九章 屈折
空腹が手伝ったのだろう。花の食べっぷりは音羅のそれを思わせる気持よさだった。
寮前まで見送ってくれた花が、お辞儀をした。
「今日はありがとうございました!」
はきはきとした挨拶は武芸者のそれ。そのあと、
「その、金ができたら、また、呼んでもいい」
控えめに尋ねた花にララナは快諾した。
「花さんとはお金のやり取りのない付合いがしたいですね」
と、携帯端末の電話番号を記したメモを渡して、「何かあればこちらに連絡してください。強制ではございませんのお気軽に。勉強の依頼でなくても問題ございません」
「なんか、切札みたいな連絡先だわ。あなたみたいな有魔力、観たことも聞いたこともなかったから」
「っふふ、光栄です。電話を繫いだときには『ここだけの話』を再開致しましょう」
「信用してる。裏切ったら、今度試合で娘をボッコボコしてやるっ」
「裏切りませんが、真剣勝負は音羅ちゃんも望むところでしょう。くれぐれも体に気をつけてください」
「うん……、ありがとな」
花の表情が一瞬曇った。
……たったの四時間です。
ひと一人が内心を全て話すには足りない。すぐに消えた表情の曇りの理由を知る由もないが花に何かあればララナだけでなく音羅や納月達もバックアップする。そうして関係が築かれれば、花を支えることができるだろう。今は、それでいい。
花の言葉を胸に、ララナは次の仕事場に向かった。
部屋に戻った野原花は、ベッドに前から倒れ込んで唸った。
「うーーっ、なんなんだよ、あれはぁ……くっそ、……くそぉ……」
屈辱といえばそうだ。竹神音羅達の母親にあれほど胸のうちを明かしてしまうとは、思ってもみなかった。それなのに、
「……くそぅ、……」
胸がすっとしている。涙が出てくる。
気が弱っている。そんなことは、家庭教師を要請したときに頭の片隅で捉えていたことだ。まさか竹神音羅達の母親が来て、中等部時代までに接してきた有魔力との違いに内心愕然として翻弄されてしまうなんて、予想がつくはずもなく。家庭教師の有魔力は性格最悪で反りが合わない高級志向であると想定していたのだ。どんな嫌みをぶつけてやろうかと怨み満面で待っていて、訪れたのはあの少女だった。つい「あなた」なんて呼んでしまって引っ込みがつかなくなった。
竹神音羅。竹神納月。それと此方翼。三人は野原花の中で怨みの対象となる有魔力とは異なっていた。此方翼は特殊として、竹神姉妹がそうである理由が、あの母親にあることは間違いなかった。なんの偏見もなく無魔力の野原花に接して、話を聞いて、受け止めて、武術指南して、手料理まで作った。
……おいしかった。最近食べた何よりも。
心が舌を悦ばせていたようにも思う。野原花の言葉を親身になって聞く者は、これまでいなかった。無魔力の人間ですら、ほとんどいなかったのだ。性格が災いしていることは解っている。でも、変えようがない。治らない。
そう察したかのように、竹神羅欄納は野原花の毒をときに受け流し、ときに叱った。
野原花はそれが嬉しかった。菱餅蓮香がいっていたように格闘技術向上に協力していた先輩は野原花と一定の距離を置いていた。それを利用して、野原花はひたすら技術向上に明け暮れた。お蔭で強くはなった。手応えだけが残って、虚しくて仕方がなかった──。そして、此方翼に指摘された通りだ。夢を追いたくて、頑張って、働いている。きっと、竹神羅欄納の言う通り世界は無魔力に取っていい方向に変わりつつあるのだろうが野原花はまだ実感が持てないでいる。だからがむしゃらに学園で鍛錬して、学園で鍛錬をするために稼ぐ。どんなことをしたって、稼ぐしかないのだ。どんなに虚しくても、未来のためには。
野原花はベッドから起き上がり、竹神羅欄納から教わったことを復習するために机につく。と、
こん、こん。
普段なら乾いて聞こえるノックの音がちょっぴり潤っていた。が、誰だ。学園に友人と呼べるような人間はいない。
ノートを閉じて、
「空いてるぜ」
と、野原花は応えた。
ドアが開く。そこに立っていたのは、
「っ、が、くえんちょう……、す、すんませんっ」
「ああ、そのまま、そのまま。勉強中でしたか」
学園長が歩み寄って肩に手を置き、立ち上がろうとした野原花を椅子に戻した。
「その、勉強中、でした。学園長がいったいどうしてこんなとこに」
「一学年生で代替単位を得ている、それに加えて退部させられてしまった生徒がいることは聞いていたので、時間があったら会おうと思っていたんです」
入学式のときと同じ、耳に心地いいほど優しい声。野原花は安易に心を開かない。
「あたしなんかの様子を観に来るなんて暇なんですね」
「お邪魔したのならお詫びを。用が済み次第お暇しましょう。学園長としては生徒の実態を知りたいので教えてほしいんです。お時間、よろしいですか」
今は復習がしたい。学園長といえども邪魔をするなら早く出ていってもらわねば。野原花は不遜ながらそう考えていた。
「なんですか」
「花君は仕事をしているんでしたね」
「そうですけど」
「それは、健全なお仕事ですか」
「──」
知られているはずはない。ないが。
もし知られているとしたら──。
野原花は血の気が引いた。
それを察したか、学園長が微笑む。
「学園長としてあなたをしっかり卒業させてあげたいんです。わたしに、何かできることはありませんか」
「な、何かって……」
