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あの方のお手紙は、全部わたしが書いていました

作者: 柚木さと
掲載日:2026/07/24

八年ぶん、夫の手紙を代わりに書いていた妻の話です。

一話で終わります。ざまぁは遠くで起きます。


 離縁状を渡されたのは、朝食の席だった。


 夫は羊皮紙を一枚、卵の皿の横に滑らせた。指先で、こちらへ押しやるようにして。


「読め」


 わたしは匙を置いて、それを取った。


 文面は短い。婚姻の解消。持参財の返還。教会の婚姻簿からの名の抹消。定型どおりで、余計なことは何も書かれていない。


 ただ、三箇所、間違っている。


「あの、旦那さま」


「なんだ」


「『解消』の字が、貝偏になっております。それから婚姻簿は『抹消』ではなく『除籍』と書きませんと、教会が受け取りません。あと、ここ。日付が来月になっています」


 わたしは羊皮紙を裏返して、光にかざした。透かしの位置も左右が逆だ。書記官の手癖ではない。この家の誰かが、見よう見まねで書いたのだろう。


「――お前は」


「はい」


「今、何をしている」


 わたしは羊皮紙を卓に戻した。


「間違いを申し上げました。このままでは教会で突き返されて、旦那さまがもう一度お書きになることになりますので」


 夫は、しばらく黙っていた。


 それから、笑った。感じのいい笑い方ではなかった。


「そういうところだ、エルナ」


 そういうところだ、と、この八年で何度言われたか分からない。


「お前の字は男のようだと、皆が言う。書いたものに、情がない。役所の写しのようだと」


「はい」


「ロゼリアは詩を書く。あれの手紙は、読むと胸が温かくなる」


「よろしゅうございました」


「よろしゅうございました、ではない」


 夫は立ち上がった。椅子が床を擦る音が、朝の食堂に大きく響いた。


「今日中に出ろ」


 わたしは頭を下げた。それから、卓の上の離縁状をもう一度取り上げて、袖から矢立を抜き、貝偏の字に細く線を引いた。横に正しい字を書き、日付を直し、余白に「教会提出の際は除籍と記すこと」と添えた。


「お直ししておきました。これでしたら、そのまま通ります」


 夫は何か言いかけて、やめた。


 わたしは食堂を出た。卵には手をつけていなかったが、もう冷めていたので、惜しくはなかった。


    ◇


 持って出たものは三つ。


 嫁入りのときの櫃がひとつ。母の形見の指輪。それから、筆。


 筆は八年使ったものだ。穂先が減って、もう新しいのに替えるつもりでいたけれど、結局これを持った。手に馴染んだ道具は、代わりがきかない。


 書斎の棚には、写しの束が二百冊ほど並んでいる。


 この家が八年のあいだに出した書簡の、全部の控えだ。誰に、いつ、何を書いたか。相手が何と返してきたか。次に書くときは、どの話題から入るべきか。


 ケルバッハ商会の老主人は、末娘の縁組を気にしている。北のモーリッツ伯は前置きを嫌う。南の司教は聖句の引用を喜ぶが、一語違えると三月は機嫌が直らない。


 全部、そこに書いてある。


 わたしは棚の前に立って、少し考えた。


 持って出れば、この家は困るだろう。


 置いていけば、誰かが読むかもしれない。


 ――読めれば。


 わたしは棚に手を触れて、そのままにした。指の跡が埃に残った。それだけ拭いて、書斎を出た。


 玄関で、家令のハンスが待っていた。この家で一番長く勤めている老人だ。


「奥さま」


「もう奥さまではありませんよ、ハンス」


 老人は何か言おうとして、口を開けたまま、閉じた。それから、深く腰を折った。


「……お手紙の件は、どういたしましょう」


「旦那さまがお書きになります」


「旦那さまは」


 ハンスは、そこで言葉を切った。


 言わなくても分かる。この八年、この家の当主が自分で書いた手紙は一通もない。


「お書きになりますよ」わたしは言った。「書けば、お書きになれます」


 嘘ではなかった。書けば書ける。ただ、書いたものが通じるかどうかは、また別の話だ。


    ◇


 王都の西、河沿いの通りに、代書屋が三軒並んでいる。


 字の書けない者のために、願書や証文や恋文を代わりに書く商売だ。一番端の店の軒先を、日に銅貨五枚で借りた。卓と、椅子と、庇。それだけ。


 実家は十年前に潰れているので、帰る場所はここしかなかった。


 初日は誰も来なかった。二日目に、荷馬車引きが来て、故郷の母親宛の手紙を頼んだ。銅貨三枚。三日目は、四人来た。


 わたしの書く字は男のようだと、この八年ずっと言われてきた。


 河沿いでは、それは褒め言葉だった。役所に出す書付は、男のような字のほうが通りがいい。


 半月で、隣の店より客が付いた。


    ◇


 ヴァイデン家の話が耳に入るようになったのは、一月ほど経ってからだ。


 代書屋には人が来る。人が来ると、話が来る。


 最初は、北のモーリッツ伯との盟約が流れたという話だった。


 更新の書簡が届いたが、前置きが長すぎて、伯が三行で読むのをやめたのだという。用件は四枚目に書いてあった。


 次は、南の司教から抗議が来たという話。聖句の引用が一語違っていた。「灯」を「炎」と書いた。意味は近いが、あの司教にとっては近くない。


 それから、ケルバッハ商会との取引が止まったという話。


 わたしはそれを、粉屋の女房から聞いた。彼女は亭主宛の証文をわたしに書かせながら、市場で聞いた噂として話した。侯爵さまのお手紙が、このごろ、ずいぶんと素っ気ないのだと。


