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弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
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尾張の大うつけ

 1547年 9月


 今月の初め頃、雪斎さんを大将とする大軍勢が、戸田康光の立て籠もる田原城を攻撃した。今川軍の攻撃は凄まじく、数で劣る田原城はいとも簡単に落城したらしい。城主の戸田康光は、逃げようとしたところを捕らえられ、一族ともどもその場で殺害されたのだと。戸田との数年越しの禍根の連鎖は、戸田康光の死亡という形で決着がついた。

 駿府の平和のためには、反対勢力を徹底的に滅ぼすしかない。理想と現実の狭間で苦悩する承芳さんは、最近ずっと苦しそうな顔をしている。たまには息抜きも必要だと思うけど、当主の立場上そういう訳にもいかないのだろう。

 戸田康光を倒した雪斎さんが戻ってきたのは、だいぶ日が傾いてきた頃だった。今川館に帰るなり、家臣たちを広間に集めた。少し遅れて広間に向かうと、既に多くの家臣が集まって立ち話をしていた。部屋の奥で、難しい顔で腕を組む承芳さんを見つけた。近寄って挨拶すると、ふっと表情を緩めた。


「皆の衆、聞いている通り先日戸田康光を滅ぼした事で、渥美・田原一帯は今川のものとなった」


 真剣な目で話し始める雪斎さん。部屋の中がシンと静まり返った。みんな集中して、雪斎さんの話に耳を傾けた。


「これで憂いなく、三河の支配を進めることが出来る。松平の嫡子は未だ織田の手の中だ。今川にとって、苦しい情勢に変わりはない。だが皆で力を合わせ、何としても三河から織田を駆逐しようぞ」


「おうっ!」


 雪斎さんが高らかに言うと、他の家臣たちは一斉に声を上げた。そうだ戸田康光を滅ぼし、今川の反対勢力を倒したからと言って、竹千代くんは未だ織田家に奪われたままだ。松平を屈服させ、三河の支配を進めたい今川にとって、首根っこを掴まれているような状況だ。流石は織田信秀、どこまでも狡猾だ。戦上手でありながら、番外戦でもぬかりない。

 雪斎さんが部屋を後にすると、他の家臣さんたちもぞろぞろと部屋から出ていった。僕と承芳さんは、彼らの背中を部屋の隅から見送った。ふと一人の青年が、ひょこひょことこちらに近寄ってきた。僕らと同じくらいか、少し若い青年だった。


「義元様ぁ! ご無沙汰しております、私の事を覚えていますか?」


「うむ、ああ覚えておるぞ、景貫」


 景貫と呼ばれた青年は、嬉しそうに顔をくしゃっとさせて笑った。ついでに、隣の僕にも笑顔を向けた。僕は手をひらひらとさせ笑顔を返した。景貫くんとは、何度か道場で一緒になった事があった。僕の道場は各方面でかなり好評のようで、農民以外からも参加したいという人が後を絶たない。僕が戦場で指揮する農兵部隊の育成のための道場で、武士さんたちの入門は基本的には断っていた。ただ、今川重臣の息子となると断る事もできず、一度二度一緒に稽古をしたことがあった。景貫くんもそのうちの一人で、剣の腕はかなりのもので、さらに覚えがとても早い。知性的であり、武士としての勇ましさも持っていた。


「田原城攻めでは、雪斎様よりお褒めの言葉を頂きました。景貫は先陣を務め、康光を捕らえることに成功したんですよ!」


 景貫くんの目が、褒めて褒めてと輝いている。承芳さんは顔を引きつらせながら、無理した笑みを浮かべた。


「ああ、よくやってくれたな。お前の存在は、今川にとって大きな力となっている。これからも今川の為、精進するのだぞ」


 そう言って、承芳さんは景貫くんの頭を優しく撫でた。景貫くんの瞳がウルウルと輝いた。袖で目を擦ると、深く頭を下げ、部屋を後にした。部屋の中は、僕と承芳さんの二人きりとなった。

