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五月三十一日

さやかに降りそそいだ夜陰の雨は消え去り、ゆっくりと世界が明るくなる気配がする。

外は緩慢に、でも無理なく朝になっていく。

僕が来てから、鎌倉の夜はいつもこうやって静かに明けていたのだ。ここ最近、やっとそれに気づけた気がする。珍しく早く目が覚めた布団の中で僕はしばらく、雨の音を愉しんだ。

この時期の雨は不思議だ。閉じ込められても、どこか守られているような、不思議な安らぎに満ちている。その息苦しいまでの閉塞感が、いざ空が晴れると嘘のように消えていくのだ。

今日は夏日だろう。そんな気がする。(ひよどり)の声が雨戸の向こうに聞こえたら、僕は目を覚ます。時間に縛られない、がらんどうでいて充実した、貴重な日曜日だ。眠っている時間なんか、それこそもったいないのだ。

まだ、日の出は五時を過ぎる。明るくなる頃に僕は戸を開け放ち、さっきまで手を加えていたカンバスの油彩に、筆のむらに切り立った光の降り立つ陰影の加減を見る。今日も時間をかけて手を加えられるのだ。うきうきしてしまう。

庭には朝露に光る青葉に群れて、オダマキが咲いていた。井戸工事が出来るベテランの親方が、たった一日で復旧してくれたポンプ井戸の冷たい水を汲んで飲み、僕の身体はますます目を覚ましていく。

(そうだ)

そう言えばここにきて、まだ一か月も経っていないのだ。


僕が美鈴さんに会ったのは、つい五月十日のことだったのだ。時間を留めて想いが封じ込められたその手紙。僕が偶然それを開けてしまったときに、思えば僕の中でも、全く新しい時計の針が、音を立てて運命を稼働させたのかも知れなかった。

美鈴さんから最初のメールが来た時、僕は東京にいた。初稿が上がった作家さんとの打ち合わせに、僕も同行するようにと、呼び戻されたのだ。僕の画が小説の挿絵になることはそれで、ほぼ決まったようなものだ。お蔭でiPadを買う羽目になった。次回から、絵を描きながら打ち合わせをしたいと言うのだ。

「後、このシーンで何パターンか欲しいんです。次回の打ち合わせまでに、それらしいものをいくつかお願いします」

物語の発端は静御前のモノローグで始まるようだ。

僕が描いたのは、若宮の能舞台で舞う静御前の横顔だった。

かすかな微風に髪を嬲られ頼朝の前でしずしずと舞った、あのシーンを筆書きのタッチで描いたものだ。

僕がそれを描くとき、その風姿はやはりあの美鈴さんになってしまっていた。それでも何度か線を重ねたら、絵は段々と馴染んできて、みるみるうちに違和感がなくなった。描き慣れてしまったのだ。

そんな折に当の美鈴さんからのメールだ。びっくりしないわけがない。

はっ倒されると思ったのだが、美鈴さんはあくまで控えめな、大人の女性だった。なんと僕が同封した水彩のオダマキのことも憶えていて、懐かしいとすら言ってくれた。

僕が重ねた新しい色を、美鈴さんは受け入れてくれたのだ。

我が身を顧みず、勢いで今週日曜に、美鈴さんに会う約束をしてしまった。さぞや向こうも驚いただろう。戸惑い気味ながら、承知してくれたのが嬉しかった。

今さらだけどいざ会うとなると、彰大さんにあてられて書いてしまったあのセリフが頭をよぎる。この場所を見てみたくないはないですか。だって。今考えると、かなり照れ臭い。だって相手は大人の女の人だ。もっと普通に、誘えば良かったのかな。

でもちゃんと、会って話したい。あの静御前のスケッチで何か新しい僕の運命が始まりそうだ、と言うことを。そしてあなたたちの思い出に塗り重ねた僕の色に、美鈴さんの愛した色をもっとはっきりと加えてみたい。需要もないのにオダマキの油彩を始めたのは、そんな動機があってのことだ。

