第二次小豆坂の戦い②
朝方まで続いた小雨のせいで、行軍の速度はだいぶ落ちてしまった。ぬかるんだ地面に足を取られ、歩いているみんなの顔に疲労と苛立ちが浮かんでいた。毎度のことだけど、農兵隊のみんなを差し置いて僕だけ馬に乗るのは、やっぱり申し訳なく思う。雪斎さんに言うと、上に立つ者として堂々としていれば良いのだと、随分偉そうなアドバイスを貰った。だけど僕は自分が、喜介くんや桃より上だと思ったことは一度もなかった。
歩き始めてかなり時間が経ったころ、どしゃっと誰かが盛大に転ぶ音が後ろの方から聞こえた。嫌な予感を覚えながら振り返る。顔を泥だらけにした桃が、うつ伏せに倒れていた。思わずため息が漏れてしまった。やはり、付いて来ていた事に気が付いた段階で、無理にでも駿府に送り返すべきだったか。
馬から飛び降りる。泥が跳ねて、袴の裾が茶色く汚れた。桃の傍まで駆け寄り手を伸ばした。僕の手を掴んだ桃は、顔を赤くして遠慮がちに笑った。ぐいっと腕を引っ張り起き上がらせ、汚れた顔を軽く布で拭き取ると、桃はくすぐったそうに体をよじらせた。汚れた袴は、まあ自分への戒めだと思って我慢してもらおう。
「迷惑をかけて申し訳ありません、関介様」
いつもより元気のない声で、殊勝にも頭を下げる桃。そんな彼が無性にかわいく思えて、僕は彼の頭をぐしゃぐしゃと撫でまわした。驚いたように顔を上げた桃の両頬を挟み、ぐりぐりと揉んだ。まだまだ若いもっちりとした感触が手のひらに伝わる。承芳さんのもいいけど、桃のほっぺたも悪くない。
桃は「やめてくださいよぉ」と、両手をばたつかせ軽い抵抗を見せた。手を離すと、散々に揉んだ頬を摩り、ジトっとした目を向けてきた。
「悪い子にはお仕置きしなきゃね。それとも、置いていってもいいんだよ?」
僕が冗談ぽく言うと、さっと顔を青くして、首をぶんぶん横に振った。桃の反応の一つ一つが本当に愛らしく、つい可愛がりたくなるけど、あまり過剰にやると桃が可哀そうだ。
桃は大人になりたかった。厳密にいえば、元服を迎えた桃は既に大人だが、桃の心はまだまだ子供だった。だからこそ、こうして戦に付いて来てしまったのだ。現代風に言えば、反抗期というやつだ。反抗期が来るのは、成長している証拠だ。
「置いていかないですよね、関介様?」
桃は目を潤ませ泣きそうな声で言った。僕は左手を出す。桃はその手をがっちりと掴んだ。
「一緒に歩いていこう。この手を離しちゃ駄目だからね」
「はいっ、関介様!」
表情が一転、太陽のようにぱあっと明るくなった。気持ちの良い返事の後に、嬉しそうにはにかむ桃。やっぱり僕は、雪斎さんのように馬上で偉そうにしているより、一緒に歩いたほうがいいや。右手に馬の手綱を。左手に桃の手のひらを握った。左手がポカポカして心地よかった。
「子守りまで大変ですね、関介様」
横から顔を出した喜介くんは、肩をすくめて苦笑いを浮かべた。桃に聞こえない声で、全くだよと返した。桃と一緒の行軍は、いつもよりも気分が明るくなった。少しだけ、付いて来てくれて良かったとも思えた。そろそろ岡崎だ。もうすぐ、桃にとって初めての戦が始まる。
安祥城を発った織田信広の軍勢は、矢作川を渡ってすぐの岸辺に布陣した。このまま進軍を進めれば、前回と同じ小豆坂で衝突する事になるだろう。雪斎さんが目をぎらつかせながら教えてくれた。今川の軍は坂の頂上に布陣した。坂を見下ろす。戦場となるには道幅が狭く、鬱蒼とした木々に阻まれ、坂の一番下まで見えなかった。僕らの目線では、坂の下から駆け上がってきた織田の軍勢が、突然目の前に現れて見えるだろう。六年前に同じ場所で、僕らは織田信秀に大敗を喫した。皮肉にも、その時と全く同じ状況だった。空気を切り裂くような敵兵の声。目の前で死んでいく仲間たちの顔。命からがらに逃げまわった時の土の匂い。その全てを、つい最近のように思い出す。両肩が震える。武者震いなのか、恐怖から来る震えなのか、自分でも分からなかった。
矢作川を越え小豆坂を抜ければ、岡崎城まで目と鼻の先だ。何としても岡崎城を死守したい今川と、岡崎城を手にしたい織田が衝突するのは必然だった。六年前は手痛い敗北を喫したが、今回は負けるわけにはいかない事情があった。織田の三河への圧力は増すばかりで、松平の家臣の中にも、謀反を起こし織田側につく者が現れ始めた。松平は今まさに、反織田と反今川に揺れていた。嫡男の竹千代くんが織田の手中にあり、天秤は僅かながら織田側に傾いている。