動揺した野原花の舌が回らなかったことで学園長は全てを察したよう。
「今の仕事はやめてください。替りの仕事をわたしが紹介しましょう」
「え……」
「迷惑でしたか」
「あ、いや……」
逆だ。仕事の紹介自体は非常に助かる。学園長の紹介なら信頼を得て安定もするだろう。時給あるいは日給がいかほどか。日中のバイトは時給六〇〇ラルと安いが夜ならたった三〇分で六〇〇〇ラルも稼げる──。
「日中の仕事です。一日二時間だけですが、日当五〇〇〇ラル、別途歩合給がもらえますよ」
「日当五〇〇〇と、歩合給──」
夜の仕事に比べたら安いが貧しい野原花に取っては夢のような高給だ。有魔力の伝があるとそんなにいい仕事に就けるのか──。野原花はそんな考えを持ってすぐ内心で訝り、尋ねる。
「どんな仕事ですか。めちゃくちゃな重労働とかですか」
学園長。それがどうした。有魔力だ。
……有魔力なんて、信用するもんか。
竹神羅欄納やその娘のような人物と遭遇したあとにあり得ないとは言わないが、好人格の有魔力がほいほい現れるはずがない、と、野原花は疑ったのである。
学園長がカーテンを眺めつつ、
「仕事内容としては、同世代の女性達と雑談をするだけです。現代女子生徒の実態調査と題した行政事業です」
「(ってことは一種の公務、それか下請け業務みたい感じか。)無駄遣いですね。貧民政策に税金を使ったほうがいいんじゃ」
「それゆえですよ」
「──」
「解っていただけましたか」
学園長が微笑んでいる。
底知れない人物だ。
……あたしが貧民で金に困ってるって知ってて紹介したわけか。って、学園長だし当然か。
多額の国家予算が動く。金を払ってもらわなければ学園は儲けられないという面もあるだろうが、どうせなら野原花のような下流階級出身者や無魔力に予算を充てるべきだと学園長は考えていたようだ。
「あなたと似たような境遇の生徒にこういった政府の仕事を紹介しています。花君、未来の道を、その手で切り拓いてください」
その言葉は、竹神羅欄納に似て優しい。
政府の仕事なら法に触れるようなことはない。正攻法で大きな稼ぎを得られるが高給ゆえ気を遣うところがあるだろう。我慢ならないことがあればやめればいい。
「試しでよければ、行ってみます」
「慎重さも大切ですね。先方に連絡しておきますので、準備ができたらその日からお願いします。場所は追って連絡しましょう」
「けど、さすが学園長ですね。政府の仕事を紹介できるなんて」
学園長の言葉や態度は極めて優しく裏がないように感ぜられる。もはや性分だ。野原花は皮肉を吐いてしまう。
学園長が微苦笑。
「ご存じのことと思いますが、第三田創は私立、それも異端です。創設にはそれなりに曲げねばならないこともありました」
「あぁ……」
学園創設の認可を得るために政府の仕事を手伝うことになった、と。いわゆるギブアンドテイク、取引だ。有魔力の世界にもそんな泥臭いことがある、と、野原花は親近感を覚えた。
「失敬、わたしもいささか年を取りました。今の話は忘れてください」
と、学園長がお辞儀、部屋の扉を開けた。「頑張っているあなたを応援しているひとが、きっとたくさんいます。何があっても腐らずみんなと支え合って生きてください」
はい。とは、言えなかったが、野原花は会釈して学園長を見送った。
夜、寮母を介して学園長からの封書で仕事についての連絡が届いた。政府の依頼している実態調査の職場はごくごく近隣。日中働いているファミリーレストランもある商店街の一角で、学園に程近い場所だった。
翌日二五日、日中のシフトを調整して明日の予定を空けると、夕方に学園長を訪ねて政府の仕事と差し替えた。
二六日木曜日。週末間近でいつもなら気も体も重くなりつつあるが、接客業で無理に笑顔を振り撒く必要がないと思うだけで随分と気が楽になって野原花は体の調子が少しよく感じた。政府の実態調査業務はその名の通り実態調査であるから制服・私服どちらも可。放課後園芸部に顔を出す必要があるので、野原花は制服を着て出勤した。私服が奇抜な服というわけでもないがちゃらちゃらしていると思われて肝心の仕事をキャンセルされる、などという事態を回避するのが制服を選んだ一番の理由だ。バイトを蹴ってやってきたのだから確実に稼がねば。野原花の懐事情は、至ってまじめに切実である。
商店街の中央アーケード。ここへは、夜の仕事場や学園への通り道としてしか来ない。間違っても無駄遣いにやってくることなどないし、購買意欲を刺激してしまいそうなウインドウショッピングなど以ての外。
……いつか、普通に買物できる日が来んのかな。
そんなことを思うのは何度目だろう。
初等部高学年に上がった頃から、自分の私服はほかの女子よりセンスがないことを自覚していた。中等部に上がってから親のお金をくすねて密かに「可愛い服」を買った。バレて、叱られた。ひどく悪いことをした気がしてその服を着ることができなかった。高等部に入ってから私服を買っておらず流行遅れを纏うほかない。だから制服でやってきた、と、いうことも否定はできない。ダサい服を着るくらいなら制服のほうがいい。幸いにして、第三田創の制服は私立らしく洗練されている。脚が長く見えるミニスカートといい、ブラウスの刺繍といい、なんという壮美。かつての有魔力の同級生にいわせれば無魔力にはもったいない。
……ほんと、バカにしてらぁ。