懐かしい、と言ってくれた美鈴さんのためだけに。

僕はこの初夏に遊ぶオダマキを何が何でも、描くのだ。


庭に出ると揚羽蝶(あげはちょう)が、オダマキの周りをふわふわと舞っていた。初夏の揚羽(あげは)はまだ、真夏の強烈な烈日を思わせる黄をまとってはいない。その翅は白く、静かに落ちてそっ、と若葉の森の静寂に溶け込んでいた。

ふと、思いついた。オダマキの油彩に僕は、揚羽蝶を加えることにした。音もなく舞う揚羽は、密かな呼吸(いき)をするごとに(はね)を開いたり閉じたりして。静御前そのものよりも僕はそこに、変わらぬ年月のオダマキを追い慕う美鈴さんの姿を重ねた。

素直な気持ちの象徴のオダマキに誘われて、変わらぬ色をそこに確かめようとする美鈴さんにそれが重なった。

たぶん密香さんがそうしたように、遠慮がちな美鈴さんもあの揚羽のように、触れたり離れたりして、ようやく過去の自分の色にたどり着いたのだろう。キャンバスに落としたままの、最初の一色。どんな人だって一気にそこにはたどり着けるわけがない。美鈴さんは婚約を破棄したそうな。今、特に仕事をしていないと言うのも、そのためだろう。自分の気持ちに率直になると急に、現実は厳しく狭まって存在感を主張してくる。誰かにきっと不義理もしたし、色んなことを犠牲にしてまでここに来るに違いない。

素直、と言うのは、そう言うことなのだ。

僕は決してそれを正解だとは、言わない。でもそれを信じることが、僕たちゲスの極みの存在理由でもあることなのだ。

美鈴さんの想いを、この世にある形として表現するために。

僕は今日もオダマキに色を入れる。

その色は、いくら埋もれても主張し、色を重ねれば褪せることはない。

僕はそのために新しく色を入れ続ける。タッチで確かめるように、何度も同じ水茎の跡を、気持ちの色を。慈しむようにそれをすれば、棄てられたはずの過去だって僕たちに新しい力をくれる。僕たちはいつもそれを信じているのだ。

こうしてあの桜貝のように清げな白をまとった揚羽蝶も、新緑の花色の中にぴたりと納まった。後は美鈴さんを待つだけだ。


「水城さんも、中々やりますね」

にんまりとしてやがった。

色々と身辺がすっきりした密香さんである。

密香さんは晴れて自由の身になった。浮気されたとは言え、なにせ相手にビンタを喰らわした身である。向こうだって訴訟の準備くらいはしたかも知れなかったのに。しかしそこは密香さん、しっかり手を打っていた。

すでに証拠を集めたと言っていたが、LINEの仲間を通じて一斉リークに出たのだ。まあすると、出るわ出るわ、浮気の種が、女遊びの食い散らしが。

かくしてエリートな職場は沸騰し、縁談は一発で破談になったと言う。相手は密香さんに復讐するどころではない。雲隠れして誰が連絡しても出てこないと言う。まあこっちから破約する分にはこれで問題ないだろうが。ちなみにその教授とやらはさぞ怒っただろう。

「わたしもゲスの極みですよね」

結局痛み分けなのだ、と、密香さんは苦笑する。

僕は六本木の国立新美術館で、密香さんとランチを食べた。最上階に有名なフレンチの家庭料理のお店があるのに、下のフロアでサンドイッチだ。はは、二人とも金がないのだ。かっこつけてる場合じゃない。でも、そのお店ご謹製と言うサンドイッチは中々悪くなかった。海老とブロッコリーを酸味を利かせたフレンチドレッシングで和えたもので、風味の強いライ麦のパンによく合った。そこで僕は遠慮なくワインを飲んだ。白が常套らしいが、渋みの強い、えぐい赤で押し通した。

