川越夜戦
早馬が風をきる。小田原を出た使者は、急いで河越城へと向かった。懐に忍ばせた書状は今やどんな宝物よりも貴重で、北条の命運を分ける重要な鍵だった。何とか振り落とされないように、汗で滑る手綱をぐっと握った。
1546年 4月
北条は現在、建国以来最大の危機に直面していた。
河東を巡る戦は、その全ての地を今川に返還することで終結となった。結局北条にとっては多くの被害を出しながら、領地を減らした手痛い負け戦となってしまった。そればかりか、北条の主戦力が何か月も河東に注力したことで、がら空きとなった関東の領地へ上杉や足利が攻め込んできた。まさに前門の虎後門の狼、四面楚歌の状態だった。
小田原城の一室で、一人の青年が頭を抱え思案していた。口の隙間から苦しそうなうめき声が漏れる。彼の目の前で、頭を丸め袈裟を身に纏った僧が温かな目で見つめていた。
「なあ幻庵、私はどこで間違えた。どうすればこの難局を。私には、もうどうすればよいか分からぬ」
「はははっ、大いに考えるがよい氏康よ。其方の知恵があれば、この程度の局面も造作でもないだろう」
泣きそうな情けない顔をする氏康の問いに、幻庵は大きな口を開けて笑って返した。ただまともな返事が返ってくると微塵も期待していなかった氏康は、小さくため息を溢すだけで、特に責める事はしなかった。
幻庵は北条早雲の息子、氏綱の弟で、二代にわたって長年北条に尽くしてきた。さきの河東を巡る争いでも、第一線で戦ってくれた。三代目当主となった氏康であっても、頭が上がらない存在だった。
「河越城は何とか持ちこたえているが、それももう限界だろう。河越が落ちれば、武蔵への支配も弱まり、再び上杉との戦乱の日々が訪れる。父上の果たした小田原の平穏も、私のせいで無に帰すというのか」
力なく首を垂れ、悲壮感の漂う目で畳を見つめた。彼の瞳にはくすんだ黒色が映っていた。
弱弱しい氏康を目の前に、幻庵は深々とため息を溢した。氏康が顔を上げる。幻庵の表情には、柔らかな笑みが浮かんでいた。氏康は面食らったように、目をパチパチとさせ幻庵の顔をじっと見つめた。幻庵はゆっくりと口を開いた。
「何故河越城が、今もなお上杉の猛攻を耐え忍んでいると思う。何故かような情けない男を、私は見限らないのだと思う」
「分からぬ」
氏康は自信なさげに首を横に振った。それでも幻庵は責めるような表情をせず、静かに威厳ある声で続けた。
「皆がお前の事を愛し、ついて行きたいと思うからだ。それは偉大な父氏綱であっても持ちえなかった、お前の最大の武器だ」
幻庵はボソッと、それが唯一の武器かもしれんがなと笑った。氏康は目を見開き、視線を自分の両手に向けた。手のひらに広がっているのは、家臣たちの顔、民草の笑顔だった。氏綱が病床で言った言葉を思い出す。
”お前はどの様な治政を目指す? 恐怖か、人徳か、それともそれら全てを凌駕するほどの圧倒的な何かか?”
氏康は顔を上げその場に立ち上がった。確かな答えは出ていない。だが駆り立てる衝動が、氏康の瞳に明るい光を宿した。それは鋭い銀色ではなく、柔らかな光だった。
「早雲様のような人徳は無く、まして父上のように恐怖で支配する事も私には出来ぬ。私は先代当主たちと違い凡将だから。それならば、私は家臣から民草まで全ての人を照らす灯火でありたい」
幻庵に視線を向けた氏康の表情は、さっきまでと違い凛々しくさっぱりとしていた。そして何故か、氏康の脳裏に二人の男の顔が浮かんだ。今川義元、そして常にその隣に立つ関介だった。氏康は直感した。あの二人が、恐怖も人徳も全てを凌駕する、圧倒的な何かを持っているのだと。氏康はどうしようもなく込み上げる興奮を抑えられなかった。口元が緩み、つい小さく笑い声が漏れた。
氏康の両の瞳を見て幻庵はふっと笑った。小さく強い目になったと呟いた。
「幻庵、河越城へ向かうぞ。綱成たちが私を待っている。それに先立って、文の方を届けねば」
「それなら既に早馬が向かっておる」
氏康は一瞬圧倒されたように目を大きく開いて、直ぐに破顔した。
「流石は幻庵だ」
それくらい当然と言わんばかりに鼻を鳴らして胸を張った。
次の日。北条氏康を大将とする約八千の兵が、河越城へ向けて行軍を始めた。氏康の呼びかけに、家臣たちは奮起し、民草も我先にと武具を身に纏った。行軍は高い士気を維持したまま武蔵国へ入り、河越城の近くに布陣した。
