■漆章『結界が引き寄せた衝突する思想』
幾つか歩けば大通りに差し掛からんとするくらいだろうか。陽は未だ高く、これからゆっくりと高度を落としていくだろう。タカが路地裏を一瞥した時、イアが言っていた通りの柄を有していたすねこすりが、突き当たりのところで怯えているのが見えた。
「―――イア、あれって……」
イアはぱぁっと顔を明るくした。その反応からして、間違いなく件のすねこすりだろう。
懸念していた傷や、極端にやせ細っているということはないのだが、イアが居てもこちらを酷く警戒しているようで、タカが近づこうとすると、フシャァと威嚇の姿勢を取った。出会った時用にと持ってきたマタタビをちらつかせても、尚こちらを睨んで後退るだけだ。
「なんや、猫やったら好きなモンやと思ったけどなぁ」
「うーん……ちょっと待って‼」
すると、イアがふと思いついたように声を上げた。イアが持ってきた鞄を漁り取り出したのは、人型のクッキーのようだった。そこからはトウモロコシに似た香りが漂っていき、すねこすりの鼻をくすぐった。耳をぴんと立たせたかと思うと、走り出し飛びつくように、イアの懐へと収まったのだ。
「よし、よし……よかったぁ……‼ ありがとう、タカさん‼」
イアは心底安堵したように、ぎゅぅっとすねこすりを抱きしめる。すねこすりもまんざらでもなく、同様に頬をこすり合わせた。
これで依頼は解決―――なのだが。タカにはどうしても腑に落ちないところがあったようで、イアに問いかけたのだ。
「なぁ、最初から好物を出しときゃ、勝手に寄ってきたんとちゃうか?」
「んー……それでも、この子は来なかったと思うよ」
「そりゃぁ、なんでなん?」
「なんとなくでも、わからない?」そう返された時、イアを中心とした空気が一変する。凪とは程遠い生々しさと、粘っこく貼り付けられる言の葉の威圧。自らが地面に吸い寄せられ、今にも溶けて埋められそうな程圧力のある、安らかなる温風。それが路地を蠢かせ、土塊一つ一つが生きているかに錯覚させられる。
「イア……?」
「ねぇ、優しさを感じさせるには、どうしたらいいかな?」
その問い掛けは、タカを試すようであった。間違いは喜ばしくない、しかしその間違いこそ、理不尽な常識の上だというプレッシャーを纏わせて。
「……優しく、する」
「いいえ、違うよ。それだけだと理解できない可能性がある」
―――そのように思慮深い台詞を、ただの子供が吐けるモノだろうか。タカのありきたりな疑問を押し流すように、イアは優しく窘める。波に吞まれたタカの目から、徐々に光が失われていく。
「……じゃあ、欲しいモンをあげる、か」
「それも違う。惜しいけれどね」
「最も確実な方法がある」とソレは囁き掛けた。イアと名乗った少女は、既にかつての姿を失っている。少女は冷たく伸びきった爪をだらんと垂らし、背丈は高く見合わない位にやせ細り、けれど若々しくとも死人ともとれる顔へと塗り替わった。……暗黒の神か、或いは堕落した人外の如き魅力があり、眼の辺りには気まぐれが浮き上がっているようであった。
すねこすりに至っては、見る影もなし。舌は二股に裂け、毛皮を突き破って黒くぬたついた鱗が睨み付ける。口は蛇のように頬を裂き、瞳も爬虫類のソレではあったが、足であった部位は蝙蝠を彷彿とさせる翼が二対生え揃っていた。
タカはこの場で逃げも隠れもしない。奇妙なことに、本能由来の危険信号が全く頭に届いている気配が無かったのだ。ただ目の前の崇拝対象に見惚れ、僅かな救いを欲す心が、強く、強く脈打っているように、心音をごまかしている。
イア―――いいや。正体たる『赤の女王』は、タカに悪知恵を吹き込んだ。
「欲しいモノをずぅっとちらつかせておくんだ。目の前、ふとしたとき、甘い蜜を見せびらかして、引っ込める。……そうして、本当に欲しがった時に渡せば、キミを信じ続けてすがってくれるだろうね」
「欲しがった……時に……」
「長い長い時間の中、待たされた分まで欲しがるのが人間さ。だから、飼いならすには時間が必要なんだ」
そうそそのかされ、既にタカの瞳からは光が失せていた。残ったのは過去が「あった」という認識だけで、今迄の不運や不幸でさえ、幸福を満足に与えていなかった自責の念が渦巻き、さてここからどうしようか、とそれだけが脳裏にしがみついて離れなくなっている。
「―――手を離さないように。この時を、永遠にも思わせるんだ」
……タカの振り切った片笑みは、涙を伴って路地に零れる。滴る度に、何処かから鈴の音が響いている。
