第二次河東の乱 ②
1545年 8月 小田原
小田原城の自室にて、北条氏康は届いた書状を片っ端から燃やしていた。全ては武田晴信からの書状で、内容はどれも今川の利となる講和を結んで欲しいというものばかりであった。葉月に入って書状の量は増えていた。
氏康は苛立っていた。後方の憂いを断つために武田と接近し、今川に悟られぬよう同盟を結んだはずだった。にもかかわらず、いざ今川との戦が近付いた途端、武田は北条ではなく今川の方へ擦り寄っていった。その上武田からの連日届く講和に関する書状。血走った銀色の瞳で書状に目を通す氏康の怒り具合は、亡き父親である氏綱を彷彿とさせるほどのものだった。
そして今川との戦に向け、小田原城を発つ直前に届けられた書状を見て、氏康の瞳がギラっと光った。
「これが最後の文となります。我ら武田は今川にお味方いたす事と相成りました。北条と干戈を交える事は避けたかったのですが、今川より奪った地を返さないとするならば致し方ありません。では戦場にて相まみえる事としましょう」
書状の末尾には、達筆で武田信繁と書いてあった。成るほどなと氏康は小さく笑った。近くにいた兵の一人が氏康の横顔を見た瞬間、ヒッと悲鳴を上げた。
「北条を散々こけにしおって。面白い、武田ごとき今川諸共に滅ぼしてくれる。戦場で楽しみにしておくがいいさ」
銀色の瞳が鋭く光った。城門に集まった家臣たちは、恐怖のあまり一言も喋らず固まっていた。長い沈黙の中心で、氏康は一点を見つめたまま、じっとその場に立ち尽くした。皆が氏康の次の動きを、恐る恐る見つめていた。
かっと目を見開いた氏康は、書状を握りつぶすと、地面に投げ捨てぐしゃぐしゃに踏みつけた。
「行くぞ! 今川と武田を滅ぼす!」
氏康の声に呼応して、家臣たちの咆哮が響き渡った。猛々しい北条家臣団であっても、今の氏康の鬼気迫る表情を前に、声を上げて鼓舞せずには、この恐怖からは逃れられなかった。まさに畏怖の力で兵士を従えていた、かつての氏綱のように。燃えるような行軍が今川の領地を目指した。北条と今川の戦は直ぐそこに迫っていた。
夜が明けたばかりでまだ柔らかな日が差し込める善徳寺にて、今川と武田の両軍は出発に向けて準備を始めていた。僕の目の下にはうっすらとクマができていた。隣で大欠伸をする承芳さんはなんて呑気なんだと思っていたが、僕と同じようにクマができていることに気が付き、少しだけ見直した。雪斎さんは、折角だからと本堂にお経をあげにいった。小さく漏れ聞こえるお経の声を聞いて、雪斎さんがお坊さんである事を今更ながら思い出した。こんな狡猾でずる賢いお坊さんがいていいのか。仏様もびっくりなはずだ。
「あう、遂に北条と戦かぁ。本当に勝てるのかぁ」
「何を言ってるのですか兄上。当主である兄上がそんなだから、家臣たちが纏まらないのです。もっと堂々としてください」
「ううぅ、そうだがぁ」
オドオドする晴信くんを厳しい言葉で諫める信繁さん。晴信くんがごにょごにょと返事すると、信繁さんは頭を抱えて大きなため息を溢した。確かに信繁さんの言う通り、晴信くんには威厳もないしいつも不安そうだ。だけど、僕はそんな晴信くんだから当主ができるのだと思うし、だからこそ信繁さんも晴信くんの事を信頼しているのだと思う。少し厳しいけど彼の言動には、晴信くんへの尊敬の気持ちが見える。何だかんだ仲良しの兄弟だ。
僕には兄弟がいなかったから、二人の関係が少しだけ羨ましく見える。一番近くにいて、お互い気心の知れた相手。ちらっと承芳さんを見る。承芳さんとは当主とその家来という関係を超えた、もっと深い仲になれていると僕は勝手に思っているのだけど、それでも兄弟関係とは異なると思う。とてもおこがましい考えだとは分かっているけど、僕が承芳さんの弟だったらいいなと、晴信くんたちを見てやっぱり思わずにはいられなかった。