 承芳さんは大きなため息をつくと、後ろに手をついて座り込んだ。僕も隣に座る。


「承芳さん、無理しなくてもいいんですよ」


「無理してるように見えるか?」


「顔、引きつってます」


 僕がそう言うと、承芳さんは自分の頬を触り、そうかと呟いた。

 景貫くんはただ純粋に、田原城攻めの戦功を褒めて貰いたかったに違いない。自分の働きが、今川の為になっている。それは承芳さんが望んでいる事だ。そう考えるのが普通なのだ。戦乱の世で、人の死をこんなにも考えすぎてしまう承芳さんが普通じゃないんだ。いや、もしかしたら普通の人なんて、戦乱の世には存在しないのかもしれない。

 縁側から覗く庭園に、西日が差してオレンジ色に染めた。池で泳ぐ鯉は、何も考えていないように口をパクパクとさせ餌をせがんでいた。

 突然背後の障子が開き、僕らは同時に振り返った。そこには、仏頂面の多恵さんが立っていた。手のひらには、以前飲まされた丸薬と同じような色形の塊が。僕らが何かを言う前に、多恵さんはずんずんと近寄って来て、目の前で膝を折ってしゃがんだ。


「貴方、最近元気がない。それで当主が務まるわけ?」


 承芳さんは、別にと小さく反論しようとするも、多恵さんの有無を言わせない真っすぐな視線に続きの言葉を飲み込んだ。多恵さんは、ぐいと腕を伸ばすと、手のひらの丸薬を僕らの顔に近づける。すっぱいような、苦いような匂いがする。


「貴方の役目は、駿府を守る事でしょ。どうして、そんな小さなつまらない事で悩んでいるの?」


「何?」


 承芳さんの目つきが鋭くなる。口にこそ出さなかったが、お前に何が分かると、承芳さんの瞳がそう言っている。承芳さんの熱を帯びた視線と、多恵さんの冷たい視線がぶつかる。


「私が武田にいたころ、沢山の血を、悲しむ民の顔を見てきた。あのクソ親父の事は大嫌い、それは今も変わってない。だけど、あいつが武田を守っていたのは事実なの。非情に徹して暴力で武田を守ってきた。その手段は褒められたものでは無いけど。けれど、今の貴方はとても中途半端。それでは駿府を、民を……私を守れない」


 眉根をキュッと寄せ、苦しそうな顔で話す多恵さん。承芳さんの目の前で、多恵さんがこんな顔をしているのを初めて見た。いつもは喧嘩の絶えない、仲が良いのか悪いのか分からない、そんな夫婦だけど。今は、当主である夫を支える、健気で立派な妻だった。

 承芳さんの目が左右に揺れる。額を押さえ目を伏せた。


「私は信虎殿のように、非情にはなりきれん」


「私は貴方に、非情になれと言っているわけじゃない。貴方がそんな人だとも思ってない。それは、私より隣の男の方が分かっているんじゃない?」


 多恵さんが僕の顔に視線を送る。承芳さんが僕の顔を見る。青白く生気が宿っていない承芳さんの顔が、目の前にあった。

 僕は多恵さんの手のひらから丸薬を掴みとると、承芳さんの口の中に勢いよく放り込んだ。その途端、口を押さえその場にうずくまる承芳さん。三十秒くらいして、目に涙を溜めた承芳さんが顔を上げた。丸薬は何とか飲み込んだようだ。


「関介、後で覚えてろよ」


 恨みのこもった言葉は聞かなかったことにした。それよりも、さっきまで生気のなかった顔をしていたが、すっかり元気を取り戻したようだ。いつもの、迷いのない承芳さんの顔だ。


「でも、元気出たんじゃないですか?」


「むぅ、まあな。なんだその、有難う、関介」


 唇を尖らせながら、不服そうに感謝の言葉を口にした。


「感謝は、僕じゃなくて多恵さんにしてあげてください、さっ」


 僕は承芳さんを引っ張って、無理やり多恵さんの方へ向ける。


「有難う、多恵。元気が出たというか、迷いが晴れたような気がするよ。心配させて悪かった。私は当主として、駿府を、民を、そして多恵を必ず守る。ここで誓わせてくれ」


「当たり前でしょう。それが当主の務めなんだから。だから私も、妻の務めとして、一応貴方を支える。ただ、また今みたいに元気のない顔をしていたら、次はただでは置かないから」


