姉 伏見ゆめのこと その2
葬式が行われたのは金曜日の午前十時からだった。なんでも二十四時間以上経たないと火葬はできないらしい。けれども普通は三日四日経ってから葬式は行われるはずだ。しかし普通な死因ではない七色さんの遺体の損傷や七色さんのご両親の希望もあって早くやったそうだ。
しかも密葬。少人数の親戚やぼくたち友人、そして担任の先生だけで式は執り行われた。全部で五十人ぐらいの参加らしい。まあそうしないとマスコミやら知りたがりのクズどもやらたくさん来るからな。
骨壷に納められた骨は七色さんの自宅に持っていかれた。納骨までずっと置いておくのだとモモに教わった。後で拝みに行かなければならない。
葬式が終わって、出席していた黒川先生に「お前たちはしばらく学校に来なくていい」と言われた。
「親友が死んでショックだろう。それにマスコミにあれこれ聞かれるのも辛いしな。ゆっくり一週間ぐらい休んでいろ」
いつもボサボサな頭を綺麗にセットして、まるで別人のようだった。言ってる内容も真面目で普段の黒川先生とは思えなかった。
「森下は運が悪かったけど、お前たちのような親友が居ることは幸運だと思うぜ」
黒川先生は最後に力なく笑って言った。
黒川先生に言われたとおり、ぼくとモモはおとなしく自宅で待機することになった。モモはぼくと離れたがらなかったけど、そこはゆめ姉の誠実な説得でなんとか帰らせた。
そして、現在はゆめ姉と二人きりでリビングにいる。
時刻は午後七時。
そろそろ夕食の時間だけれど、食欲というものは湧かなかった。考えてみると朝も昼もろくに食べていない。それなのに、ぼくは空腹を感じなかった。それに一睡もしてないのに全然眠くならない。
これも『シック』のせいだろうか。
ぼくには分からない。親友が死んでるのだ。身体と精神に異常があっても不思議じゃあない。
「こころちゃん、お腹空いてないかしら」
沈黙を破ってゆめ姉は口を開いた。
「いや、空いてない。食欲がないんだ」
「無理にでも食べたほうがいいわ。残ってるカレー食べる? それとも何か別のものでも作りましょうか」
「……ごめん、何も食べたくないんだ」
「……そう」
そしてまた沈黙が生まれた。居心地の悪い空気が流れる。
「ななみちゃん、どうして殺されたか知ってるかしら」
どうしてそんなことを訊くのだろう。
今話したくないのに、なんで?
「あけみさんから聞いたの。夜中に一人で出かけたらしいわ。なんでも消しゴムを買いに近くのコンビニに行ったのよ。その途中で、通り魔に殺されたのよ」
「えっ? ……そ、そんなことで……?」
ぼくはなんで夜中に七色さんが出歩いたのか疑問に思っていたが、そんなあっけない理由で殺されたなんて――
「そんなバカな話、ないよ! だって、七色さん悪くないじゃないか!」
「何が悪いとしたら、運が悪かったのよ。それに危機管理ができてなかったのも原因があるわ。気の毒だけど」
「き、気の毒って――」
あまりの言い草に言葉を失う。絶句したぼくに構わず、ゆめ姉は話を続ける。
「消しゴムぐらい、あなたたちから貸してもらえば良かったのにね。本当に残念だわ。せっかく仲良くなれたのに」
「…………」
「私は、ななみちゃんのこと好きだったわ。殺されちゃうなんて思いもよらなかった。本当に許せないわね、通り魔――」
「……なんで、他人事みたいに、言うのさ」
もう我慢の限界だった。淡々と語るゆめ姉のことが許せなかった。七色さんの死を無機質な情報として処理されていくのがたまらなく嫌だった。
それでもぼくは怒りを抑えていた。自分に冷静さを強いていた。ゆめ姉に怒鳴ろうだなんていつものぼくからしてみれば考えられないことだから。
「他人事? それは違うわ。私だって悲しんでるわ。あんなに優しい子、めったに居ないわ。いや、居なかったと言った方が正確かしら」
「……やめてよ」
「礼儀正しかったし、目上を敬っていたし、なにより友達想いだったわ。こころちゃんが怪我したときも毎日見舞いに来てくれたし、本当に良い子だったわ――」
「過去形で語らないでよ!」
ぼくは――
我を失って怒鳴り散らした。
「七色さんのことを知ったように語るなよ!ゆめ姉に何が分かるんだ! ぼくたちの関係をそんな取ってつけた言葉で語るな! こんなはずじゃあなかったんだよ! こんなのおかしいんだよ! こんなはずじゃなかったんだ、ぼくだって意味不明だよ! なんで七色さんが殺されたんだよ! わからないよ、でもこうなんだからしょうがないんだよ! ぼくの人生は不幸だらけなんだから! 脚のことだってそうさ、でもなんとかなりそうだったんだ、それでいいじゃないか! 今の現実が幸せで何が悪いんだよ!」
ぼくは勢いよく立ち上がりテーブルを叩きながら喚きだす。
ああ、駄目だ。
怒りがぼくを支配する。
ぼくは何を怒っているんだ?