「前は、ようございましたよ。ケルバッハの旦那が、うちの娘のことまで気にかけてくださるってねえ、いつだったか、酒場で見せびらかしてましたもの。手紙を」


 わたしは筆を止めなかった。


「そうですか」


「それが、このごろのは、商いの話しか書いてないんですって。急に他人行儀になったって、あの旦那、しょげちゃって」


 証文を書き終えて、砂をかけて、乾かした。


「……銅貨三枚です」


 女房は銭を置いて帰った。


 わたしは卓の上を片付けて、次の客を待った。


 三年前のあの手紙に、末娘の縁組を入れたのは二行目だ。一行目は天候の挨拶で、三行目から商いの話に入った。順番は覚えている。順番だけは、どうしても忘れられない。


    ◇


 二月目の終わりに、老人がひとり、河沿いに立った。


 仕立てのいい外套を着ていて、この通りには不似合いだった。三軒の代書屋を順に覗いて、わたしの前で止まった。


「あんたか」


「なんでございましょう」


「字を、見せてもらえるか」


 わたしは書きかけの証文を裏返して見せた。


 老人はそれを、ずいぶん長く見ていた。それから、外套の内から一通の書簡を出して、卓に置いた。


 わたしが書いたものだった。三年前の秋。ケルバッハ商会宛。末娘の縁組が調ったことへの祝いを、二行目に入れてある。


「これを書いたのは、あんただな」


「……なぜ、そうお思いになりますか」


「わしは商人だ。四十年、人の手跡を見てきた」老人は書簡を指でなぞった。「はねが同じだ。それに、こっちの証文の『候』の書き癖」


 わたしは黙っていた。


 老人――ケルバッハ商会の主人、ギュンターは、書簡をたたんで懐に戻した。


「侯爵は、なぜあんたを手放した」


「わたくしの字には、情がないそうです」


 ギュンターは、鼻から息を出した。笑ったのだと、少し遅れて分かった。


「情のない字が、なんでうちの娘の縁組を覚えている」


「控えを取っておりましたので」


「控えを取る。三年前の他家の娘の縁組を。それを、情がないと言うのか」


 河から風が来て、卓の紙を煽った。わたしは手のひらでそれを押さえた。


「……あの方のお手紙は」


 言ってしまってから、言うつもりがなかったことに気づいた。けれど、途中でやめるのは、書きかけの手紙を出すのと同じで、みっともない。


「あの方のお手紙は、全部わたしが書いていました。八年、一通残らず」


 ギュンターは、うなずいた。驚いた顔ではなかった。確かめに来ただけの顔だった。


「うちの専属になれ。年に金貨四十枚出す」


 わたしは、その額を頭の中で数え直した。侯爵夫人だったころ、わたしが年に自由にできた銭は、その半分だった。


「軒先の店賃が、日に銅貨五枚かかっております」


「払ってやる」


「では、お受けいたします」


    ◇


 ヴァイデン侯爵から手紙が届いたのは、それから半月後だった。


 封蝋は見慣れたものだった。宛名は、河沿いの代書屋。差出はヴァイデン侯爵レオンハルト。


 わたしは封を切る前に、宛名の字を見た。


 ロゼリアの字ではなかった。書記官の字でもない。


 あの人の字だった。


 わたしは、それを知っている。婚礼の日、婚姻簿に署名したときに一度だけ見た。あれから八年、一度も見ていない。


 封を切った。


 中身のことは、書かないでおく。ただ、用件がどこに書いてあるのか、三度読み直しても分からなかった、とだけ記しておく。


 わたしは返事を書かなかった。


 書くとすれば、こう書いたと思う。旦那さま、書けば、お書きになれます、と。けれど、それはもう、わたしの仕事ではない。


 手紙は畳んで、櫃の底に入れた。控えは取らなかった。八年で初めてのことだった。


    ◇


 その日の夕方、ギュンターの使いが、新しい仕事を持ってきた。


 わたしは覚書を開いて、依頼主の名を読んだ。


 北のモーリッツ伯。


 用件は、ヴァイデン侯爵家宛の書簡の代書。


 わたしは筆を取った。それから、少し考えて、置いた。


「……どちらから、お受けした話です」


「伯爵さまのほうからで。ヴァイデン家に何度書いても話が噛み合わんので、王都でいちばん通じる字を書く者に頼みたいと」


 河の上を、鳥が二羽、下流へ抜けていった。


 わたしは筆を取り直した。前置きは要らない。あの伯は、用件から入るのが好きだから。


お読みいただきありがとうございました。

エルナが持って出たのは、筆一本だけです。控えの二百冊は、置いてきました。読めれば、の話ですが。


この「柚木さと」名義では、家を出ていった妻たちの話を書いています。どれも一話で終わります。


・馬に信じられていた妻の話 『あの子たち、わたし以外は乗せません』

 https://ncode.syosetu.com/n0391mn/

・鍵を全部覚えていた妻の話 『鍵の在処は、離縁状と一緒に置いてまいりました』

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・畑の種を選っていた姉の話 『妹に譲りましたので、畑もお持ちください』

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・冬の備えを数えていた妻の話 『今年の冬支度は、なさっていないのですか』

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