第二次河東の乱 ③
緒戦は今川が圧倒的な優勢のまま進み、やがて膠着状態を迎えた。このまま北条を倒せるのではと思ったが、雪斎さんいわく、勝っている時が一番危険であり、また深追いは余計な被害を出しかねないのだと。ここは一度体制を立て直すのが最善の策というわけで、近くの見晴らしの良い丘で夜営する事となった。夜の帳が下りたにも関わらず、戦の興奮冷めやらぬと言った様子で、夜営地は兵士たちの喧騒に包まれていた。夜が明けたら一番に攻め上がるとみな息巻いてる。
まだはっきりとした情報ではないが、今回の戦におけるお互いの被害は、戦死者が今川三十六名、北条が七十二名だそうだ。負傷者を含めるともっと増えるだろう。前線を破り敵本陣の目前まで攻め入る事に成功したが、大きな打撃を与えるまではいかなかった。流石は関東で一番の大名だ。それでも、これだけの人の命が、一度の衝突で簡単に消えてしまう。最後は紙の上の数字になってしまう。胸に込み上げるこの気持ちの悪い感情だけは、戦国時代でどれだけ生きても慣れそうには無かった。
夜営の端っこで簡素な寝床に腰掛けていると、僕に気が付いた承芳さんが、いつものようにへらっと笑顔を浮かべ近寄って来た。
「関介、ほれ水だぞ。顔色が優れないようだが、気分が悪いなら少し寝てもいいんだぞ」
「承芳さん、ありがとうございます。やっぱりまだ戦には慣れなくて。何もしてないのに、少し疲れちゃいました」
そうかと、承芳さんは僕の隣に腰掛けた。二人でワイワイと騒ぐ兵士たちを見つめた。瓢箪の蓋を開け口にする。中の水はほんのり甘い。色々と考えて疲れた頭には丁度良かった。
ちらっと承芳さんの顔を見ると、大きな口を開けて欠伸を隠そうともしなかった。呑気なものだと一瞬考えて、目が真っ赤に充血している事に気が付いて思い直した。承芳さんは当主として、僕には到底考えられない重圧と戦っているはずだ。疲れが溜まり、眠たくなるのも当然だろう。僕はただの旗持ちだから、承芳さんの抱える重圧を半分どころか、少しも代わってあげる事は出来ない。自分の情けなさに、唇を噛んだ。
「承芳さんの方こそ疲れてるんでしょ。少しで休んでおいた方がいいですよ、ほらここに横になって」
僕は自分の細い太ももを叩いた。一瞬ポカンとした承芳さんだが、ふっと息を吐くと柔らかな笑みを浮かべ、小さくありがとうと呟いた。
張り詰めていた気が緩んだのか、僕の太ももを枕にした承芳さん、直ぐにすうすうと寝息を立て始めた。承芳さんの柔らかい頬をぷにぷにと触る。昔から変わらないこの心地よい弾力がいいのだ。
ふと僕の名前を呼ばれた気がして顔を上げると、目の前に信繁さんが立っていた。僕の目線と会うくらいまで腰を下ろすと、ぐっすり寝てる承芳さんを見て優しい微笑みを浮かべた。
「ふふっ、関介殿の御膝の上で眠っているのですね。やはりお二人は大変仲がよろしいです。何処か主従を超えた、より深い関係に見えます」
「そう見えます?」
信繫さんは頷いた。善徳寺で承芳さんが言ってくれた”親友”という言葉を思い出し、くすぐったく感じた。
隣をポンポンと触れ、此処に座りなよ合図を送る。小さく頭を下げた信繫さんは、承芳さんを起こさないようにそっと座った。僕は昔を懐かしむようにぽつぽつと話した。
「出会ってから色々な事がありましたから。何だか承芳さんに仕えているというより、一緒に歩いてきたって感じです。と言っても、僕は振り回されてばっかりで、いつも後ろをついていくので必死でしたけど」
「共に歩むですか。素敵な関係ですね。私にはそのような人はいなかったので、少し羨ましいです」
確かに、当主とこんなに仲が良いというのは、普通ではありえないのかもしれない。時代劇でも、大名はふんぞり返って家臣に上から指示を飛ばしていた。承芳さんは決してふんぞり返ったりしない。ずっと僕の目線で接してくれる。
でも、そんな相手なら信繫さんにもいるじゃないか。とても身近で、僕も二人の関係を見て羨ましいと思ったほどだ。
「晴信くんがいるじゃないですか」
キョトンとした顔で僕の顔を見つめる信繫さん。いやそんな顔されても。
そういえばと、晴信くんの姿が無いことに今更ながら気が付いた。僕が尋ねると、ああと相好を崩して答えてくれた。