 ムッとした表情を作る多恵さんの顔は、どこか嬉しそうだった。承芳さんも、柔らかな笑みを浮かべた。久しぶりに、承芳さんの心からの笑顔が見れた気がする。

 庭園を見ると、枝の先で二羽のメジロが羽を寄せ合ってとまっていた。二羽とも、どこか幸せそうな表情をしていた。


 次の日、稽古を終え自室に入ると、何故か承芳さんと雪斎さんが待ち構えていた。この後汗を流して、ゆっくり昼寝でもしようと思っていたのに。話があるなら手短にお願いしたい。


「おお関介、良いところに帰ってきたな」


 絶対嘘だ。僕の机の上に、色々な書類が所狭しと並んでいる。今までそこで僕の帰りを待ちながら、仕事していたに違いない。仕事なら自分の部屋でやればいいし、話があるなら後でゆっくり呼んでくれればいいのに。稽古で疲れ切っている僕が愚痴ると、二人はへらへらと笑いながら、まあいいではないかと言った。疲れが余計に増した気がした。

 

「で、話って何ですか?」


「いえ、立ち話程度なのですが、なんでも承芳が織田信秀の嫡男の噂を耳にしたそうでして」


 話を振られた承芳さんは、そうなのだと声をわざと小さくして話し始めた。

 

「織田信秀の嫡男は信長と言うらしい。信長はどうも、織田家臣から大うつけと呼ばれているらしい」


「うつけ?」


 僕が首を傾げて呟くと、承芳さんは呆れたように手をひらひらと振った。腹立つ仕草だ。


「そんな事も知らんのか。うつけとは簡単に言えば間抜け、常識はずれという意味だ。つまり、関介みたいな者を」

 

「まあ承芳のような、阿呆で間抜けの者の事を、うつけ者と呼ぶのです。分かりましたか、関介殿」


 承芳さんが喋っているのを遮り、雪斎さんが分かりやすく教えてくれた。僕は大きく頷き、隣の承芳さんを見て鼻で笑った。承芳さんが睨むので、僕もキッと睨み返した。雪斎さんが呆れたようにため息を溢し「どちらもうつけ者か」と呟いた。


「それで、承芳さんはそれを伝えに来たんですか?」


「そうだ、面白い噂話だろう。まあ信秀の嫡男が何の才も持たないとは思わんが、火の無いところに煙は立たぬと言う。うつけ者であるという噂が真であれば、今川の敵では無いという事だ。それに、家臣から噂が広まったとすれば、家臣との付き合いが上手く行っていないのかもしれん」


 僕は承芳さんの話を聞きながら、嫌な悪寒を感じていた。織田信長か。桶狭間の戦いで今川義元を破った戦国武将。歴史が大の苦手な僕でも知っている事実だ。ただうつけ者と言われていたことは知らなかった。後に織田信長が天下統一している事を考えると、その噂の真偽のほどは定かではない。もし本当にうつけ者ならば、桶狭間の戦いが起こる前に、織田を倒せるかもしれない。承芳さんが殺されずに済むかもしれない。何にせよ、尾張の事を詳しそうなあの人に話を聞きに行こうか。

 僕はいつの間にか、難しい顔で考え事をしていたらしい。ふと顔を上げると、目の前に承芳さんの顔があった。


 「聞いているのか? まあよい、関介も織田の事で何か耳にしたら、直ぐに教えてくれ。それではな」


 それだけ言い残して、二人は部屋を後にした。ふう、何だか気疲れしてしまった。

 僕はその後汗を洗い流し、心地よい風に吹かれながら昼寝をした。目を覚ました時、日は丁度目の高さくらいになっていた。秋もせまり、日が落ちるのもだいぶ早くなってきた。僕は急ぎ足で、彼のもとへ向かった。