『結界』という存在があった。そもそもは神聖な地とそうでない日常の地を区切る壁―――神社仏閣の門や木々がそれにあたる―――であった。現在でも浮世における結界の認識はそうであるが、第二地獄では降閻魔尊との大戦を皮切りに、特異な「固有の神力」として定着していくこととなる。焔摩が降閻魔尊を討伐した際、自らを結界で包むことによって「神聖な地」そのものを自身と定義した。その影響により、焔摩は神力を持ってして戦いを終わらせたのだ。
かなり簡単に言えば、「対象に神の力を付与する」ことで、不条理を可能にしているのだ。
ツグの右手にも、第二地獄における結界を効率的に、かつ制限して行使する為の指輪がはめられていた。指輪型の「結界制御装置」は幽鬼神道町のトレンドの先端であり、円環は結界の生成に、中の僅かな細い空洞は結界の強弱に、それぞれ役立っているのだ。
さて、泉がツグとその後ろ―――こっそり背から語りかける、ツグの結界によって呼ばれた―――の存在「月読尊」曰く、泉の持つ結界というのは『あらゆるモノを断ち切る』素質がある、とのことだ。
「……すると、この瞳の力というのが『結界』なのか?」
「多分そうじゃないですかねぇ。瞳は中々聞いたことはないですが、腕や口なら一般的ですし、あり得ないことではありません」
ツグは続けて、タカの結界についても補足する。タカの有する結界というのは『あらゆるモノを引き寄せる』ことが可能である。武器を手中に収めることに始まり、感情によっては「引き寄せる」という概念そのものを掌握することができるのだそうだ。―――現在、第二地獄を包むタカの結界は、あらゆる『縁』を引き寄せてしまっているのだ。
「ちょっと待て。先程の話では、その指輪から結界が発生するのだろう? なれば、この町全域を包むことなど、容易ではないだろう」
「そうですねぇ。一般的には、指輪の制御装置によって、相対する存在―――つまりは、敵の強さに応じて、結界の強度や範囲は比例して増減するのです」
「もし……」とツグは言葉を続ける。
「この結界を生み出せる程、強大な存在がタカに接触しているのなら、或いは指輪の機能を奪われているとすれば、不可能なことではありませんよ」
泉の頭には、既にれっきとした仮説が構築されていた。薄々嫌な予感はしていた。イアと名乗るあの少女は、不可思議な程自らの気配を薄く取り繕っていた。そういう結界であるにしろ、彼女が狙って気配を消していたのなら、目的があって自分らに接触したのだろう。
そして、仮にこの黒幕がイアであるのなら、彼女に強く影響されているだろうタカは切り捨てる他ないだろう、と。泉はかつての精神を引き出し、冷酷な判断に踏み切ろうとしていた。
「……某は、どうすればいい」
「話の通りがよくて助かります。アナタがすべきは、アナタの結界を用いて『幽鬼神道町』と『タカ』の『縁』を断ち切ることでしょう」
「それは―――どういうことだ?」
「アナタの力を用いれば、幽鬼神道町全域にまで広がったタカの結界を断ち切る―――正確には、タカと幽鬼神道町を無縁にすることができるでしょう。そうなれば、アナタとの縁も、無理に繋がった縁も、元に戻るかと」
ここまでの話を聞いて、タカは泉を縛り付けようと、意図して黒幕側に力を使った人物だと疑わしい。そこに色があるなら、黒くあるべきだ。……しかし泉は迷いを捨てきれず、寧ろ僅かな共感が邪魔をしているようだった。
その気になれば、縁深いツグとの縁を結びに行くことだって出来た。何故手配されているとわかりきっている泉との縁を選んだのか?
……偶発的だろうと、何故純粋な優しさを持って接していたのだろう。
「……縁を断ち切れば、お前と町の縁まで切れてしまうのか?」
「ご心配に及ばず。幽鬼神道町の縁とワタシの縁は、また別物ですからね。……ですが、何故そのような心配を?」
泉はそれ以上は閉口せざるを得なかった。自分でも、他人の縁を心配した理由が分からなかったからだ。
悩んだ末、泉は今夜計画を実行することにした。ツグと別れ、イアとの取引を終えた時も、不審そうにタカを見つめては、少し戸惑いを見せる泉。タカは不思議だと見つめ返し、どこか安堵した目つきをしていたのだ。
それから太陽が町の端に到達し、灯はやがて月明かりに変わる。とは言え、新月に灯るは星に見立てた穴埋めの光の玉。それだけが頼りなく輝く夜に、泉は何も言わず、荷物を纏めて便利屋の事務所を後にしようと、ドアノブを握った。早いところ、影響下から脱さなければならない。自らが吞まれる前にと、一歩を踏み出した刹那であった。
「―――なぁ」
泉は、自身の行動が隙だらけで、焼きが回ったと悔いる。既にタカは泉の背後を陣取って、服の裾を逃さぬと握っていたからだ。同時に、仮説正しく虚ろな瞳が、真っ直ぐに見つめていた、とも。
「どこいくん、こんな時間に」
※本エピソードは「小説家になろう」への投稿として公開されており、後にエピソードの内容が変更される可能性がありますことを、ご留意ください。