「兄上は、先ほど横になられて直ぐに寝てしまいました。兄上ったら、戦が始まってもずっと不安そうで。当主らしく構えて下さいと言うと、泣きそうな顔をするんですよ。ですが、何というか兄上らしいと思い、むしろ安心しました」
晴信くんの事を話している時の信繫さんの笑顔は、今までよりずっと幼く見えた。もしかしたら頼りないお兄さんの手前、しっかりとした弟を演じていたのかもしれない。
話に夢中になっている信繫さんの顔をジッと見る。思わずにやけてしまう。ようやく僕の視線に気が付いた信繫さんは、ギョッとしたように顔を引いた。
「信繫さんは、晴信くんの事が大好きなんだね」
「急に何を言うんですかぁ!」
信繫さんの顔がぼっと赤く染まり、慌てた様子で顔を背けた。首元まで赤くした信繫さんが途端に可愛らしく見えた。晴信くんの弟だから、僕より少なくとも三つ以上は下なのか。年齢よりもずっと大人びて見えたのは、やっぱり彼が頑張って背伸びしていたからなんだろう。
「信繫さんも素直になればいいのに。おりゃおりゃ」
「ちょっ、止めて下され関介殿。くすぐったい、あはははっ!」
わき腹をくすぐると、身をよじらせて大口を開いて笑い声を上げた。ついつい楽しくなって、僕はある事をすっかり忘れていた。
「お前たち、私の顔の上で随分楽しそうだな」
下を見ると、ジトっとした視線を向ける承芳さんと目が合った。承芳さんを膝枕していたのを忘れてた。僕が乾いた笑い声を上げると、ため息を溢しながらも勢いをつけて体を起こした。両手を挙げて伸びをする。さっきよりも疲れがとれているように見える。僕のおかげだ、後でお駄賃をせびろう。
「もっ、申し訳ありません義元殿!」
信繁さんは悲鳴に近い声で謝った。承芳さんにそんな慇懃な態度する必要ないよ。信繁さんの肩に手を置き大丈夫と励ますと、何が不服なのか承芳さんに頭をはたかれた。信繁さんは乾いた笑い声を上げた。
起きてしまった承芳さんを真ん中に、三人仲良く布団の上で横並びに座った。晴信くんの普段の様子や、僕と承芳さんの出会いの話など、他愛もない会話で盛り上がった。ただやはり話題の中心は、今まさに戦争中の北条へ自然と移っていった。
「ところで信繁殿は、北条氏康と直接会ったことがあるのだろう? 私たちも一度は戦中で相まみえたのだが、直接は会っていないのだ。どのような男だった?」
顎に手を置いて数秒固まった後、ううんと悩みながら口を開いた。
「氏康は二人います」
承芳さんと互いに顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げた。
氏康さんが二人いる。つまり兄弟、それとも双子。いや、たとえ血の繋がった片割れがいたとして、氏康が二人いたなんて言い方はしないだろう。もしかして信繁さんが見たのって、ドッペルゲンガー?
「待ってくれ信繁殿。氏康が二人いるとはどういう意味だ? 影武者か?」
「言葉足らずで申し訳ありません。言葉で十分に伝えられるか分からないのですが。私が初めて会った時の氏康は、少なくとも広大な北条の領地を治める当主には見えなかったです。どこか自身の無さそうで、分かりやすく言うと兄上の姿と重なりました」
うん、すごく分かりやすい。でも僕らと争って、今川の領地の大部分を奪った時の北条は、まさに軍神毘沙門天のように強かった。申し訳ないけど、あの晴信くんとは重ならない。承芳さんも釈然としない様子だ。僕らの様子を見て満足そうに頷いた信繫さんは、続けて言った。
「ですが、再び小田原へ赴いた際に対面した氏康は、まるで人が代わって見えたのです。私の心を全て見通すような鋭い目。今思い出しただけでも、全身が震えてしまいます。ただどうしても、初めに出会った時の氏康と重ならないのです。氏康が二人いると考えねば、説明できないのです」
信繁さんの言葉を聞いて、不気味な冷たい汗が背中につたう。僕らが今戦っている北条氏康とは何者なんだ。
僕らの不安など気にも留めない太陽が東の地平線から顔を出し始めた。辺りが少しずつ明るくなってきた頃、戦の準備が静かに速やかに進められた。北条の軍勢への追撃をするのだ。ここで打ち破り、逃げる北条を上杉や足利の軍勢と挟み込む。そうすれば、強大な北条といえど一溜りもないだろうと。