ゆめ姉の物言いに怒っているのか?
それとも――
「ぼくたちは幸せだった! 平穏で平和でいつもいつまでも続けばいいって思ってたんだよ! 普通に生活できて、普通に高校に通って、たまに遊んで、楽しくやって、そういう普通で当たり前でありきたりな人生を望んでたんだ! それだけで良かったんだ! 特に何もいらない、望まないんだ! なのに、なんで壊されちゃったんだよ! ぼくが何か悪いことしたのか! ふざけるなよ!」
これは――八つ当たりだ。
ゆめ姉に対する怒りじゃなくて。
理不尽で不条理なことに対する怒りだ。
はっきり言ってしまえば通り魔に対する怒りと憤りだ。
怒るべきはゆめ姉ではないのに、頭では分かっているのに、止まらない。
ゆめ姉を――攻撃してしまう。
「ゆめ姉、教えてよ! ぼくたちの何が悪かったんだ!? ぼくたちの何がいけなかったんだ!? 人様に顔向けできないような、お天道様に恥じるような、そんな非道なことはしてないでしょ! 教えてくれよ! さっき言った運が悪かっただけなのか! 危機管理ができてなかったからか! そんな伏線のないことで人が死ぬなんておかしいだろ! なあ、ゆめ姉教えてよ! いつもみたいに、ぼくを――」
最後まで言うことができなかった。
ゆめ姉がぼくを平手で殴ったからだ。
かなり思いっきり殴られたせいでよろけて倒れてしまう。こんなに強く殴られたのは初めてだった。
しりもちをついたぼくを見下ろすように、ゆめ姉は見ていた。
「なに、すんだ――」
文句を言おうとして、これも最後まで言えなかった。
ゆめ姉が、泣いてたからだ。
滂沱のごとくあふれる涙を止めようともぬぐおうともせず、ただ泣いていた。
「ゆめ姉……」
「……怒ることはできるのね」
ゆめ姉は、しゃがみこんで目線を合わし、そして泣きながら微笑んだ。
「さくらちゃんに思い出を忘れないことがななみちゃんの供養になるって言ってたわね」
「そ、それが、どうしたんだよ――」
「もう一つ大切なことがあるわ。死を悼むこと、つまり悲しむことよ」
「それと、今、何が関係あるのさ!」
「だって、こころちゃん、泣いてないじゃない」
「…………っ!」
その言葉に――ぼくは衝撃を受ける。
ぼくは確かに泣いていない。親友が死んだというのに一滴も涙を流していないのだ。
何故だろう――
「それはね――こころちゃんの感情が死んでいるからよ。ななみちゃんと一緒じゃないけど、心が死んでしまっているのよ」
ゆめ姉ははっきりとした口調で断言した。
心が死んでいる? どういうことだ?
「ななみちゃんの棺を開けようとしたのも、ななみちゃんが死んだことを実感するためじゃない。自分の心を取り戻すために、開けようとしたのよ。でも――」
ゆめ姉は真剣な顔をする。それは凛々しく毅然とした表情だった。
「それはパンドラの箱のように、希望があるわけじゃない。むしろ、絶望しかないのよ。こころちゃん、あなたはななみちゃんが死んだことを本気で悲しんでいないわ」
「そ、そんなこと、ないよ! ぼくは七色さんが死んで――」
「こころちゃんは親友が死んでも、なんとも思ってないわけじゃない。ただ感情が死滅しているのよ。それはいけないことだわ」
ぼくは冷たい人間なんだろうか。ゆめ姉の言うとおりなのか。
ぼくは自分が把握できない。
ぼくは自分が理解できない。
ぼくは自分が判然としない。
「こうも言い換えることができるわ。こころちゃんはななみちゃんが生きていても死んでいても同じなのよ。生死がまったくの同一なのよ。コインの裏表のように、ぴったりと背中合わせなのよ。だから今でも親友であることに変わりがない。そんな感覚だから、さくらちゃんにああ言うことが言えるのよ」
ぼくは――違うと否定できなかった。むしろ図星を突かれた気がした。
そうなのだ。ぼくは取り乱しはしたものの本気で七色さんの死を悲しんでいなかった。
憤りはしたが――悲しんではいなかった。
「喜怒哀楽の哀だけが欠落してるのよ。脚を怪我したときも、こころちゃん悲しんでなかった。泣いたときも脚が歩けるまで治ったとき、つまり嬉しくて泣いたのよ。それ以前も思い当たるフシがあったけど、今ようやく分かったわ。こころちゃんの感情は全てじゃないけど、悲しみだけが死んでいる。いいえ、元々そんなものなかったのかも」
ゆめ姉はさらに涙を流す。
ぼくは否定できなかった。
人が死ぬこと。自分が傷つくこと。
それらを悲しめないぼくは――