僕はそっと承芳さんに近寄ると、彼の上衣の袖をキュッと掴み小さく呟いた。
「僕すごい心配です。本当に北条に勝てるのか」
振り返った承芳さんは、僕の弱弱しく泣きそうな声に、驚いたように一瞬目を大きくした。優しく肩を寄せた。まるで泣き虫な弟が、兄に助けを求めるみたいに。なんて狡くて、卑怯なんだろう。こんな事をしても兄弟になんてなれないのに、少しだけでも味わいたいと思ってしまうなんて。優しい承芳さんなら、僕を弟のように甘やかしてくれるだろう。
承芳さんの柔らかい手のひらが僕の髪に触れた。心の中がぽっと温まる。春の木漏れ日に当たっているようだ。
「関介、お前」
さあ承芳さんは、どんな言葉で僕を慰めてくれるのだろう。期待に膨らんだ空っぽの心臓がドクドクと高鳴る。
「まさか怖気づいているのか? ったく関介は本当に怖がりだな。まさかちびってないよなって、うわっ、やっぱ少し湿ってるではないか」
頭をくしゃくしゃにした承芳さんは、無遠慮にも僕の股間をわさわさと触ってきた。それは、お寺の境内だから当たり前なのだけど、墓地の近くで夜営するもんだから、一人で厠に行くことが出来なくて。やっと承芳さんを誘えた時には我慢の限界で、ってそんな事は今どうでもいい。
承芳さんの腕を振り払い、僕は頬を膨らませて睨みつける。思っていた言葉と違う。もっと僕を心配して慰めてくれると思ったのに。僕の顔を見て、承芳さんはいつもみたいにへらっと笑った。
「もう承芳さん。慰めてくれるんじゃないんですか!」
僕の言葉に一瞬ポカンとした承芳さんは、直ぐに呆れたような顔をした。
「それだけ元気があれば、私の慰めなどいらないだろ」
「うぐっ、そうですけど。何かこう違くて。ほら、晴信くん兄弟は仲がよさそうだなぁと」
自分から、弟みたいに慰めて欲しかったなんて、恥ずかしくて言えない。ぼくがしどろもどろになりながらも伝えると、承芳さんはさらに呆れたようにため息を溢した。
「関介の言わんとしている事は分かっている。近寄ってきた時、いつもと様子が違うと思ったからな」
承芳さんはそれだけ言うと、ふっと哀愁を漂わせながら笑った。
「幼いまま仏門に入った私に、気心の知れた兄弟などいなかった。駿府に戻ってからも、兄上と権力争いだ。悪いが関介、私に兄弟を求めても、お前の求める兄にはなってやれないんだ」
「そうですよね、兄弟といっても仲が良いばかりじゃない。時に家のため、権力のために争わなければいけない。僕も知っているはずなのに。すみませんでした」
かつて家督を継ぐために争った、玄広恵探さんの事を思い出した。承芳さんはそこで沢山傷ついたのに。僕は自分の欲のために、承芳さんの傷を抉るような真似をしてしまった。それもこんな大事な戦の前に。僕は頭を下げて謝った。
「顔を上げろ関介」
おずおずと顔を上げると、頬に強い衝撃と、次に鋭い痛みが走った。バチッと乾いた音が境内に響く。驚いた周りの人たちの視線が集まる。
承芳さんと目が合った。さっき見えた寂しそうな表情は消え、いつも通りのへらっとした笑顔を向けていた。承芳さんは、ポカンとする僕の頬を楽しそうにぐりぐりと揉みながら言った。
「なに湿気った顔しているんだ。その事なら、もう随分前に吹っ切れたよ。で、慰めて欲しいんだっけか? はぁ、仕方がないやつだなぁ」
僕の頭を優しく撫でた後、これでいいかと悪戯っぽい顔で笑みを浮かべた。周りからクスクスと笑い声が漏れ聞こえる。頬が熱く赤くなっていくのが分かる。承芳さんの腕を払うと、そんな照れなくてもと更に笑った。恥ずかしさを誤魔化すために、何か言い返そうと言葉を選んでいると、近くにいた武田兄弟が近寄ってきた。
「ふふっ、お二人は非常に仲が良いのですね」
