善人を天国へやる
第10回 お題「母性」「実家」
まず最初に叱られたのは、友人の誕生日プレゼントを買う為、実家から持ち出した皿を何枚か勝手にクリスティーズへ持って行ったこと(一族の取引担当者はレオンへ通報する前に、まずエイデンの期待を完膚なきまでに砕くところから始めた。所謂リヴェラーチェものと呼ばれる、銀食器に金メッキを施した成金趣味のガラクタは、ウィリアムズ・パークの質屋へ持って行し潰した方がまだ高く売れるらしい)次にテキストを3週間近く未読無視していたこと。他のに紛れちゃって気付かなかったんだよと謝れば、家族からのメール位確認しろとまたお小言が重ねられた。
そんな母親みたいにうるさく言わないでと唇を尖らせると、まさしく出来の悪い子供を前にした親じみた溜息が返ってくる。
「お前なあ。俺はお前のことを思って……」
「うん、知ってる。有り難いと思ってるよ」
先程まであんなえげつないオナニーをしていたのが嘘のように、レオンは清潔な格好をしていた。いちごブロンドの髪を後ろに撫で付け、アルマーニのジーンズなんか履いてるカスティーリャ風の伊達男(確か母方に幾らかネイティブ・アメリカンの血が混じっているとか言っていたが、そんな気配は欠片も窺えない──エイデンが言いたいのは、この男を見た誰もが間違いなく彼を白人と言う表象へ定義付けてくれると言うことだ)奨学金を貰えるほどではないけれど、学生時代はフットボールチームで活躍していた立派な体格の彼と並んだ時、お前ら本当に兄弟か? と今も昔もよく言われるのは仕方がないことだった。片親違いだから見かけが似ないのは当然だし、別にエイデンは己の血を恥じた事など一度もない。寧ろレオンがやたらと気を揉んで、「そんなこと言うな」と毎回怒っていた。
「僕上手くやってるよ。もう無茶はしないようにしてる。次は無いだろうし……レオこそどう。仕事、忙しいんでしょ」
「俺のことはいいんだよ、何とでもなるんだから」
苦笑いして頭をぽんぽんと叩くのは、まだまだ子供扱いされている証だ。袖口、そして恐らく首筋から、ホワイトムスクと、それにベルガモットだろうか? この仕草は苦手だが、彼の付けるコロンは好きだった。少なくとも大学生の頃からずっと変わらない。亡き母がくれた温もりを求め、啜り泣きながら廊下を彷徨っていた夜更け。声を聞きつけて寝室から顔を出し、抱きしめてくれたのは父ではなくレオンだった。
「次は無いとか、そんなこと心配するな。親父のことはもう考えなくていい。あの人は……善人じゃなかった」
ちらと走らされた一瞥が、部屋に入ってきたトレントへ向けられる。勿論面の皮の厚いあの男は全く知らん顔で、ビール瓶片手にカウチヘ腰を下ろした。
「彼は彼なりに、お前のことを愛してたよ。きっと許してくれる」
そんな事を大真面目な顔で言われたら、幾らエイデンでも大人しく口を噤んでいる位の選択肢は取れる。
そう言う事を話すのはプロのカウンセラーにであって、未だ立ち直れていない家族ではない。
本当は話し合うべきなのかも知れないが、未だ分からないのだと。何故そんな事を思い立ったのか。実行することができたのか。そもそも自らは、父を愛していたのか。
今日分かったのは、レオンがあの極道な男を愛していたと言う事。だから彼は、エイデンの父親代わりとして振る舞おうとしない。包み込もうとする姿勢は、どちらかと言えば母親に近かった。そう、きっと昔からそうだった。
生まれ育った家の中、数少ないお気に入りの場所である自室のアルコーブへ身を横たえ、エイデンは激しい嬌声の中から拾い上げた真実を穏やかに心の中で反芻していた。
先程の録音音声が欲しいと言った時、トレントは明らかに怪訝な表情を浮かべていたが、彼に断る理由はない。イヤホンで、そして肌触りの良いコットンのカーテンで世界から遮断された空間は、一面に取られた窓から差し込む秋の日差しをまだ温存している。きっと母の胎内とは、こんな穏やかなあたたかさなのだろう。夕食の時間が近いのに、うっかり微睡んでしまいそうだった。