ブティックを視る眼を歩む先へ向けて──、中央アーケードの途中、南の路地に入って開けた通りに出ると西へ十数メートル進んだ。そこに、目的地があった。
……ここだ。カフェテリア〈紅玉〉。
何十年建っているのか。看板の文字がほとんど読み取れず、通り過ぎそうになってしまった。
カラン、コローン……。
年季の入ったドアベル。入口左手を観ると時代に置き去りにされたかのような内装。さわるとボロボロと崩れそうな古びた革の長椅子に、ミスマッチな現代女子が座って気儘に雑談しているのは不可思議な光景にも思えた。
「こちらで身分証明書を提示してもらえますか」
キチッとしたスーツ姿の女性が右手カーテンの奥から現れ、野原花を招いた。
政府の仕事。身分証明書が必要とは学園長からも聞いていた。カーテンを閉めた個室で、野原花は女性に尋ねた。
「すいません、学生証くらいしかないんですけどいいですか」
戸籍謄本でもよかったのだろうが、役所仕事には手数料が掛かる。野原花は極力お金を出したくなかった。
「結構ですよ」
と、女性が応じて、「どんな生徒さんに話を聞いたかファイルを作るので、身分証明書と一緒にあなたの写真を撮らせてもらいますがよろしいですか」
「あ、はい」
野原花は反射的にうなづいた。
……映りが悪かったら嫌だな。
などと思いつつ、女性の前に立ち、カメラのフラッシュに目を眩ませた。
……これ、苦手なんだよなぁ。
学園での集合写真では毎度嫌な思いをした。有魔力に押し退けられたまま気づかれず撮影が終わって自分の写っていない写真を買わされたりしたのは嫌だったが、写っていても瞼が半開きではハブりのネタにされるだけだった。
「もう結構ですよ」
と、女性がサイドボードにカメラを置いて、替りに一枚の書類を挟んだ用箋挾と万年筆を野原花に渡した。
「そちらにサインを。こちらが今回の日当です」
「あ、先払いなんだ……」
思わず口走った。
……ダメだ。堅苦しい感じがやっぱり苦手だ。
竹神羅欄納にもその感があった。彼女は柔和な雰囲気でそれほど苦にはならなかったのだがこの女性は真逆だ。完全に台本に沿って動いているような気配がする。マニュアルがあるか、似たような手続きを繰り返しているために気持が入らないのだろう。先にやってきた従業員もとい現代女子がたくさんいるようだから仕方ない。
渡された封筒の中身を確認すると、学園長が話していた五〇〇〇ラル札が一枚。野原花は、書類にサインをしつつ、
「歩合制でしたよね。歩合って、具体的に何を」
と、尋ねて女性に用箋挾を返した。
用箋挾から書類を取ってファイルに収めると次の書類を挟んでサイドボードに置いて、女性が答えた。
「書類に書いてありましたが、何人と話をしたか、どんな話をしたか、実態から掛け離れていないか、などなどのポイントから加算式となっています。それらを計測するために室内には動画撮影用のカメラを置いてあることも書類で伝えた通りです。なお、歩合給は後日お渡しすることになります。これも書いてありましたね、大変失礼しました」
「あはは、そうでしたねぇ……。(空気に流されて読めてなかったなんていえねー)」
カメラで撮影されることへの同意も含んだサインだったのだろう。文字の細かさと長さから小難しいことがびっしり書かれているものと思って目が遠退いていたなどとは言えない。
女性は総合案内係のようで、入口左手にあった部屋へと野原花を案内、自由に飲物を頼んでいいということも伝えて、カーテンの奥へ戻っていった。
野原花はミルクを頼んで空いていたカウンタ席で飲み始めた。両隣の席の女子と雑談が始まり、どこの高等部へ通っているとか、普段何をしているとか、好きな食べ物は何とか、趣味は何とか、平日と休日は何をしているとか、他愛のない話を続けて時間が過ぎた。カフェテリアとは名ばかりに、カウンタ奥に店主がいて要望の飲物を出す。喋りっ放しなので喉が渇く。飲物を頼んでいいシステムなのは喉を潰さないため。だとしても、給料が出てさらに普段飲めないものまでタダで飲めてしまうのだから。
……これ、ホントに仕事なのかよ。ウマウマじゃん。
女子と話しながら、野原花は内心気楽なものだった。
だが、右手に座っていた女子が、
「うちの中等部、有魔力が牛耳っちゃっててさぁ、嫌な感じだったんだよねー。野原ちゃんとこはどうだったー?」
なんて質問をそれまでの話題と同じように気軽にした。無魔力のあいだではあるあるだ。有魔力の気に障る態度なんていくらでも思い当たる。無魔力同士なら有魔力に関する嫌な思い出を気兼ねなく話せるからストレス発散になる。と、いうのが一般的な意見だろう。
有魔力との衝突が特に激しかった中等部時代のことを、野原花は話したくなかった。雑談する分にはいいが、相手の女子に心を許したわけではない。どうやらここにいる女子はほとんどが下流階級出身者で無魔力でもあるようだが、そうだとしても野原花は自分のことを語りたいとは思わなかった。
「どーしたの、野原ちゃん。よっぽど嫌なことがあったとか」
と、左手に座っていた女子が心配した。
両側の女子は一つ二つ年上だが、野原花は気遣いなくタメ口で話す。
「荒れてたからね」
と、少し曖昧に返すと、右手の女子が理解を示して自分の中等部時代を掘り下げたので、野原花は助かった。
……実態調査、か。