遠くに見える河越の城を心配そうに見つめながら、氏康は視線を向けずに幻庵に尋ねた。
「さて幻庵、上杉と足利連合軍の兵力はどれくらいだ?」
「ああ合わせて八万だ」
今度はしっかりと幻庵の顔を見て尋ねる。
「兵力は、」
「八万だ」
目をパチパチとさせ再び河越城の方角を見る。そうかと小さく呟いた氏康は、へらっと表情を緩めた。周りの家臣たちは、氏康の顔を怪訝そうにじろじろと見た。
「氏康様、もしや敵前で怖気づいたとでも言うのですか?」
重臣の一人、多目元忠が冗談っぽく言った。軽く馬鹿にされた氏康だったが、気に障った様子もなく笑いながら手をひらひらと振って答えた。
「いやあ、その綱成のやつ、僅か三千の兵で、よく八万の敵を前に籠城しているなと思って。私だったら、今頃とっくに逃げ帰っているだろうな」
氏康がそう答えた瞬間、陣幕の中がどっと沸いた。元忠は顔を手で覆い豪快に笑った。幻庵は額に手を当て、呆れたように笑い、お前らしいなと呟いた。
家臣たちの笑い声を聞きつけた兵たちが、陣幕の外からぞろぞろと顔を覗かせ始めた。中には武士ではなく、農民の身分の者もいた。普通なら大名に顔を合わせられる身分などではなく、無礼な行いがあればその場で切り捨てられてもおかしくはなかった。
「おいおい見ろよみんな! 氏康様が怖気づいてるぞ!」
「逃げる時はわしらを置いてかないで下さいよ!」
農兵たちが口々に冗談を飛ばすと、それにつられて色々なとこから笑い声が上がった。武士も農民も同じように笑っている。笑い声の中心にいる氏康は嬉しそうに、どこかくすぐったそうに笑った。
兵の士気は高い。また日頃から鍛え上げられた関東武者は、野戦でも無類の強さを発揮し、幾度となる戦で活躍してきた。だがどれほど強く研ぎ澄まされた軍団であっても、数の暴力の前には屈するしかない。氏康の兵と籠城する綱成の兵数を合わせても一万程度。対して上杉足利連合軍の兵数は八万と遠く及ばない。
「はぁ、幻庵。この兵力差を埋めるにはどうする。まさか正面から打って出る訳にもいかぬし」
「ふむぅ、そうだな。では、ここは一度これをやらぬか?」
そう幻庵が取り出したのは、碁盤と無数の碁石だった。他の家臣たちはポカンと幻庵の顔を見た。氏康はそんな幻庵の奇行に慣れてしまったのか、当たり前のように碁盤の正面に座った。
「幻庵と碁を嗜むのも久しぶりだな。上達した私の腕を見せてやろう」
氏康は黒い石を盤上に置くと、幻庵の次の手を待った。むぅと小さく唸った幻庵は、片手いっぱいに握った白い石を盤上に叩きつけた。当然一つしかない黒い石は、無数の白い石に囲まれた。
この奇行には、流石の氏康も呆れたように手を振った。
「幻庵、これでは私に勝ち目がないではないか」
幻庵はゆっくり碁盤に目を落とし、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「この盤上、何処かで見た局面に似てないか?」
氏康はハッと息を吸った。周りの家臣たちは、幻庵の言葉に気が付きほうと嘆息を溢した。
「囲まれたこの一つの黒い石が河越城。それを囲む上杉と足利。今の我らの置かれた状況ではないか」
「さて氏康よ。お前は次の一手で、私に、上杉足利にどのようにして勝つか?」
そう言い黒い石を氏康に手渡した。受け取った氏康は、親指と人差し指でつまんだ石をジッと見つめた。どんな答えを出すのか、周りの家臣たちは固唾を飲んで見守った。
ふっと息を吐いた氏康は、小さく首を振った。
「この盤面、誰が見ても私の勝ち目は無いな。幻庵もそう思うだろう」
「ああ、そうだな。これが碁ならば、確実に私の勝ちだろう」
「だが戦に必ずなど無い。何故なら、戦場にいるのは生きている人間なのだから。そうだろ、幻庵」
お互い顔を見合わせながら、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべる。周りの家臣たちは不思議そうな顔で、二人の様子を見守るだけだった。
「必勝に盲信する者は、足元にまで目が向かない。己が何処に立っているのかも知らずにな」
そう言いながら、幻庵は碁盤を慎重に持ち上げ、その足の一つを引き抜いた。手を離すと当然足を失った方に傾き、無数の白い石が碁盤から落ちていった。今度は氏康がそっと碁盤を持ち上げ、真っ新になった盤上に自分が持っていた黒い石を置いた。
