あの方のお手紙は、全部わたしが書いていました
八年ぶん、夫の手紙を代わりに書いていた妻の話です。
一話で終わります。ざまぁは遠くで起きます。
離縁状を渡されたのは、朝食の席だった。
夫は羊皮紙を一枚、卵の皿の横に滑らせた。指先で、こちらへ押しやるようにして。
「読め」
わたしは匙を置いて、それを取った。
文面は短い。婚姻の解消。持参財の返還。教会の婚姻簿からの名の抹消。定型どおりで、余計なことは何も書かれていない。
ただ、三箇所、間違っている。
「あの、旦那さま」
「なんだ」
「『解消』の字が、貝偏になっております。それから婚姻簿は『抹消』ではなく『除籍』と書きませんと、教会が受け取りません。あと、ここ。日付が来月になっています」
わたしは羊皮紙を裏返して、光にかざした。透かしの位置も左右が逆だ。書記官の手癖ではない。この家の誰かが、見よう見まねで書いたのだろう。
「――お前は」
「はい」
「今、何をしている」
わたしは羊皮紙を卓に戻した。
「間違いを申し上げました。このままでは教会で突き返されて、旦那さまがもう一度お書きになることになりますので」
夫は、しばらく黙っていた。
それから、笑った。感じのいい笑い方ではなかった。
「そういうところだ、エルナ」
そういうところだ、と、この八年で何度言われたか分からない。
「お前の字は男のようだと、皆が言う。書いたものに、情がない。役所の写しのようだと」
「はい」
「ロゼリアは詩を書く。あれの手紙は、読むと胸が温かくなる」
「よろしゅうございました」
「よろしゅうございました、ではない」
夫は立ち上がった。椅子が床を擦る音が、朝の食堂に大きく響いた。
「今日中に出ろ」
わたしは頭を下げた。それから、卓の上の離縁状をもう一度取り上げて、袖から矢立を抜き、貝偏の字に細く線を引いた。横に正しい字を書き、日付を直し、余白に「教会提出の際は除籍と記すこと」と添えた。
「お直ししておきました。これでしたら、そのまま通ります」
夫は何か言いかけて、やめた。
わたしは食堂を出た。卵には手をつけていなかったが、もう冷めていたので、惜しくはなかった。
◇
持って出たものは三つ。
嫁入りのときの櫃がひとつ。母の形見の指輪。それから、筆。
筆は八年使ったものだ。穂先が減って、もう新しいのに替えるつもりでいたけれど、結局これを持った。手に馴染んだ道具は、代わりがきかない。
書斎の棚には、写しの束が二百冊ほど並んでいる。
この家が八年のあいだに出した書簡の、全部の控えだ。誰に、いつ、何を書いたか。相手が何と返してきたか。次に書くときは、どの話題から入るべきか。
ケルバッハ商会の老主人は、末娘の縁組を気にしている。北のモーリッツ伯は前置きを嫌う。南の司教は聖句の引用を喜ぶが、一語違えると三月は機嫌が直らない。
全部、そこに書いてある。
わたしは棚の前に立って、少し考えた。
持って出れば、この家は困るだろう。
置いていけば、誰かが読むかもしれない。
――読めれば。
わたしは棚に手を触れて、そのままにした。指の跡が埃に残った。それだけ拭いて、書斎を出た。
玄関で、家令のハンスが待っていた。この家で一番長く勤めている老人だ。
「奥さま」
「もう奥さまではありませんよ、ハンス」
老人は何か言おうとして、口を開けたまま、閉じた。それから、深く腰を折った。
「……お手紙の件は、どういたしましょう」
「旦那さまがお書きになります」
「旦那さまは」
ハンスは、そこで言葉を切った。
言わなくても分かる。この八年、この家の当主が自分で書いた手紙は一通もない。
「お書きになりますよ」わたしは言った。「書けば、お書きになれます」
嘘ではなかった。書けば書ける。ただ、書いたものが通じるかどうかは、また別の話だ。
◇
王都の西、河沿いの通りに、代書屋が三軒並んでいる。
字の書けない者のために、願書や証文や恋文を代わりに書く商売だ。一番端の店の軒先を、日に銅貨五枚で借りた。卓と、椅子と、庇。それだけ。
実家は十年前に潰れているので、帰る場所はここしかなかった。
初日は誰も来なかった。二日目に、荷馬車引きが来て、故郷の母親宛の手紙を頼んだ。銅貨三枚。三日目は、四人来た。
わたしの書く字は男のようだと、この八年ずっと言われてきた。
河沿いでは、それは褒め言葉だった。役所に出す書付は、男のような字のほうが通りがいい。
半月で、隣の店より客が付いた。
◇
ヴァイデン家の話が耳に入るようになったのは、一月ほど経ってからだ。
代書屋には人が来る。人が来ると、話が来る。
最初は、北のモーリッツ伯との盟約が流れたという話だった。
更新の書簡が届いたが、前置きが長すぎて、伯が三行で読むのをやめたのだという。用件は四枚目に書いてあった。
次は、南の司教から抗議が来たという話。聖句の引用が一語違っていた。「灯」を「炎」と書いた。意味は近いが、あの司教にとっては近くない。