本心を話すべきなのだろう。それが歩合給となって生活を潤してくれる。だからみんな、気兼ねなく胸のうちを明かしているという側面はあるだろう。彼女達を悪いとは、野原花は思わない。野原花と似たような体験をし、苦しんで、泣いたことだって数知れないようで、警戒心だって持っているようだった。そんな彼女達が相手でも、野原花は腹を割って話せなかった。
お金のために心を明かす、と、いう構図。それを間違っているだなんて言えない。お金のためにがむしゃらになることを否定できない。野原花も同じなのだ。お金のためにできることはなんでもしてきた。
どこかに一線を引いて、やらなかった・やらないことが、野原花には確実にある。それが、心を売ること。ここでは、苦悩や苦労や葛藤、そういった心をお金に換えることができる。夢のような話といえなくはない。空からお金が降ってくるような話だ。できることならお金は多くほしい。けれども、苦悩や苦労や葛藤を、ストレス発散という行為と重ねて吐き出して、まるで手放すようにしてお金に換えていいのか──。この場では楽になれる。当面、お金の心配をする必要もなくなるかも知れない。みんな、それを求めているから口を開いている。心を明かしている。
……あたしには、無理だ。
自分の一部を切り捨てるようなことになりはしないか。
そう考えたら、心は手放せなかった。負債と思わざるを得ない怨みだって、野原花に取っては自分を高めるための一つの糧だった。その糧を、一時の休息や安穏のために失うかも知れなかったから。
竹神羅欄納に本音を話せてしまったのは、柔らかい雰囲気に加えて彼女の幼い容姿──、それが自然と警戒心を解いていた。お金の絡まない関係でありたいと思って彼女が心を開いていてくれたからでもあるだろう。あれは、特異な状況だった。
勤務時間を喋り通して、しかし心は明かさぬまま野原花はカフェテリアをあとにした。歩合給は望めそうもない。案内係の女性が少し不満げに見送っていたように観えた。
……いいさ、これきりのバイトだ。明日からはまたファミレス。それがいい。
慣れない笑顔を作って愛想を振り撒いて疲れるならいい。自分の心を明かしもせずに他者の心に触れ続けるアンフェアは堪えがたい。同じような傷を抱えているひとびとに対して罪悪感が湧かないはずがなく、野原花は、押し潰されそうな疲労感で吐息が漏れた。
さて、どうするか。今回の仕事が試しでも学園長には詫びなければ。学園長がきつく咎めてくることはないだろうが、夜の仕事を辞めるよう言っていたことが問題だ。
……実態調査の仕事を断るからには、続けるってことがバレちまいそうだけど。
学園長は世界に名を轟かせた大魔術師だったと評判だ。そんな学園長に噓をつき通せるか。夜の仕事内容を摑んでいて「やめなさい」の一言で見逃してくれたのだとしたら、夜の仕事を続けるリスクは極めて大きい。
……退学にされちまったら、もう、どうしようもないよな。
勉強が得意でなく編入できる高等部がない。夜の仕事をやめれば学費の工面などできるはずもない。
……どうすりゃ、いいんだろうな。
一度は目に掛けてくれた学園長星川英。信用しきったわけではないが、恩を仇で返すのも、野原花は好かない。
……、……。
竹神羅欄納の顔が浮かんだ。連絡先を教えてくれた柔和な女性。少女のような外見からは想像もつかないような身のこなしと懐の深さを感ぜさせた、唯一頼れそうなひと。
頼れそうなひと。
……──。
吐き気がする。お金の無心など。
頼れそうなひとだからこそ、してはならないこともある。彼女が言ったような関係でありたいと野原花は思うのである。
「っはは……。(八方塞りだ。ビンボー暇なし、馬鹿しか見ねぇ)」
商店街中央アーケードに差しかかる。行きにも視たブティックの窓奥。
……、……。
飾られていた綺麗なワンピースがなくなっている。
……別に、なんでもないだろ。
この二時間で誰かに買われた。それだけのこと。
……そうだよな、ああ、いい感じのワンピだったもんな。売れるよ、そりゃ。
野原花は、手が届かないものばかりだ。
……仕方ねぇよな、金ないし。世の中、金と、力だし。仕方が……ねぇっての。
熱が溢れて、野原花は駆け出した。寮に向けて、全力で。
放課後は学園へ行かなければならないのに、何を考えて歩を進め、結局どこを走ったのか。
いつの間にか寮を通り過ぎて、川岸に行きついていた。静かな場所。誰もいない。聞こえた息遣いは稽古のあとより荒れている。川のせせらぎと木木のそよぎが耳を撫でる。そんなはずはなのに自然が何もかも受け止めてくれそうな気がして、口が勝手に開いた。
「くそっ……、くそ、(もっと楽に生きてぇよ……。)っーーーーーーーーーーッ!」
喉が潰れそうな叫びで不満をぶちまけた。大きな声を出したら楽になるはずだったのに、むしろ、筋肉が強張って、苦しくなった。
……どうしたら、いいんだよ。誰か、教えてくれよ。なぁ、──。
待ったを掛ける間もない。部活を終えた野原花が、「じゃあ」と、帰ってしまった。
此方翼が首を横に振った。
時間差でパタン……、と、閉まった扉を見つめて、納月はこれまでにない空虚を感じた。
野原花の仕事ぶりは前日となんら変りなく効率的で無駄がなかったが、どこかが違った。それが何かと明確に指摘できなかったから見送るしかなかった。此方翼もそうだろう。
ぽふっと綿毛を散らせてワタボウが現れ、此方翼の頭に載った。
