織田信長という男
日がだいぶ傾いてきた夕暮れ時、今川館の門がうっすらと見えてきた。松明に炎が揺らめいており、その前に数人の番兵が立っていた。僕の姿を見つけた番兵たちが、直ぐに門を開けてくれた。重たい木と地面の擦れる鈍い音が響く。ゆっくりと開けられた門の奥に、一人の女性が腕を組んで、ジトっとした目を向け立っていた。
「関介様、ずいぶん遅いお帰りですね」
「稲穂さん、これには深い理由が」
「言い訳は聞きません! んもう、関介様の方から一緒に夕餉をとると言ってくれたではないですか。稲穂はもう、お腹がすいて仕方ありません!」
頬を膨らませぷりぷり怒る稲穂さん。これは長い説教が待っていそうだ。ただ、今日中に済ませたい用がある。僕は恐る恐る稲穂さんに話しかけた。
「あの、稲穂さん。ちょっといい?」
「何ですか?」
「この後、承芳さんのとこに用事があって。夕食はその後でもいい?」
みるみるうちに顔を赤くする稲穂さん。
「もう、関介さまなんて知りません!」
稲穂さんの怒鳴り声が、館の静かな庭園に響き渡った。驚いた人たちが、何人か顔を覗かせた。稲穂さんに叱られている僕を見て、みんなああ今日もかといったような顔をした。
稲穂さんは身を翻して、そのまま自室の方へ戻っていった。僕が引き留めるも、完全に無視されてしまった。これはかなり怒ってるな。後で部屋に戻ったら、即座に土下座しよう。それか、稲穂さん意外とチョロいから、甘い言葉でも囁けばいいか。いや、最近は慣れてきたのか、効果が薄くなっている気がする。部屋に着く前に、稲穂さんの機嫌を直すいい策を考えねば。
まあ取り合えずは、用事が先だ。辺りはさっきよりも暗くなってきた。多分起きてると思うけど。館に上がると、長い廊下の先の、承芳さんの部屋まで急いだ。
「何だこんな時間に、それもそんな慌てた様子で。ああそう言えば、稲穂殿が大層お怒りだったぞ」
「ううぅ、分かってますよ、さっき会いましたし。さいあく夕食抜きですよ」
僕が肩を落として言うと、承芳さんはへらっと笑った。布団に寝っ転がって、脇には沢山の書物が広げられている。寝間着姿という事は、仕事終わりにくつろいでいたのだろう。寝てしまう前でよかった。
「稲穂さんの事は置いといて、今は承芳さんに用があるんです。昼に話していた織田信長について、興味深い話を耳にしたんです」
「ああ、お前と瓜二つの顔の男から聞いたのか」
「そうなんですよ。彼は引き籠りのくせに、結構顔が広いらしく。どうやら織田信長は……ってええ! 今承芳さん何て言いました!?」
承芳さんはやかましいと言いたげに、怪訝そうに僕の顔を見つめた。僕の聞き間違いじゃ無ければ、確かに今承芳さんは、僕の顔と瓜二つの顔の男と言った。それはまさに関四郎さんの事だ。承芳さんにだけはばれないようにと、細心の注意を払って関四郎さんと会っていたはずなのに。
「何をそれほど驚いている? まさか、護衛もつけず外へ出る関介を、不審に思う人間が一人もいないと思っていたのか? 既に監視を向かわせ、顔の似てる男と会って話していることくらい聞いているさ」
「いつからですか?」
「んん、正確には覚えてないが、五年くらい前かな」
開いた口が塞がらない。五年前といえば、関四郎さんが僕のご先祖様と判明したり、何故か現代に飛ばされたりした年だ。小豆坂で織田と戦い、大敗を喫したのも同じころだ。そんな前から、既に承芳さんは、僕が関四郎さんと会っている事を知っていたなんて。
「何処まで知っているんですか?」
「いや、何も」
「何もって。彼が何者で、どうして隠れて会っていたのかとか気にならないんですか?」
思わず声が大きくなった。まるで承芳さんを責めるような口調になってしまい、慌ててすみませんと小さく謝った。承芳さんは、少し驚いたように目を丸くしたが、直ぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「まぁ、気にならないと言われれば嘘になるが。私は関介を信じている。その関介が私に隠しごとをしているんだ、何か言えない事情でもあるのだろう。であれば、私から関介に聞くことはしない。関介が、いつか言いたくなる日を待つさ」