「奴らは長い攻城戦で油断している事だろう。我らはその油断を討つ」
その日の夜明け、氏康挙兵の報を知った上杉軍が氏康を襲った。数で勝てないと悟った氏康は、これに向かい打つことなく安全な場所まで背を向けて逃げ帰った。これにより、上杉足利両軍の間に、氏康が怖気づいているのではと噂が立った。兵士たちの間に慢心が広がり始めた。それこそが氏康の狙いだった。
上杉軍のもとに、一枚の書状が届けられた。差出人は北条氏康だった。その内容を読み、大将の上杉朝定はほくそ笑んだ。河越城を明け渡す代わりに、城内に残る人を助命して欲しいという内容だった。朝定はこれを即座に断った。戦意の低い氏康の兵など怖くなく、どうせこのまま囲い続ければいずれ音を上げるだろう。そんな風に軽く考えていた。
「そろそろか。奴らめ、まさか夜の内に攻めて来るとは思いまい」
幻庵は不敵な笑みを浮かべて言った。氏康がそうだなと隣で呟いた。彼は戦の直前だと言うのに、甲冑を脱ぎ身軽な格好だ。それどころか、他の家臣から兵士たちも皆甲冑を脱いでいた。そして肩に白い布を全員が巻きつけていた。
「夜の闇に紛れて敵を討つ。そして白い布で同士討ちを防ぐか。よく考えたな、氏康よ」
そう言って笑いかける幻庵に、氏康は少し照れくさそうにはにかんだ。
氏康が立ち上がると、皆は一斉に膝をつき頭を下げた。幻庵ものそのそと後に続いた。皆が氏康の言葉を待っていた。
氏康は目を閉じた。心の中の、もう一人の自分と対峙する。目の前の自分の瞳が銀色に光った。
「今のお前じゃ、上杉には勝てない。私の力が必要なはずだ。この銀色の目が」
「そうだな。私などより、お前の方がよほど優秀だ。父上も、私ではなくお前の力を欲していた」
「そうだろう? ならば早くお前は消えろ」
「だが、家臣たちは、民草は、私を欲している。お前ではなく私を」
「何故そう言い切れる」
「この戦が終われば分かるさ。だがその時には、お前は消えているがな。さらばだ、もう一人の私」
皆の視線が氏康に集まる。彼は目を閉じたまま立ち尽くしていた。しびれを切らした幻庵が声を掛けようとした瞬間、カッと目が見開かれた。
「皆待たせたな。これより、上杉足利の軍へ突撃する。肩の白い布が目印だ。皆なら必ずや勝てる、私はそう信じてる。行こう!」
「おう!」
兵士たちの野太い声が陣内にこだました。
その夜、上杉足利軍に、氏康率いる八千の兵が奇襲をかけた。それに呼応する形で、立て籠もっていた綱成率いる三千の兵が突撃した。油断しきっていた両軍は、八万もの大軍を率いながら、僅か一万の兵を前に成す術なく敗走した。
この戦で上杉朝定は戦死、これにより扇谷上杉家は滅亡。上杉憲正は命からがら逃げ延びたものの、山内上杉家はその後衰退の一途を辿る事となる。足利晴氏も何とか生き延びたが、古賀公方の力は急速に衰えていった。
八万もの大軍を、僅か一万の兵で打ち破ったこの戦は、後に川越夜戦として語り継がれることとなる。この戦に勝利した北条氏康は、関東の支配を進めていく事となった。
戦後の河越城にて、氏康と綱成は久しぶりの再会を果たした。綱成は手を目の前に差し出し握手を求めるも、氏康はそれを無視して綱成の胸の中に飛び込み、両腕を背中に回し抱きしめた。やめろと綱成が引き剥がそうとするも、氏康の力が強くびくともしない。綱成は大きなため息を溢し、結局諦めることにした。
「綱成、よかった。お前が無事で、本当によかった」
「ふんっ、上杉足利ごとき、お前の力を借りなくても勝てたっての。だがまぁ、凡将のお前にしてはよくやったんじゃないか」
綱成が言うと、目を赤くした氏康はにかっとはにかんだ。ふと綱成が氏康の瞳を見て呟いた。
「氏康、その目」
「あいつは消えたよ。きっと父上の幻影を追いかけていたんだろう。だが私には、父のように強くはなれそうにない。私は私らしく、家臣を、民草を豊かにして見せるさ」
「まぁ、その方がお前らしいや。それに、今のお前といた方が随分と愉しそうだ」
「私も、これからずっと綱成と一緒にいたい。綱成が私の事を信じてくれている限り」
満開となった桜の木の下で、お互い顔を見合わせ朗らかに笑った。
二人が守った河越の地に、子供たちの笑い声が響いた。青空の下に、そっと木の芽風が吹いた。
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