「ふぅふぅ」
野原花がいなくなると現れるので彼女との距離が「まだまだ詰められていない」ということだけは判るが。
「何か、あったんでしょうか」
「体を痛めている様子はなかったから、心的または精神的変化があったのね」
「何かできることはないでしょうかね。此方しゃんがタンポポをあげて以降は、距離を詰められていない、関係も進展してないような……」
「野原花さんは、わたし達が考えていたよりもずっと深い傷や秘密を抱えているのね。場合によっては荒療治も必要よ」
「荒療治でしか。最終手段でしゅよね、それは」
「無論よ。でも、荒療治も病がはっきりしていなければ断行できない。今は、時間を掛けて確実に観察するほかないわ」
部活制限時刻に追われるようにして別館を出た二人はいつもの喫茶店にやってきた。注文の品が届くと納月は口を開く。
「いつものことながら此方しゃんに支払いを任せてしまってよいのか迷いましゅ」
「気にしないで。わたしが道に迷いそうなときに助けてくれるお礼をかねているのよ」
「道に迷いしょうな、じゃなく、絶対迷ってましゅけどね」
自分の前にある道こそ正しいとなかなか譲らない此方翼を引き摺って移動するのは毎度手間が掛かるから、気兼ねは要るまい。
「ふぅふぅ」
ワタボウがふわふわ旋回している。それを眺めてコーヒを一口飲んだ此方翼。
「野原花さんのことだけれど、仕事をいくつ掛け持ちしているか、具体的に何をしているか、わたしはその全てを聞いていない」
「でしょうね。わたしもしょうでしょう」
「調べましょう」
「藪から棒」
「野原花さんとの以前の話を思い出して。『気が疲れる』ということに同意していたし、飲食店で働いているというのも聞いたわね」
「時間帯は昼でしたね。野原しゃんの職場を探して、仕事ぶりを見守るつもりでしゅか」
「変化の理由を探るわ。そちらが主眼」
「問題のある変化なら、一緒に解決しゅるんでしゅね」
「早速行きましょう」
「ちょっと待ってくだしゃい」
飲みかけを置いて立ち上がった此方翼を納月は止めた。「当てはあるんでしゅか」
此方翼が立ったまま。
「喫茶店、寿司屋、居酒屋、焼肉店、ファミリーレストラン、バー、カフェ、ハンバーグ」
「ハンバーグ」
「の、レストラン」
「ハンバーグレストランでしゅか」
「ハンバーグはいま食べたくていっただけだったわ」
此方翼はこういうひと。納月はもう慣れた。
「ふぅふぅ」
ワタボウは突拍子のない此方翼のペースが合っているのか、愉しそうに浮遊している。
「いろいろな飲食店があるわね。けれど、園芸部に顔を出す野原花さんを観察していて気づいたことがいくつかあるわ」
「わたしもいくつかありましゅ」
と、いうことで、気づいた点を出してゆくことになった。
「まず、におい」
と、此方翼が先に気づきを示した。
納月はうなづく。
「最初会ったときはしなかったのに、次に部活で会うようになってから独特のにおいがしてるような気がしましたね。アレは職場の割出しに役立つ情報でしたか」
此方翼が席に直って、
「煙草ね」
「えっ。野原しゃんが不良行為を」
「彼女の歯は至って綺麗で喫煙者にしてはにおいが濃くないわ。間接的に触れている、副流煙を吸うような職場で働いているということね」
「それだけだと相当幅がありそうでしゅ。喫煙可能な職場なんていくらでもあるでしょう」
「たまに髪が乱れているわ」
「次の気づきでしゅね。わたしは気づきまひぇんでしたが、はて、それくらいなら走って部に駆けつけたと考えれば自然では」
「横髪が耳の後ろにやや流れ込む形で、一定に乱れていたわ」
「一定に。ちょっと不自然でしゅね。原因はなんだと思いましゅか」
「髪留めかしら」
「(ヘッドドレスも入りましゅかね……。)わたしの気づきに関連してそうでし」
「わたしの最後の気づきと一致しているかしら」
「鞄でしゅ」
此方翼がうなづいた。
「そう。エプロンが覗いていたことがあった」
少し前に一度だけだが、納月と同じように此方翼も気づいていたようだ。
「竹神納月さんはどう観る」
「フリルいっぱいのあのエプロンは、テレビで観たメイドカフェのものに似てました」
「あのデザインはチェーン店のファミリーレストラン。この商店街にあるものと同じよ。野原花さんが期間限定の割引云云の話をしていたことも職場と合っている」
ファミリーレストランに納月は行ったことがない。
「じゃあ、此方しゃんは前からそのファミリーレストランに目星をつけてたんでしゅね」
「行ってみようと思ったけど、なぜか見当たらなかったわ。毎日見かけるからあの日だけシャッタが降りていたのね」
「行ってみましょう。道に迷っただけでしゅ」
「信じて」
「案内に関しては無理」
「実績を買うわ。道案内をお願い」
「場所を知らないので案内所で聞きましょう」
変な問答で時間が無駄になったので納月はミルクを一気飲みして立ち上がった。
アーケード中央の案内所でファミリーレストランの場所を聞いてそちらへ向かった。商店街全体で観ると北寄にある店は、学園と寮を結ぶ動線にあった。寮と学園に近いので、職場として野原花の目に留まった可能性も高い。通りに面したガラス張りのファミリーレストランを、柱の陰に隠れて観察する。自動扉の出入口もガラス張りで、固定された左右のガラス窓のうち左側のガラスに、煙草と煙の絵を斜線でぶった切ったステッカがある。