大方の予想よりも早く、北条は軍の態勢を整えていた。それからの戦いは五分だった。今まで経験してきた短期決着とは違い、薄く引き伸ばされたような戦が長く続いた。ただやはり、後方に上杉と足利を抱える北条よりも、武田と手を組む今川の方が有利だった。戦況は少しずつ確実に動いていた。じりじりと北条の軍勢を押し返し、伊豆の入り口付近に位置する長久保城を包囲するまでに至った。
だが気がつけば一か月近く戦を続けていた。気を張り詰め続けた一か月に、身も心もボロボロで限界は近かった。
1545年 10月
北条との戦は段々と落ち着いていき、膠着状態が続いていた。十月も中ごろ、武田さんから提案があった。このまま戦を続け、北条を打ち破った所で、次に領地の接する上杉、足利と争うだけだと。それならば、北条と今一度講和を結び、金輪際戦をしないと取り決めることで、東の憂いを断ち西の織田に注力する事が出来るのではとのことだった。講和の条件は、現在今川軍が包囲している長久保城の開城、引き渡し。そして前の戦で奪われた領地の返還だった。
この提案に、何を今更と雪斎さんは激昂していた。だがそれで戦争が終わるのならばと、家臣たちの中で武田さんからの提案に反対する者はいなかった。もちろん僕も承芳さんもその中の一人だった。
講和に当たって三方の当主が直接赴き、書面に印をする事が決まった。場所は以前に武田さんと合流した善徳寺だ。雪斎さんは行かないらしい。なんでも、行けば晴信くんと氏康さんをその場で切り殺しかねないと。取り合えず、めちゃくちゃ怒ってることは分かった。勿論そんな人を連れていくわけにはいかない。承芳さんが一人で行くのかと思っていたところ、一緒に行くぞと強引に誘われてしまった。あまり気乗りはしなかったが、承芳さんの誘いを無下にする事は出来ない。
出立の直前、承芳さんと雪斎さんが何やら言葉を交わしていた。何を話しているか聞こえず、承芳さんに聞いてもはぐらかすだけだった。釈然としない気持ちのまま、従者を引き連れ善徳寺へと馬を走らせた。
前に信繁さんとの会話を思い出す。氏康さんは二人いる。その言葉がずっと心の中に引っかかっていた。これからその張本人に会いに行くのだ。僕らの前に現れる氏康さんは、一体どんな人なんだろうか。
「少し早く着きすぎてしまったようだな。どうする、蹴鞠でもするか?」
「馬鹿言ってないで、静かに待ってましょうよ」
ぷくっと頬を膨らませ、何故か持ってきた蹴鞠を地面に置いた。
少し経って、晴信くんと信繁さんが到着した。久しぶりの再会で、僕が手を振ると晴信くんも笑顔で手を振り返した。四人で立ち話をしていたところ、遠くの方から声がかかった。
「遅くなってしまい、申し訳ありません! いや、他の手続きが、ってうわぁ!」
小走りで駆けよって来たのは氏康さんだった。手を振る氏康さんが、急にバランスを崩したかと思うと前のめりに盛大に転倒した。急いで駆け寄ると、額を小さく切ったようで、じんわりと血が滲んでいた。懐から長めの布を取り出すと、おでこをぐるっと巻いて後頭部で結んだ。顔を上げた氏康さんは、かたじけないと照れくさそうに笑った。端正な顔立ちで、見たところ利発そうな印象を持った。そして気の抜けたような柔らかな笑顔は、どことなく晴信くんと重なった。信繫さんの言う通りだった。
氏康さんの手当てをしている僕の背中で、承芳さんと晴信くんがコソコソと話している。
「晴信殿。氏康殿って、何か思ってたより」
「ええ、どんくさいですね」
聞こえてるよ。特に晴信くんは人の事言えないよ。
すくっと立ち上がった氏康さんは、改めて深々と頭を下げて言った。
「北条家が当主、北条氏康にございます。信繁殿とは直接会った事がありますが、他の御三方は初めてですね」
軽い口調で話す氏康さんに、承芳さんは拍子抜けしような顔をしている。膠着状態とはいえ、北条とはまだ戦争中だ。ただ今の氏康さんからは、敵を前にするような緊張感を感じない。少なくとも、全身を見通すような鋭い目ではない。
氏康さんは、優しい口調のまま続けた。
「河東を巡って二度も干戈を交え、互いに多くの犠牲が出ました。ですが、過去の遺恨を全て乗り越えた先に、互いの目指す平穏があると私は思います。義元殿さえよければ、北条はすぐにでも講和を飲む準備は出来ております。いかがですか、義元殿?」