ぼくは一体なんなんだろう。
『シック』やら『キャリア』やらそんなのは後付けでしかない。
ぼくは生来――壊れていたのだ。
いや、欠けていたというのが正しい。
道徳を失っていて、倫理を欠けていた。
つまり――心が化け物なのだ。
「こころちゃんの感情は豊かだと思っていたけど、それは悲しみという感情がないことの裏返しだったのね」
ゆめ姉の指摘にぼくは――
「ぼくは――どうすればいいの?」
助けを求めるように、救いを欲すように、ゆめ姉に縋るように言う。
だけど――
「ごめんなさい、わからないわ」
首を横に振る。それはまるで拒否されたようで、悲しくなる。しかし、この悲しみさえ常人のものではないのだろう。便宜上、悲しいと言っているけど、これはただの孤独感なのだと思う。
実姉からの拒絶。
厳しく辛いことを言われたのに、どこか納得してしまう自分がいる。
「そうか……ぼくはおかしいんだね」
どこか諦めた風に、ぼくは告白する。
「ぼくは悲しみを理解できないのかもしれない。七色さんが死んだというのに、ぼくは泣くことができない。でもね、ゆめ姉。ぼくは七色さんのことが本当に好きだった」
胸が張り裂けそうになったのは真実だ。遺体を見ていないけど、もし見てしまったら気が狂いそうになるのは必然だった。
この気持ちは嘘ではない。嘘なはずがないんだ。
「その気持ちは本当だと思うわ。悲しみ以外の感情はあるはずよ。私は大学でそのような症例を聞いたことがあるわ。アレキシサイミア、日本語で失感情症というのよ。もしかしたらその症状かもしれない」
ゆめ姉は文学部のはずなのに、なぜ医学用語を知っているのか、疑問に思ったけど、それに構わずぼくは答える。
「ぼくがそんな病気――病気って言っていいのか分からないけど、それにどんな希望を持てればいいの? 後からの理由付けに、どれほどの価値があるっていうんだい? それがぼくをどう救ってくれるの?」
「…………」
沈黙がなによりの返答だった。ゆめ姉が困らせるつもりはないけど、悩ませるつもりもないけど、ぼくは機械的に言葉を紡ぐ。
「病院に行けば確実に治るの? カウンセリングを受ければ緩和されるの? もし治ったとしてもそれは作り出された感情に他ならないんじゃないの? そんな感情は――本物なの?」
答えは決まっている。そんなものは偽物なのだ。
偽物の感情。
そんな感情で七色さんの死を悲しむなんてそれこそ死者の冒涜でしかない。
「ぼくが異常だって、よく分かったよ。理解した。悲しいって感情がないってこと、今まで気づかなかった。死にたくなるくらい気持ちが落ち込んだ。でも――」
沈んだ気持ちを無理矢理押し出してぼくは言葉を重ねる。
「でも、七色さんの死を悼むことができると思うんだ」
「こころちゃん……?」
「ぼくは悲しむことができないけど、それ以外はしてやる。七色さんの思い出を喜び、七色さんの死を怒ることができる。悲しむこと以外を、たくさんしてやる」
ぼくはこのとき、ある決意をした。
「ゆめ姉、ぼくは必ず、七色さんのやりたかったことをして、やれなかったこともしてやる。これからの人生、楽しく愉快に過ごしてやる。それがぼくの追悼だ。どうだろう、ゆめ姉」
ぼくは最愛の姉に同意を求めた。ゆめ姉は驚いたように眼を見開いていた。
「こころちゃんがそう思うなら、それでいいわ」
ようやくそう答えて――ゆめ姉は安堵した風にため息をついた。ゆめ姉もこういうこと言うのも嫌なんだと今更ながら気づいた。
それからぼくたちはそのままの姿勢で七色さんの思い出を語り合った。七色さんの文学評論やらゆめ姉に対する接し方やらファッションやら。そこから少し外れてモモや大学のことも話した。
笑ったり、懐かしんだりして。
それでやっと七色さんの死を悼んだ気になれた。
なんだか心の重荷が下ろせたようで、救われた気がした。
しばらくして。
ぼくはリビングの時計を見た。現在午後八時半。
「ゆめ姉、やっぱりお腹空いたから、カレーを食べたいな」
「……ええ、いいわよ」
ゆめ姉は立ち上がり、キッチンに向かう。
ぼくも立ち上がって、椅子に座る。
お腹一杯食べたら、少し寝よう。
英気を養わないと、これからやることについていけない。
まずは連絡取らないとなと思いながら、カレーの良い匂いを嗅いで待った。
待ちながらぼくはひそかに覚悟を決めた。
そして存在するか分からない神様に祈る。
どうか、神様。
ぼくに――人殺しをさせてください。