「って、禁煙みたいでしゅが」
「店員が吸っているのね。控え室や外なら従業員の野原花さんが被るわ」
「なるほど。飽くまで客と店内を想定したステッカなわけでしゅか」
固定された反対側のガラス窓、バイト募集の貼り紙に納月は目を向ける。
「〔時給600〜1000ラル〕。なんであんなに違いがあるんでしゅかね。軽く詐欺では」
「ホールか厨房かでも違うでしょうし、何より下流・中流・上流、無魔力・有魔力などの要素で差が生じるわ。わたしの場合は上流・有魔力で上限に近く、下流・無魔力の場合は──」
「下限、六〇〇ラルに近くなるわけでしゅね。詐欺とゆうより、ひどい差別……」
「差別と捉えるか、それとも生まれ持った能力の差と捉えるか。賃金設定はある程度雇用主の裁量だけれど、格差があることは間違いない」
「と、……メイドさんがいましゅね」
エプロンのフリルが、野原花の鞄からはみ出ていたものとよく似ている。ヘッドドレスはつけていないようだが。
「職場はここで間違いなさそうね」
「髪留めの類はつけてないようでしゅが、髪の乱れはなんだったんでしゅ」
「ウサ耳カチューシャよ。系列店で見たことがある。特別なメニュのときだけ装着して、摩訶不思議で妙ちきりんなダンスを披露するわ」
「それ、ほんとにここの系列店でしゅか」
実物を観ないことにはウサ耳カチューシャとダンス(?)に関してはなんともいえないが、
「いま着目すべきはホールスタッフの制服よ」
「ホールスタッフとメイドで意味や制服が違うんでしゅか」
「メイドはもっと丈の長いスカートを穿いている。それに笑顔を振り撒いたりしない。媚びているように観えて目障りと思う主もいるから黒子に徹して無表情でいるべきよ。加えて給仕が雑。あれではせっかくの料理が綺麗に観えない。新人か、マニュアルの読み込み不足ね」
上流でも上位の出身者らしく此方翼は本物の給仕係を知っているようだ。これほど駄目出ししている此方翼は希しいといえば希しい。
「……中に入りましゅか」
「野原花さんが働いているのは部活前の朝昼という話だったわ。今回は帰りましょう。エプロンの確認ができたから十分よ」
柱の陰からこっそり覗いている理由はそういうことか。それにしたって店から遠い柱を選べばいいものをなぜ最寄の柱を選んでしまった。通りからも店内からも丸見えで完全に不審者。
「スタッフに話を聞いたりしなくていいんでしゅか」
「野原花さんにそのことが伝わるとわたし達との関係が崩れる。それは望むところではない」
「(最悪明日にも関係崩壊しそうですけど、)解りました。では今日はこの辺りで──」
隠れるのをやめて帰途につこうとした納月は、音羅から聞いた話を思い出した。
「此方しゃん、お姉しゃまが前にいってたんでしゅが、中央アーケードの南へ向かう野原しゃんを見かけたと」
「いつのことかしら」
「日曜、二二日の夕方だったと思いましゅ」
「野原花さんは休日も働いているといっていたけれど、ファミレスとは違う場所のようね」
「そちらを観に行きましぇんか」
「同意する。行きましょう」
「ふぅ〜〜」
南だと言っているのになぜ北へ行こうとするのか。心做しか、方向音痴な此方翼をワタボウが慌てて追いかけているように観えてくる。毎度のことながら真逆へ行ってしまう此方翼の手を取って、納月は目的地へと向かった。
「ふぅふぅ」
ワタボウの安堵(?)の声を聞きつつ歩く。中央アーケードから南に伸びる路地はいくつもあるが、買物帰りに見たとの音羅の話から推測して、よく行くスーパ付近にある路地を確かめた。入れば、そこは路地裏と表せられる。明るい中央アーケードと違って薄暗く細い路地は女性が一人で通るには勇気が要りそうだ。当りをつけた路地は全てそんな様子。野原花がいかに一武芸者でも、好き好んで通ることはないだろう。
中央アーケードから遠目に路地を観察してゆくと、当りをつけた最後の路地を覗いて此方翼が脚を止めた。
「あそこ、何かあるわね」
「……少し明るいでしゅ」
それでも相当に暗いが。
「店でもあるのかしら。飲み屋とか」
「飲食店なら野原しゃんが職場に選んでいる可能性もありましゅね」
夕方に見かけたという音羅の証言から、夜のバイト先とも推測できる。
「あちらは観に行きましょう」
「いいんでしゅか」
「直接なら問題ない。野原花さんがいるなら話を聞きましょう」
「店に入った理由を訊かれたらどうしましゅ」
「道に迷って入り込んだことにすればいいわ。よくあることよ」
「ないでしゅよ」
「わたしだけで行ってみるわ」
「ちゃんと行けましゅか」
「見えているところなら大丈夫よ」
彼女のダブルピースは全く信頼できない。道に迷わないよう隣家の柵を越えて行こうとするときもあるのだ。が、見えているところへ直行するならさすがに無事に行けるか。心配しすぎた納月は、此方翼の言葉をここは信ずることにした。
此方翼が路地を入ってゆき、やや明るい路地の西側を確認する。何かのランプであったりする可能性も捨てきれなかったが、光源となっている何かを覗き込んで、それから光源のほうではなく、路地の奥、南へ歩を進めた。
……あ、あれ。もしかして、わたしのほうに帰ってこようとしてますかね。
此方よ、背中を向けてどこへ行く。ワタボウが納月のほうをちらちら振り向いているような気がしないでもない。顔がないのでどっちを向いているのか判然としないが。