「わたし、水城さんに救われましたよ」

あの事件から密香さんは、心を決めたらしい。採用になった短編の直しを今、すすめているみたいだ。このまま掲載の運びに結びつけば、長編連載にも話が及びそうだと言う。

「もちろんこれで、作家の地位が安泰であると言うわけではありませんが」

でもこれでいい。

密香さんはこうやって自分の色を取り戻したのだ。

「まあちょっとのいいことで、ぬか喜びしないで、お互いさ、自分がやれることをやれればいいと思いましょうよ」

密香さんはそう、僕に、語ってくれた。

彼女も一度、自分の色を棄てたのだ。下手に素直になったことで、今それで苦境に立たされているはずなのだが、その顔つきは、今まで見た中で一番穏やかに見えた。

「わたし、結婚するんです」

「ああ、その浮気してた婚約者の人と」

はっ倒された。廣瀬さんとだ。彼女もちゃんと決めたのだ。素直になることのリスク、それすらも覚悟して。

「私学の教師って言ったってまたいつ、職を失うか向こうも分からないし。でもね、よく考えたら、何をしていても安定なんて生きている限りやってはこないんですよ。暇なんです。わたしたちには、まだ沢山の時間があるんですから」

成功ってなんでしょうか、と密香さんは、うそぶくように言うとあらぬ宙を見た。

「わたしたち、いずれ二人で水城さんのうちに遊びに行きますよ?」

今の自分はどうですか、と言うように密香さんは陽光の中で微笑んだ。

素直、でしょう?

その笑顔は、はっきりとそう言っているように思えた。


ただ素直に。

そんなことで生きている僕たちは、不確定要素に直面して生きるしかない。

でもこれ、結局、どんなことをしてもそう感じるのかもしれない。安泰だと言える職業に就いたって、作家だの画家だの、と言って冒険したって。

僕たちはただただ、毎日を生きているのだ。

そして誰かと出逢う限り、いつも新しい決断と一歩が、人生には求められている。

それは別に真新しい色でも人目に立つ色でもないかも知れない。でも重要なことはただ一つだ。月並みだとそしられようと、誰かの一歩じゃない、紛れもなく自分の一歩なのだと信じることだ。誰にも替わってもらえないし、他の人と比較したってそれこそしょうがない。唯一の自分の色を信じてただ、愛さなきゃならない。そもそも、それがこの世界に最新で無二のものであるかは関係ない。僕たちは僕たちの愛した色を懸命に(いだ)きしめて、ただ、次の展開を待ちたいだけなのだ。


「わたしたちは結局、幸せではないかも知れません。でも、これでいいんです。だってね、どうやってもわたしは、こう言う人間なんです」

密香さんは屈託なく微笑んだ。不安の中に生きるのだ。まあそれはゲスの極みである。

「でも水城さん、貧乏はいいけど、せっかく自宅デートなのにがっかりさせちゃだめですよ。いっくらその、オダマキの絵で女の人を引っかけるにしても」

うるせいやい。でも昼下がり、初対面の女の人を家に迎えるのだ。しかも年上だ。僕の絵があれば十分だろう、なんて口が裂けても言えない。


この朝、相模湾の鯛が獲れ獲れの手に入った。

僕にとっては、鎌倉に来た初日、丸ごと焦がした鯛以来である。

「丸焼きや雑炊も美味しいけどね」

先輩の奥さんはパリに留学して、ソルボンヌ大学出身の人だ。て言うかマルセイユ生まれのど真ん中フランス人だ。年上の女の人を迎えるなら洋食、を主張してやまなかった。そこでお造りにするはずの鯛を、綺麗に三枚におろしてもらった。これに香草を加えて、軽くバターソテーにするメニューまで教えてもらってしまった。

英名はディル、イノンドと言われる香草は、セリ科の一年草だ。針葉樹林のように切り立った形の、樹氷型の葉が特徴的だ。イタリアンで使うバジルやエスニックのパクチーなどとともに最近は、スーパーなど量販店にもある。

鯛の朔は、一尾からそれほどに多くは獲れない。戦前、ベルサイユ条約の会議に活躍した西園寺公望(さいおんじきんもち)卿が五・一五事件の折、駿河台に滞在した折、「鯛の脇腹一寸(三センチ)四方」だけを注文したと言われるが、まあ日本の華族が愉しむような美味しいとこは、みみっちいほどに(すく)ないのだそうなのだ。