口調は優しいのに、何処か有無を言わせない圧がある。両腕にビリビリと緊張が走り、鳥肌がせり上がって来るの感じる。ほんの少し、氏康さんの内側が見えた気がした。どんくさいなんて嘘だ。穏やかさの中に、戦国の乱世を生き抜くための強かさを秘めている。これが北条家当主、北条氏康か。
「氏康殿のお気持ち、しかと受け取りました。双方ともに、これ以上無駄な血を流すのは本意ではないはずです。その講和、今川を代表してこの義元が承諾いたします」
承芳さんの凛々しい横顔に目を見張った。さっきまでふざけているようにしか見えなかった承芳さんだけど、当主としてしっかり役割を果たしている。
と思ったのは一瞬だった。懐から一枚の書状を取り出すと、片方の口角を上げ狡猾そうな笑みを浮かべた。まるで雪斎さんが憑依したようだ。
「ただ一つ言い残したことがございまして。我が軍師、雪斎からの言伝です」
穏やかだった氏康さんの表情に雲がかかった。承芳さんは、雪斎さんの事をあえて軍師と呼んだ。何か秘めた意味を感じた。
「端的に申し上げますると、その講和を飲む気は毛頭御座いません」
僕は目を見開いて承芳さんの顔を見つめた。それは晴信くんも信繫さんも一緒だった。ただ氏康さんだけは、口元に不気味な笑みを浮かべていた。
「以前のように、北条が講和を反故にし攻めて来るやもしれぬ。また先の戦で消極的に映った武田が、北条と手を組み今川と敵対するやもしれぬ。そのような疑念がある以上、今川が講和を飲む訳にはいきませぬ」
「ばっ、馬鹿を申さないで下さい義元殿! 我が武田が消極的など断じてございません! それは不当な言いがかりですよ!」
信繫さんが声を荒げて言った。これに関しては僕も同じ気分だ。毎度の事で慣れていたと思っていたが、今回ばかりは雪斎さんの意図が読めなさすぎる。だが承芳さんは特に気にする素振り見せず、涼しい顔で言葉を続けた。
「ただ私には、講和を断る権限が御座いません。そこの阿呆な当主は恐らく講和を飲む事でしょう。残念ではございますが、それが今川の総意であり、それが平穏への唯一の道筋であります。以上が雪斎からの言伝です。ということで」
そう言うと、承芳さんは手元の書状を真っ二つに破り地面へ捨てた。僕らが呆然と見守る中、氏康さんだけが愉快そうに笑っていた。その瞳には、まるで弾丸のような危険な銀色の光を宿していた。背筋に悪寒が走った。これがもう一人の氏康さんか。
氏康さんが一歩前に出て、承芳さんと対面する。二人の目の間に、見えない火花が散った。
「それは北条への牽制と捉えてもよろしいですか?」
「お好きなように」
北条さんはふっと小さく笑うと、いつの間にかさっきまでの穏やかな表情に戻っていた。
「真に楽しい会盟にございました。不思議な気持ちですが、いつかまたここで相まみえる気がします。ではこれにて」
踵を返し、氏康さんは帰っていった。そのすぐ後に、晴信くんと信繫さんも甲斐へ帰っていった。別れる直前、信繁さんに声を掛けると、笑顔で返してくれた。承芳さんの発言が気に障ったわけではないようで安心した。
ところでさっきの承芳さん、いつもと雰囲気が違った。どういう心境の変化だろうか。思い切って尋ねてみると、承芳さんはいつも通りのへらっとした笑顔を向けて言った。
「やはり慣れない事をするものでは無いな。少し疲れたよ。だが氏康を目の前にして、底知れぬ恐ろしさを感じた。無理にでも強く出なければ、奴に飲まれると直感したんだ。そして和尚もそれに気が付いていた。だからこんな書状を渡したんだ。あの日信繁殿が言ったろう、氏康は二人いると。今日この場に氏康は一人しかいなかった」
それはつまり。僕は目を大きく開いた。能ある鷹は爪を隠すと言うけれど、氏康さんが一瞬だけ見せた鋭い銀色の瞳。今日穏やかそうに見えた氏康さんは、その内に鋭いかぎ爪を隠していたんだ。
この一月後、北条と正式な講和が締結された。奪われた地は全て今川に返上され、これにて万事解決に見えた。だけどあの日の氏康さんの瞳が、脳裏にくっついて離れてくれない。僕ら底のしれない強大な敵と手を結んでしまったのかもしれない。
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