納月は此方翼を慌てて追って、その際に光源となっている店の入口を確認、此方翼に追いついて改めて店の前に戻った。
「ふぅふぅ」
「〔ネットカフェ〕って、どんな店でしゅか」
ガラス張りの出入口はファミレスとほぼ同じ仕様だが屋内が暗い。光源はスタンド看板だ。
「携帯端末は知っている」
「はい」
「あれの箱型版があってね、それをパーソナルコンピュータ、略してPC、ダゼダダではパソコンともいうわ。そのPCを置いた個室がいつくもあって、そこでネット環境に接続していろいろな調べ物をしたりできる。荒っぽい言い方をすれば、ネットカフェとは現代版ライブラリね、来たことはないけど」
「来たことないのに断言はよくないかもでしゅ。まあ、内観はなんとなく想像できました」
未だ携帯端末の一つも持っていない納月なので扱い方はぴんと来ないがパソコンというもので調べ物ができるということは解った。
「現代版図書館といっても、カフェなんてついてるからには飲食店の一つなんでしゅよね」
「その要素もある。ほとんどは何か一つ注文して居座るんじゃないかしら。ネット環境に繫ぐ目的はさまざまあるけど、飲食が目当ならわざわざこんなところに足を運ばないもの」
普通なら明るくて安全そうな場所を選ぶ、と、いうこと。その意見に納月は同意だ。隠れ家的お店、と、いうほど出入口が凝ったふうでもないので、何か怪しい。
「ひとまず入ってみましょう」
「でしゅね」
いかがわしい店ならすぐ飛び出せばいい、と、勇気を出して踏み込む納月と、警戒もせずに歩いてゆく此方翼、その横をふわふわとついてゆくワタボウ。
空気が籠もった店内。空調が利いているようだが、独特のにおいがする。
「ふぅふぅぅっ」
ぽふぽふと綿毛を散らしてワタボウがいい香りを振り撒くが、店内のにおいは消しきれない。
「ふぅ〜……」
「PCから発せられる熱気のにおいと、煙草と、そう……何か別のにおいがいろいろ入り乱れている。これがネットカフェというものなのね」
「社会勉強になりましゅね」
香りを振り撒いて疲れた様子のワタボウを肩に載せて、納月は薄暗い店内を観察する。狭い通路が幾筋も通っている。邪魔に思える壁は、奥に個室があるから取り払えないのだろう。
「天井まで壁がありましゅね。防音設備ってことでしょうけど、これじゃ空調が利かないんじゃないでしゅかね」
納月の言葉を聞いていたかどうか、此方翼が天井をきょろきょろと見回している。
「どうかしましたか」
「変ね」
此方翼が疑問を持ったのは、「個室まで空調が利くように天井を空けておく必要がありそうなものよ」
「しょれ、わたしがいいました」
「なぜ密室にされているのか。それが問題」
空室になっている個室の中を覗いて此方翼がさらに言う。「通路側で火事なんかがあったとき、ドアを閉めていたら気づかないなんてこともあるんじゃないかしら。個室も通路もスプリンクラがないし、避難口誘導灯が見当たらない」
「いわれてみれば……」
学園の本館・別館の廊下、あらゆる店の通路には、避難口誘導灯の設置が義務づけられているはずで、喫茶店やファミレスにもあった。通路を歩き回ってみたものの、この店にそれらしい表示はなかった。
店の最奥で携帯端末を弄っていた店員と鉢合せして怪訝な顔をされたので、此方翼がレジでお金を払って個室に入り、数分やり過ごした。
個室はモニタとキーボードを置いた机と椅子が一つ、それからハンガの掛けられた固定パイプが壁に設けられている。此方翼が椅子に座って納月が立っていると空間が余るほど広いが、モニタ頼みの明るさでは気分が滅入りそうだ。扉を閉めると外からの音が全く入ってこない。それは気密性の高さも表しており、
「暑いでしゅね」
「思っていた以上に熱気が籠もるわね」
「ふぅふぅ〜」
納月と此方翼は制服の胸許をぱたぱたと扇いだ。ワタボウが旋回して風を送ってくれたが、室温が上がっているので効果が薄い。
「いっちゃなんでしゅけど陰気でしゅ。こんなところでする調べ物ってなんでしゅかね」
「店には個性が必要なこともあるわ。昨今の店は空調設備が利いているのが普通だけれど、機械的な風を嫌う客がいる」
「この店は、常温を売りにしている可能性があるってことでしゅね」
「路地裏に立地することからしても普通の店主が経営しているとは思えないわ」
一種隠れ家的お店ということか。それにしてはダークサイドっぽい個性だ、と、納月はツッコみたくなった。常温を売りにしているとも取れるが、空調設備をケチっているとも取れるだろう。
「陰気な店主と陰気な客が集まる店。納得できそうな推測でしゅが、ここに野原しゃんは来てたんでしゅかね」
「可能性が低くなった。野原花さんは態度は尖っているけれど比較的良識があるタイプよ。仕事であれ私用であれ、この店に通っているとは考えにくい」
「同意でしゅ。出ましゅか」
「そうね。ふむ……」
うなづいた此方翼が、キーボードに手を置き、モニタを見たまま素早く打ち始めた。
「何をしてるんでしゅか」
「一応、どんな客が来ているか、検索履歴を確認するのよ。これね、どれ、どれ」
カチッ。検索履歴の一つをクリックしてモニタに表示されたのは──。
「『なるほど』」
「ふぅふぅ」
二人は顔を見合わせ、モニタからワタボウに目を移した。