 石畳の先には、朽ちかけた廃寺の本殿が建っている。その入り口に寄りかかるようにして、一人の青年が仏頂面で僕を見下ろしている。


「なんだか久しぶりですね、関四郎さん」


「ああそうだな。別に、嬉しくはないが」


 可愛げのない人だ。まあ、お互い30歳近くなって、会いたかったよと抱きしめ合う方が気持ち悪い。別に関四郎さんも、本気で言ってるわけではないはずだ。このくらいの距離感が、僕たちには丁度いいし、心地よかった。

 階段を上がろうと足をやると、ミシミシと大きな音を立てた。気をつけろよと笑う関四郎さん。なら少しくらい改修したらいいじゃないか。前に何度かそう言ったが、急に新しくなったら目立つし、人に来られても困る。今にも朽ち果てそうな見た目なら、誰も寄せ付けないだろと。まあ本人が満足してるなら、僕からは何も言うまい。

 本殿に入ると、意外にも中は綺麗に片付いていた。床板と天井を支える柱も新しくなっていた。


「片付けしたんですね。前まで、ネズミの家かと思ってましたもん」


「喧嘩売ってるのか?」


 僕はどうでしょうねとウインクをしてみせた。ゴチンと関四郎さんに殴られた。

 僕は遊びに来たわけではない。頭をさすりながら、僕はさっそく本題に入った。


「関四郎さんは、尾張の織田信長を知っていますか?」


「なんだ急に。まぁ、信長の事は知っているぞ。あの大うつけ者だろう。ははっ、まさにお前の」


「やっぱり、大うつけ者という噂は広がっているんですね」


 関四郎さんの言葉を遮って、僕は頷きながら言った。関四郎さんは、お父さんのいる京都によく行くみたいだから、噂を耳にしているだろうと予想していたが、どうやら当たりのようだ。僕は引き続き質問を続けた。


「それで関四郎さん。他にはどんな噂を耳にしたんです?」


「いやあ、大うつけ者だという事は聞いているのだが、それ以外は特に」


「あっ、そうですか」


「何だよその、露骨に失望した顔は。大した情報が無くて悪かったな。用が済んだなら、さっさと帰れ」


 僕がスンと真顔になって返事したのが気に食わなかったのか、関四郎さんは帰れ帰れと手を振った。

 僕が此処に来たのは、別に新たな情報を得ようとしたわけじゃない。情報を得ると口実を使って、関四郎さんに会いに来ただけだ。最近忙しくて、ご無沙汰してしまったから。


 「冗談ですよ、関四郎さん。久しぶりにお話しできて良かったです。元気そうで安心しましたよ。それじゃあこれで」


 僕がそう言うと、関四郎さんはふんっと不満そうに鼻を鳴らしたが、表情は柔らかかった。僕が出口に差し掛かった時、関四郎さんがあっと大きな声を上げた。

 

「そういえば、もう一つ妙な噂があった。これを言っていたのは、確か美濃の行商人だったか。何でも、美濃の当主である斎藤道三は、うつけの信長を大変気に入っており、いずれ跡取りにしたいと言っていたらしい。ただまあ、そんな事は常識的にありえないがな。つまらん話はこれで最後だ、じゃあな関介」


「ありがとうございました、関四郎さん」


 僕が手を振ると、関四郎さんは少し恥ずかしそうに手を振り返した。僕は階段を降り、石畳を思い切り蹴った。いい話が聞けた。承芳さんに早く伝えよう。信長は侮ってはいけない人物だと。

 僕らが今後相手にするだろう織田信長とは、いったいどんな人物なのだろうか。歴史の教科書や漫画、テレビによく登場して、身近な存在だった織田信長。だがその全貌を知る人は、現代では当然誰一人としていない。歴史の教科書には、信長は今川義元を倒すと書いてあった。だけど、ここは教科書の上じゃない。僕と承芳さんとなら、歴史なんて簡単に覆せるはずだ。逸る気持ちを押さえながら、僕は館まで走った。

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