陣幕を設置し、持ってきた荷物を中に置く。戦に必要な準備は、大抵は足軽や農兵たちが行う。雪斎さんや朝比奈泰能さん家臣たちは、護衛に囲まれた奥の陣幕の中で、戦のための作戦会議を開いている。まあ僕らが口を出しても、まともな策が出る訳もなく。雪斎さんたちが指示を出す棋士で、僕らは忠実に従う駒であればいい。
「関介殿、こちらへ」
声のする方に視線を向けると、幕の隙間からこっそり顔を出す雪斎さんが、手招きして呼んでいた。辺りを見渡し、傍に誰もいない事を確認して、そっと駆け寄った。
「どうしたんです、雪斎さん」
「あの小僧を連れてきたのは関介殿ですか?」
あの小僧、もちろん桃の事だ。突然の質問に、しどろもどろになる。ええと、ええとと繰り返していると、雪斎さんの表情が段々と険しくなる。実はと、桃が付いて来てしまった経緯をつらつらと話した。全部聞き終えた雪斎さんは、呆れたように大きなため息をついた。
「どうせそのような理由だとは思っていました。まぁ足手まといになるのが関の山でしょうが、精々守ってやりなさい」
僕は苦笑いを浮かべ、努力しますと頷いた。
「関介殿を呼んだ理由は他にあります。あまり知られたくはない、出来れば関介殿の部隊以外の者には。よいですか」
さっきまでの砕けた表情が消え、真剣な目に戻っていた。雪斎さんは顔を近づけ、僕の耳元で呟いた。それは、とある作戦の内容だった。目を見開き、聞き返そうとしたが、もう行きなさいと手で制され、雪斎さんは陣幕の中に消えてしまった。
ただ一人ポツンと取り残され、呆然と立ち尽くしていると、突然背後から僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、喜介くんが、怪訝そうに僕の顔を見つめていた。
「関介様、こんな処にいたのですか。みな探してましたよ。武器は全て、陣幕の中に運び終えました。他にやる事はありますか?」
そう言い終えると、額の汗を拭った。僕は雪斎さんから伝えられた作戦を、もう一度頭の中で復唱する。という事は、今から僕は、喜介くんに何とも気まずい指示を出さなければいけないのか。準備を途中で抜けて、後の事は全部喜介くんたちに任せてきたから、何だか気が滅入ってしまう。
じっと喜介くんの顔を見つめる。なんですかと、喜介くんは気味悪そうに後ずさりした。
「喜介くん、伝えなければいけない事があるんだ。冷静に聞いて欲しい」
僕は、雪斎さんから伝えられた作戦をつらつらと話した。喜介くんの顔から段々と表情が消え、瞳の焦点も合わなくなってきた。おーいと声を掛けると、ハッとしたように顔を振り、ジトっと目で僕の顔を見つめた。
「了解しました。みなにそう伝えます」
力なく呟くと、喜介くんは踵を返してトボトボと遠ざかっていった。小さくなる背中を見つめ、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。ただ悪いのは僕じゃなくて雪斎さんだ。僕らはあくまでも戦場の駒で、棋士である雪斎さんに従うしかない。雪斎さんの事だ、きっと意味があって、あんな作戦を僕に伝えたのだろう。
おっと、僕もぼけっとしていられない。合戦が始まるまでに、所定の場所まで移動しなければ。それが雪斎さんの一つ目の指示だった。戦の準備をしてくれた喜介くんたちには悪いけど、直ぐに出発だ。
農兵隊二十五人を引き連れ、坂の途中までやってきた。そこで足を止め、僕は何も無いように見える右手の草むらを指さした。みんなポカンとした表情で、僕が指さした方向を見つめている。
「それじゃあ、この先へ進もうか」
「関介様、ここを通るのですか?」
「桃には、道があるようには見えないのですが」
次々と疑問の声が投げかけられる。そりゃそうだ。どっから見ても深い森にしか見えない。
みんなの顔をぐるっと見渡し、僕は自分の背丈ほどの草に手を伸ばした。つるっとした太い草を掴むと、一気に引っ張る。根っこを持ち上げるような、重たい感触は無かった。みんなの息を呑む声が聞こえて、思わず得意げな顔になってしまう。草のカモフラージュを外すと、人一人が通れる狭い道に繋がっていた。これが雪斎さんの教えてくれた、秘密の裏道だ。今川の工作兵が、戦が始まる前に作ったとの事。雪斎さんは、織田が挙兵する遥か前に、この小豆坂が戦場になる事を予想していたのだった。