路地裏の立地や無駄に気密性の高い個室の理由が判明した、かも知れない。検索履歴は、アダルト動画サイトだったのである。
「この手のサイトにアクセスしているとドーパミンの分泌が促進されて暑さが気にならないのか、あるいは暑さが気分を盛り上げるのか。こうした行為に熱と汗は付き物だからヘッドホンも装着できないといったところかしら」
「わたしはもう出たいでしゅ」
「わたしもよ……」
あまり動じない此方翼が疲れた吐息。
間もなく納月達は店を出た。
日が暮れ始めたからか、個室が暑すぎたせいか、はたまた制服をびっしょりにした汗のお蔭か、暑いはずの屋外がやや涼しく感ぜられた。
「今日はここまでにしましょう。野原花さんはここに来ていない。職場探しはまた明日に」
「解りました。寮まで送りましゅよ」
「助かるわ」
なんでもないような顔をしているが、暑さにやられたか、此方翼が少し疲れているよう。ワタボウも萎れているようなので、納月は手でそっと包んで運んだ。
此方翼とワタボウを寮まで送ると、納月は帰途についた。
……野原さんはあの辺りで何をしてたんでしょう。
通りかかったついでに先程の路地を横目にした。野原花が目撃されたのは日曜日の夕方。職場へ向かう途中ということ以外にも、路地を通るだけなら理由はいくつもあるだろう。家に戻った納月は、音羅に野原花の様子を伝えて変化の要因を探ったが、野原花と会えていない音羅に心当りがあるはずもなかった。音羅が野原花を目撃した場所を正確に聞き、それがネットカフェのある路地であることは判明したが、納月と此方翼の推理は振出しも同然だ。
……野原さんの変化の手懸り、どこにあるんだか。
テーブル席でテレビを観ている怠惰な父を眺める。
……お父様は何か知ってるんでしょう。
根拠などないが、父が自分達に必要な情報を持っていることは常なのである。だから、根拠などなくてもそうだと思えた。
……でも、頼っちゃったらダメですよね。ね、お父様。
「無駄に話しかけてくんな、納月」
と、これだもの。納月は「ひっ」と、声を漏らしてしまった。思っていることだって聞かれてしまう。野原花の変化の理由や考えていることも、父ならきっと簡単に判る。まさしく禁じ手。頼ってはゆけない。
「教えてあげてください」
と、父の肩に載ったクムがもみあげを撫でて言った。「娘さんの頑張りを応援しましょう」
「頑張りねぇ。すぐに禁じ手に頼ろうなんて姿勢じゃまだまだなんやけど」
厳しいが、納月はその通りと思わないでもない。
「お父しゃまが動いたらなんでもかんでも簡単に解決できちゃうんでしょうねぇ」
と、皮肉は言っておく。「結師しゃんやクムしゃんのような可愛い子をこき使って、自分は家でグータラしてても解決できちゃうんでしょう、ええ、きっとしょうに違いないでしゅ」
「ほぉ、ゆうようになったね、納月」
「甘やかされっ放しじゃ逆につらいかと思いましゅから」
「オト様、ひどいいわれよっふぁぅ」
「クム、お喋りはストップよ」
父に大輪をなでなでされるとクムが萎れたように崩れ落ちた。その間に、
「一つヒントをやろう」
と、テレビを観たまま父が言うので、納月は驚きすぎて反応が遅れた。
「いいんでしゅか、もらって。お父しゃまが親切なんてなんか希しいでしゅ」
「成長のご褒美と思ったのに」
「えっ」
「要らんの」
「あ、いえっ、」
こんな形でのご褒美は思ってもみなかったが、「ほしいでしゅ」
「ネットカフェは間違ってないぞ」
「っ、(此方さんの推測が外れていた、と。少し考えにくいですが、)本当でしゅか」
「野原花とやらは間違いなく、納月達が入ったネットカフェに入っとる。ご褒美は以上」
父の情報を疑うわけではないが、此方翼は可能性がないといった。裏取りが必要だ。
「お姉しゃまは野原しゃんを追わなかったんでしゅよね。お父しゃまはお姉しゃまと一緒に帰途についたとも。無魔力の野原しゃんの移動先は目視でないと──」
父がクムの花を撫でる、撫でる。
「ふやぁぁ、納月様ぁ、それ以上はわたしの身が持ちまひぇんのれ控えてくらひぁい!」
「えぇっ」
クムが身悶えして父の肩にしがみついているので、納月は質問を控えたほうがいい、のか。
父がクムから指を外さず、
「ヒントもご褒美も催促するもんじゃないやろ。あとは自分の足と頭で考えぇよ」
「むぅ……」
「ぷくっと膨れて可愛いねぇ、風船葛みたい」
「もう……」
観てもいないのに表情を判っている。そんな父の言葉だから納月は信ずる。「解りました。自分で考えてみましゅよ、だからクムしゃんを苛めないでくだしゃい」
「ん、りょ〜かい」
「ふぇぁ、納月様ぁ、ありがとうございますぅ」
「無事で何よりでしゅ。解放されて残念しょうでしゅけど──」
「ひぇ、そそそんなことは。さ、さらばです、とぉっ!」
無駄に恰好いいジャンプで花弁を散してクムが消えた。
……さて、有言実行じゃないと、お父様と大差ないですね。
もとから父に頼りきるつもりはなかったのだ。ヒントなど有難迷惑と言ってやるくらいでなくてどうする。父に認めてもらうにも、野原花の変化に迫るにも、努力が足りないことに自覚がある。自分でやれることが、まだある。そんな中でヒントをもらったのだから、改めて足で稼がねば。
「お風呂入ってきましゅっ」
「いってらっしゃ〜い」
だらしなく振られた手に、納月は苦笑するしかなかった。
……──羨ましいですね、まったく。
──九章 終──