それから、ケルバッハ商会との取引が止まったという話。
わたしはそれを、粉屋の女房から聞いた。彼女は亭主宛の証文をわたしに書かせながら、市場で聞いた噂として話した。侯爵さまのお手紙が、このごろ、ずいぶんと素っ気ないのだと。
「前は、ようございましたよ。ケルバッハの旦那が、うちの娘のことまで気にかけてくださるってねえ、いつだったか、酒場で見せびらかしてましたもの。手紙を」
わたしは筆を止めなかった。
「そうですか」
「それが、このごろのは、商いの話しか書いてないんですって。急に他人行儀になったって、あの旦那、しょげちゃって」
証文を書き終えて、砂をかけて、乾かした。
「……銅貨三枚です」
女房は銭を置いて帰った。
わたしは卓の上を片付けて、次の客を待った。
三年前のあの手紙に、末娘の縁組を入れたのは二行目だ。一行目は天候の挨拶で、三行目から商いの話に入った。順番は覚えている。順番だけは、どうしても忘れられない。
◇
二月目の終わりに、老人がひとり、河沿いに立った。
仕立てのいい外套を着ていて、この通りには不似合いだった。三軒の代書屋を順に覗いて、わたしの前で止まった。
「あんたか」
「なんでございましょう」
「字を、見せてもらえるか」
わたしは書きかけの証文を裏返して見せた。
老人はそれを、ずいぶん長く見ていた。それから、外套の内から一通の書簡を出して、卓に置いた。
わたしが書いたものだった。三年前の秋。ケルバッハ商会宛。末娘の縁組が調ったことへの祝いを、二行目に入れてある。
「これを書いたのは、あんただな」
「……なぜ、そうお思いになりますか」
「わしは商人だ。四十年、人の手跡を見てきた」老人は書簡を指でなぞった。「はねが同じだ。それに、こっちの証文の『候』の書き癖」
わたしは黙っていた。
老人――ケルバッハ商会の主人、ギュンターは、書簡をたたんで懐に戻した。
「侯爵は、なぜあんたを手放した」
「わたくしの字には、情がないそうです」
ギュンターは、鼻から息を出した。笑ったのだと、少し遅れて分かった。
「情のない字が、なんでうちの娘の縁組を覚えている」
「控えを取っておりましたので」
「控えを取る。三年前の他家の娘の縁組を。それを、情がないと言うのか」
河から風が来て、卓の紙を煽った。わたしは手のひらでそれを押さえた。
「……あの方のお手紙は」
言ってしまってから、言うつもりがなかったことに気づいた。けれど、途中でやめるのは、書きかけの手紙を出すのと同じで、みっともない。
「あの方のお手紙は、全部わたしが書いていました。八年、一通残らず」
ギュンターは、うなずいた。驚いた顔ではなかった。確かめに来ただけの顔だった。
「うちの専属になれ。年に金貨四十枚出す」
わたしは、その額を頭の中で数え直した。侯爵夫人だったころ、わたしが年に自由にできた銭は、その半分だった。
「軒先の店賃が、日に銅貨五枚かかっております」
「払ってやる」
「では、お受けいたします」
◇
ヴァイデン侯爵から手紙が届いたのは、それから半月後だった。
封蝋は見慣れたものだった。宛名は、河沿いの代書屋。差出はヴァイデン侯爵レオンハルト。
わたしは封を切る前に、宛名の字を見た。
ロゼリアの字ではなかった。書記官の字でもない。
あの人の字だった。
わたしは、それを知っている。婚礼の日、婚姻簿に署名したときに一度だけ見た。あれから八年、一度も見ていない。
封を切った。
中身のことは、書かないでおく。ただ、用件がどこに書いてあるのか、三度読み直しても分からなかった、とだけ記しておく。
わたしは返事を書かなかった。
書くとすれば、こう書いたと思う。旦那さま、書けば、お書きになれます、と。けれど、それはもう、わたしの仕事ではない。
手紙は畳んで、櫃の底に入れた。控えは取らなかった。八年で初めてのことだった。
◇
その日の夕方、ギュンターの使いが、新しい仕事を持ってきた。
わたしは覚書を開いて、依頼主の名を読んだ。
北のモーリッツ伯。
用件は、ヴァイデン侯爵家宛の書簡の代書。
わたしは筆を取った。それから、少し考えて、置いた。
「……どちらから、お受けした話です」
「伯爵さまのほうからで。ヴァイデン家に何度書いても話が噛み合わんので、王都でいちばん通じる字を書く者に頼みたいと」
河の上を、鳥が二羽、下流へ抜けていった。
わたしは筆を取り直した。前置きは要らない。あの伯は、用件から入るのが好きだから。
お読みいただきありがとうございました。
エルナが持って出たのは、筆一本だけです。控えの二百冊は、置いてきました。読めれば、の話ですが。
この「柚木さと」名義では、家を出ていった妻たちの話を書いています。どれも一話で終わります。
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