そう言うと、いつものへらっとした笑顔を見せた。胸の中に生まれた大きな罪悪感が、心臓をキュッと締め付けた。
僕のたった一つの秘密。時渡りで未来から来たという事実。それを知っているのは、僕の先祖の関四郎さんだけだ。この秘密は、決して承芳さんに知られるわけにはいかない。知られてしまったら、きっと今みたいに承芳さんと関わる事は出来なくなるから。
出自も家族も明かさない僕を、承芳さんは信じていると言い切った。実は出会って最初の頃は、承芳さんは僕の事を疑っているから、僕の事を深く関わらないのだと思っていた。だけどそれは違うのだと、彼と出会った十年以上の歳月が教えてくれた。彼は馬鹿正直で、嘘みたいに純粋で、戦国大名とは思えないほど優しいんだ。
「別に、隠し事なんてありませんよ。たまたま顔が似てる彼と意気投合して、仲が良くなったんです」
「そうか、良い友を持ったな」
僕は笑顔で嘘を付いた。承芳さんは優しいから、僕も秘密を抱えたままでいられる。承芳さんも笑顔で頷き、それ以上詮索する事はしなかった。
僕は関四郎さんから聞いた話を、承芳さんに伝えた。美濃の斎藤道三という男が、信長をとても気に入っていて、跡取りにしたいと話していたことを。眉唾物の話だが、なんと承芳さんも同じ話を耳にしたことがあるらしい。もしかしたら、それすらも織田信秀が流した嘘の情報なのかもしれない。ただ一つ言えるのは、織田信長は侮ってはいけない人物であるという事だ。明日にでも、雪斎さんに今の話を伝えるらしい。今日は眠いからまた明日と、僕は静かに部屋を後にした。
廊下に出ると、庭園の池に大きな月が映っていた。うっとりと見惚れているうちに、自室に着いてしまった。恐る恐る障子を開けると、稲穂さんは奥の方を向いて座っていた。部屋の中は物音一つしなかった。背中に冷たい汗がつたった。
僕は彼女の前まで駆け寄ると、頭を畳につけて謝った。返事はない。そうっと顔を上げると、頬を膨らませる稲穂さんの顔があった。僕のお腹がきゅうっと鳴った。稲穂さんの口元が緩み、ほろっと優しい笑みを浮かべた。僕もつられてへらっと笑った。大きなおむすびを二人で縁側に腰掛けて食べた。仲直りは簡単だった。素直に謝る事が一番なのだ。
最近、岡部元信くんが道場に顔を出さなくなった。どうやら、不安定な三河情勢を押さえるため、お父さんの親綱さんと一緒に、尾張との国境沿いの砦に詰めているらしい。道場は少し静かになった。嬉しい反面、やっぱり寂しかった。最初の頃は喧嘩ばかりの喜介くんとも、今ではいい友だ。以前喜介くんから、武士は忙しそうですねと、不服そうに愚痴られた事があった。返事に窮した僕は、中途半端な笑顔を見せて、しょうがないよと誤魔化した。喜介くんは尚も納得していない様子だったが、僕は半ば強引に稽古を再開した。確かに現在の今川は三河侵攻の途中で、刻一刻と変化する三河情勢に苦労している。だがそんな現状、僕の稽古場には関係ない。僕らが出来るのは、稽古場で剣を振るだけだ。目の前の自分たちにできる事をするだけなのだ。
親綱さんが書いた現状を知らせる書状は、定期的に今川館へ届けられていた。一番最近届いた書状で、七日前の事だ。三河制圧に向けて、近くの反今川派のいくつかの城を攻め落としたらしい。三河の中には、織田派と今川派、そして松平派がいまだ犇めき合い、情勢が安定しない。その現状を打破するためにも、三河から織田を駆逐し、松平を完全に今川に服属させる必要がある。元信くんは、今川にとって重要な時期に、大変な役割を請け負ってしまったようだ。どうか大きな怪我無く、また道場に戻ってきて欲しい。
僕は元信くんから届けられた書状に目を落とした。そこには、戦に参加して手柄を立てた事、今川にとって重要な役割を担っている事を自慢する内容が書かれていた。中々会えない日々が続いても、書状を読むと、容易に彼の声で再生できた。急いた様子で、興奮気味にまくし立てる元信くんの顔が、無機質な紙の上に広がった。
