレイさんの鼻から血が流れ出した。
「どうですか? 少しは気が変わりましたか?」
「……ミ、ミレイさん……う、うぅ……」
「さぁ、言いなさい。あの薬は誰と作ったのですか?」
「……」
「参りましたねぇ……ではこっちの男はどうでしょう」
ミハイルはモーレスさんの顔を躊躇なく蹴り始めた。
「や、やめろ! やめてくれ!」
「なら、いい加減言いなさい。彼らの命はあなたが握っているのですよ?」
だ、駄目だ……見殺しにはできない。
でも、それでも、マイカだけは……。
「僕を……僕を代わりに殺せばいいだろ!」
ミハイルが足をとめ、眼鏡の位置を直して僕に向き直った。
「これはね、君の命を賭けて済む話ではないんですよ」
ゆっくりとミハイルが僕に近づいてくる。
その時、入り口の扉がゆっくりと開き、一番見たくない顔が覗いた。
「シチリ……?」
「く、来るなぁーーーーーっ!!!」
そう叫んだ瞬間、目の前が真っ暗になった。