確かに目を瞑ってはいたが、あくまでそういう心地に浸っていたと言うだけで、実際には眠っていない。
やはり遠慮会釈なく部屋へと侵入してきた足音は、やがてカーテンを乱暴に引き開け、左耳からすぽりとイヤホンを奪い取る。不精し片目だけ開けて見守るエイデンの前で、トレントは音声を確かめ、表情を渋いものへと進化させた。
「何やってんだ、お前」
「別に?」
半分だけになった、理性の欠片もない動物的じみた喘ぎへ、まだ意識は大半が残っている。湧き上がった欠伸を隠すべく口元に当てた右手の中、人差し指を緩慢に噛みながら、エイデンは正直に答えた。
「ただ、レオは可愛いと思ってさ。トレもそう思わない?」
まるで測っていたように、階下からレオンの呼び声が駆け上がってくる。部屋のドアが開きっぱなしになっているから、普段からどちらかと言えばまろやかな彼の声でも、くっきりとした輪郭で届けられた。「ミートローフが冷めるぞ! 早く降りてこないと全部食っちまうからな!」
昔はこうやって義兄を促すのは自分の役目で、それでも往生際が悪く降りてこないレオンの部屋へ駆け込んだら、いつもわしわしと頭を撫でてくれて。あの時の触れられ方は嫌じゃなかった、そう言えば。
不意に胸が締め付けられたようになって、身を起こす。「待ってってば、兄さん」そう叫ぼうとした口は刹那、分厚い手のひらで覆われる。
そのまま再び体をビロードの詰め物の上へ押し戻された時、エイデンが抵抗しなかったのは、警戒心によるものだった。理性的ではなく、極めて動物的な本能が催す感情。無体を働くトレントは、こんなにも穏やかな表情を浮かべていると言うのに。
シー、シー、と小さく囁きながら指を振り、トレントはお互いの鼻先が触れ合いそうになるまで身を伸ばした。いつのまにか、腹の柔らかいところが片膝で押さえつけられている。普段は余り意識しないが、彼は他人へ力を振るうことへ慣れきっている、それは疑いようもない事実だった。
「なあ。今お前、レオンへ欲情しやがったな」
凝視を片時も外さないエイデンと違い、トレントは平静な眼差しを保ち続ける。口調と言えば──やはり長閑だった。なのにぐっと内臓へ加わった圧と同様、これ以上ないほど効率的にどすが利かされているのだ。
「それは駄目だ。実の兄弟でやるなんて、豚以下の所業だからな」
「彼は、兄じゃないよ」
太い手首を両手で掴んで押し退ければ、思ったより簡単に外れる。短く息を吐き、エイデンは首を振った。
「それだけじゃない。母さんでもある。僕の家族だ」
「お袋とファックしたがるなんてもっと最悪だぞ。母親との関係が異常だった息子は、かなりの確率で重犯罪人になるって、犯罪心理学でも実証されてる」
揶揄の言葉付きと裏腹、きらりと光る青い瞳。ああなるほど、とその瞬間、腑に落ちる。思わずエイデンは、肩を震わせる程笑っていた。
「ねえトレ。義兄さんとやりたいんでしょ」
「彼はいい体してる」
「やったらいいのに。レオもトレのことを悪くは思ってない。きっと簡単に脚を開いてくれるよ」
肉体が誘惑にとことん弱く、そして脆いものだと、この家の人間程知っている者はそうそうない。そして心なんてものが、案外頑丈なものだと言うことも。
細めた眦から放つ横目と、笑いで痙攣するか細い喉を見下ろすトレントは、結局忌々しげに唇を歪めた。
「クソガキが」
吐き捨てられた言葉へ重ねる笑みを、食卓へ腰掛けるまでに消せる自信がない。どちらにしろ、可哀想な程正気の感性を持つレオンは気付かないだろう。彼はきっと、この事態を全然望んでいないに違いない。
せめて取り繕う真似位はしなければ。エイデンは今度こそ身を起こし、トレントの傍らをすり抜けざま、揺れる肩と晴れやかな気分を何とか押さえ込む努力を続けた。