「すごい、関介様。どこに繋がっているのか、桃、気になります」
そう言って桃は、僕が止める間もなく、道の先へ走っていってしまった。桃の背中を追いかけるように、僕らも急いで狭い道を進んだ。実は僕も、この先が何処に繋がっているのか知らなかった。
「何するんだ! 放せ!」
桃の叫び声が聞こえた。心臓が跳ねあがる。まさか、織田がこの裏道を見つけて、先回りしていたのかも。全力で地面を蹴り、ようやく出口が見えた。細いけもの道を抜けた先に、大きな開けた空間があった。小さな掘っ立て小屋が二棟と、武器庫と食糧庫が一棟ずつ。そこは、小さな砦だった。
桃の声のする方を見る。そこには甲冑を身に着けた大勢の足軽たちが、列をなして立っていた。それだけで圧倒されてしまう。その列の前で、桃の襟首を掴み、今にも噛みつきそうな怖い顔をした武士の顔を、僕は見たことがあった。
「ガキが来るような処じゃねえ、さっさと消えろ」
「元信くん、その辺にしてあげて」
桃の襟首を掴んでいた武士さんが、僕の方を見る。途端に心底嫌そうな顔で、大きなため息をついた。襟首から手を放すと、わわっと桃はその場に尻もちをついた。手招きすると、涙目になりながら走ってきて、僕の胸の中に顔を埋めた。
「何でお前がここにいるんだ、関介」
「僕は雪斎さんに言われて来たんだ。元信くんこそ、どうして?」
僕が質問したところで、何かを察したように額を手で隠すと、あのクソ親父と舌を鳴らした。どうやら、雪斎さんの他に、親綱さんも関係しているらしい。
「黒幕は違えど、どうやら僕らの役割は同じらしいね」
「ああ、そのようだな。関介と同じというのが、気に食わないがな」
直ぐそういやな事を言う。僕が頬を膨らませて、ジトっとした視線を向けると、元信くんは舌を出してそっぽ向いてしまった。
「あの、私にはお二人が一体何の話をしているのか、分からないのですが」
おずおずと手を挙げ、困った顔の喜介くんが尋ねてきた。そうだ、説明するのを忘れていた。おほんと、わざとらしく咳ばらいをして、僕は農兵隊のみんなに説明を始めた。雪斎さんの二つ目の指示だ。
「みんな聞いて欲しい。今回の戦で僕ら農兵隊は、敵に横やりを入れる奇襲部隊として参加する事になったんだ」
説明を終え、みんなの顔を見渡すと、全員の頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいた。彼らの顔を見た元信くんが、大丈夫かよと心配そうに呟いた。僕も心配になってきたよ。
「取り合えず、奇襲の合図が来るまで此処で待機、分かった?」
僕が言い終えると、みんな互いに顔を見合わせ、それぞれバラバラに歯切れの悪い返事をした。確かに、突然奇襲部隊と言われても、具体的に何をするのか想像するのは難しいだろう。かくいう僕も、雪斎さんから伝えられたのは、この砦に繋がる抜け道と、奇襲をするという事だけだった。みんなの不安な気持ちも分かる。
すると、桃が突如として立ち上がり、拳を掲げて叫んだ。
「桃はやってやりますよ! 必ずや、織田の首を挙げてみせます! うおおお!」
叫びながら広いところまで走り、腰に差した刀を抜くと、その場で素振りを始めた。あまりに突然の出来事で、呆気にとられた僕は、眺める事しか出来なかった。桃の元気な姿を、みんな楽しそうに見つめた。
元信くんがそっと駆け寄ってきた。
「あのガキ、まさか農兵隊の一人だったとはな。てっきり、雑用だと思っていたぜ。あんなガキが戦場に、大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。桃は僕が守るから。桃だけじゃない、みんなの命は僕が守る。心配してくれてありがとう、元信くん」
「べっ、別に心配してねえ。それより、俺たちの足を引っ張ったら、ただじゃおかないからな」
それだけ言うと、元信くんは、足軽隊のもとへ駆けていった。
その時、遥か頭上から、お腹の底が震えるような、甲高い音が聞こえた。ほら貝の音だ。戦の始まりを伝える合図だ。桃を見ると、ほら貝の音に圧倒され、剣を握る手が震えていた。
腰に差さった刀の柄に触れる。必ず守る。僕は強く心に誓った。