「なんだ関介、元信がそれほど心配か?」
「そんな心配なんて。まぁ、親綱さんの邪魔をしてないか、少し心配ですけど」
承芳さんは、確かになと苦笑いを浮かべた。
「前線ですから、何があるか分かりません。敵の急襲を受けて、何てことも考えられますからね」
「おいおい、不吉な事を言うなよ。親綱殿もいる、心配いらないさ」
今川館にいる僕が出来るのは、彼らの無事を祈る事。そして、いつか訪れる戦に向けて、準備をする事だけだ。
親綱さんの書状が早馬によって届けられた。承芳さんと別れてすぐ、稽古場にでも足を運ぼうとしたところで、雪斎さんから集まるようにと言われた。
七日ぶりの親綱さんからの書状。雪斎さんが紐を解き、ゆっくりと文章に目を落とす。数分の沈黙の後、ほうとあごを摩りながら、不敵な笑みを浮かべた。雪斎さんから受け取った書状を、承芳さんと一緒になって読んだ。書状の内容に、僕は思わず顔を上げ、丁度同じタイミングで顔を上げた承芳さんと目が合った。
「織田信長か、中々の男やもしれないな」
雪斎さんが呟いた。書状に書かれていた内容は、大浜という場所で起きた織田勢との小競り合いについてだった。負傷者は多数出たが、不幸中の幸いか死亡者は出なかった。砦に火を付けられ、守っていた今川勢は一時混乱に陥ったのだと。ただ直ぐに騒ぎは収束し、砦が落とされるまでには至らなかった。小さな小競り合い程度、それほど驚く内容には思えなかった。とある男の名前が載っていなければだが。織田勢の大将は、なんとあの織田信長だった。
書状にはこう綴られていた。織田信長率いるは五百の軍勢。対する大浜の砦を守るのは二千を超える今川の軍勢。よく晴れて風の強い早朝の出来事だった。突如現れた織田の軍勢は、火を纏った矢を次々と放ち、櫓を燃やした。その勢いのまま、砦内に侵入し、次々と建物に火をつけ始めた。数で勝る今川勢の懸命な防衛により、大打撃まではいかなかったが、それでも砦の修繕にはひと月を要する。幸い死者は出なかったが、今川の動揺は凄まじく、砦を捨てて逃げようと意見する者まで現れ始めた。現在動揺は収まり、砦の修繕を行っている。それにしても、織田信長の攻撃はすさまじく、またその指揮も大したものだった。戦況が不利と見るや、今川が反撃をする間もなく、すぐさま軍勢を引き返し名古屋へ帰っていった。被害に遭ったのは、櫓一基。米蔵と武器の保管庫だった。信長は的確に砦の重要な箇所を破壊したのだった。書状の締めには、その狡猾で鋭い軍略は、父である信秀に勝るとも劣らないと記されていた。
親綱さんの書状を読むと、その当時の光景がありありと目に浮かんだ。燃え盛る砦の中を駆け回る織田信長、彼の高笑いの声までもが聞こえる気がする。
「織田信長か。まだ若く、これからもっと伸びるぞ。戦略の才は、承芳などとは比べ物にならないだろう。まともに戦えば、十倍の兵数すらも跳ね返されるやもしれぬな」
そう言って、雪斎さんは大口を開けて笑った。文句言いたげな目で雪斎さんを見つめた承芳さんは、僕の方を振り返りぷくっと頬を膨らませた。僕は思わず、ぷっと噴き出してしまった。承芳さんの頬がさらに膨らむ。
「関介なんて昔、兄上に襲われた時漏らしたくせに」
承芳さんがボソッと言った。あの日の嫌な感触を思い出し、かあっと顔が熱くなる。
「いっ、いつの話をしてるんですか!」
「それだけじゃないぞ、前に尾張で悪党に襲われた時も」
「もう、その話はいいでしょ!」
承芳さんの言葉を遮るように叫んだ。承芳さんはしてやったりという顔で笑った。今度は僕が頬を膨らませて、ジトっとした視線を向けた。隣で雪斎さんがため息をついた。
織田信長が、油断ならない人物から、今川にとって最大の脅威へと変わった。うつけとは、常識しらずの事。それは、常識に囚われないとも考えられる。戦国の常識内では測れない織田信長という男。三河侵攻は、一筋縄ではいかないのかもしれない。