皮、骨、目玉などは棄てずに取って置き、ご飯と薄だしで煮込んでネギと柚子胡椒など薬味を散らして残らず雑炊として楽しむ気だが、たまにはそんな貴族の贅沢も悪くない。

鯛は焼き過ぎず仕上げる。バターは先輩のつてで、横浜の洋食屋にも卸す、山梨の牧場の市場に出ない自家製の逸品が手に入った。横浜の洋食の老舗で使う本物のバターとなんの遜色もない。これは、スーパーで買うようなものとは、全然違う。熱を入れたときにふんわりと薫るその重厚芳醇な匂いに、それだけでにんまりしてしまうと言う名品だ。

だが何しろ素人料理だ。油断は禁物だ。息をひそめてフライパンに薄くオリーブオイルをひき、砕いたブラックペッパーに岩塩を振る。それから艶めいたほのかな桜色の鯛の身が、熱を帯びてかすかに締まるのを慎重に待つのだ。

と、僕はこの世のものとは思えない色の桜色の身を裏返した。

一緒に焼く香草を振る。実は美鈴さんとの食事の前に一度、試してみたのだが、ディルを入れると、何の変哲もないただのバターソテーに複雑な色の辛味が引き立つ。柑橘系の酸味に似た爽やかな香りと、ぴりりと引き締まった辛味が、豊かで一面締まりのないバターの風味に一つ、強烈なアクセントを添えるのだ。

鯛の表面がさっくりとした触感を伝える、いわば狐色に焼きついて、なお中身がまだ肉汁生々しいのがベストだと言う。今朝もらってきたので、なまくらな腕と言えど、最低限の失敗は許されない。

昼過ぎに向けて僕は鯛を仕上げた。少し冷めたとしても、これなら、お昼のお酒にまあ上等なあてになるかな。と、ここまで来て僕は、重大なことを忘れていたのに気がついた。そうだ、ワインを買っていなかったのだ。どうしようか。もう約束の時間に間がない。


ああ、美鈴さんがやってくる。

清かな日光の降りそそぐ庭を開け放って、僕は右往左往する。ついつい気持ちが先へ急いでしまう。僕が探り当てた色。何しろ美鈴さんはそれを持ってきてくれる。今、最大限の僕でそれは、丁重にお迎えしなくちゃならない。

やっぱりワインを買いに出ようか。でも、留守にして行き違いになったら決まりが悪いぞ。

迷っていると、アトリエの一角にあったオダマキの油彩に目が留まった。僕はあっと声を上げそうになった。今朝、描いたばかりの揚羽蝶の色が甘いのだ。せっかく美鈴さんに会うのに。これじゃ、それこそ台無しじゃないか。

取るものもとりあえず、僕は絵筆を執った。

油彩で塗り重ねられた揚羽蝶のシルエットに、僕は手を触れる。

その輪郭を整えるように、ほんのり桜色に色づいた白をそこにもう少し加えた。

ふと、今にして確信する。

あの桜貝のネックレスの女性は間違いなく、美鈴さんだったのだろう。今ではなんの疑いもなく、そう思う。あの夕陽に煌めいて色づいたネックレスと肌の色が忘れられない。

美鈴さん。

僕たちはただ、いつも素直なだけでいいのか。そればかりだけは、いつまでも答えが出ない気がするし、そのせいでこれからもいくつもの難問にぶち当たる気がする。

それでも迷いながらも、オダマキの花にまつわり確かめるあの揚羽蝶のように。

僕たちは自分が重ねてきた色合いを確かめながら、新しい色を重ねようと、不確定要素の中に飛び込んでいく。言葉でそれと言わなくても、新しい運命がそこから、どこかで動き出すのを感じたいから。絶対大丈夫な色なんてない。でもいつもそこで何かが変わっていくから、それがただ儚くて、ともかくも美しいんだ。

最初に会ったとき、なんて言おう。

とても気の利いた言葉なんて出てきやしないぞ。

ああじゃあ、いい。

そんなことより、集中しよう。

この揚羽蝶を一番見せたい。ただそれだけのことだ。それしか考えたくない。

美鈴さんが来るのだ。

とにかく満足いくまで早く、早く。

時間を忘れて僕は、キャンバスに色を重ね続けた。そうこうしているうちに誰かが、チャプター送りしたみたいに、一気に時間が経った。


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