信繁さんが笑いながら言った。その隣の晴信くんは、まるで兄弟のようですとはにかんだ。自分が兄弟ごっこをしようとしていたのが、途端に恥ずかしくなってきた。もう三十も近い自分が何をしているんだと自己嫌悪に陥り始めたころ、承芳さんが僕の肩を組んできた。
「ふふふっ、私たちは友、いや親友だ。なっ、関介」
心臓が高鳴る。照れくさくて承芳さんの顔が見れない。恥ずかしい、けどそれ以上に嬉しかった。もう兄弟とかどうでもいい。承芳さんにとって、僕は大切な人になれていたんだ。
「よしお前たち、準備は出来たな? そろそろ出立するぞ」
いつの間にかお経の声が止んでいて、本堂の入り口から雪斎さんが現れた。いつになく真剣な顔だ。さっきまでののほほんとしていた空気が塗り替えられた。さあ今から戦が始まる。気を引き締めよう。
「改めて、武田のお力添えに感謝いたす。相手は強敵北条です。手を取り合い、必ずや打ち勝ちましょう」
「はい雪斎殿、共に北条を倒しましょう」
雪斎さんと信繁さんが、がっちりと握手を交わした。こういう時は普通当主の晴信くんだと思うんだけど。雪斎さんは晴信くんに一瞥もくれることなく、さっさと別の方へ歩いていってしまった。少しだけ寂しそうな顔をする晴信くんが不憫に思い、僕が代わりに握手しておいた。一瞬びっくりしたように目を開いたけど、直ぐに満面の笑みで握り返してくれた。
みんなそれぞれの行軍の位置についた。雪斎さんが馬に乗り込む。それが無言の合図で、みんな一斉に馬の背中に飛び乗った。僕も遅れないように乗ろうと足を掛けると、滑らせてそのまま馬の背中に顔を打ち付けた。幸いな事に、馬が暴れることは無かったけど、周りの人の視線が痛い。承芳さんと喜介くんは爆笑してるし、他の門下生たちも笑うのを堪えている。僕は気を取り直し馬に跨った。
今川武田連合軍は、ゆっくりと着実に進んでいる。朝早い澄んだ空には、雲一つ浮かんでいなかった。どうやら雨の心配はなさそうだ。雨は行軍の足を取るだけじゃなく、心にも暗い影を落とす。ただ澄んだ空の下とはいえ、行軍の足取りは確実に重たくなっていた。肌を切り裂くような緊張感が漂い始めた。みんな感じているんだ、見えない北条軍の影が近寄ってきているのを。
唐突に行軍の足が止まった。どうやらここで陣を張るらしい。
「関介、これから戦で長くなる。共に厠に行くか?」
「ば、馬鹿にしないで下さいよ。それくらい一人で行けますよ」
僕を子ども扱いしやがって。まぁそれで夜は一人で行けと言われたら困るので、あまり強くは言えない。僕が一人で背の高い草木の中に入ろうとした時、承芳さんがボソッと呟いた。
「もし近くに伏兵がいたら大変だなぁ。しょんべんをしている間に殺されたとか、末代まで語られるだろうなぁ」
ピタッと足を止め、首だけ振り返る。
「承芳さんも一緒にどうです? 別に一人が怖いとかじゃないですけど」
そうかと、承芳さんはにかっと笑った。言った通り、別に一人が怖いわけでは無い。まあもしもの時のためだ。
さあ草木を割って進もうかとした瞬間、お腹を揺らすようなほら貝の音が陣中に響き渡った。この合図は、たしか進軍。つまり戦が始まる合図だ。
「行くぞ関介、しょんべんなどしてる場合ではない。前線がじきに衝突する。私たちはその後の戦況を考えねば」
後ろ襟を掴まれ、強引に引きづられるように陣へ戻されてしまった。あうぅ、トイレするタイミングを逃してしまった。これなら無理にでも一人で行けばよかった。
陣幕の中には、今川と武田両軍の家臣たちが顔を見合わせ、何やら話し込んでいた。僕はあくまで旗持ちなので、評定には参加しない。遠くから話を聞くだけだ。
少し時間を空けて、唐突に物見の兵士が陣幕を切り裂いて中へ入ってきた。
「先ほど我らの軍と北条の軍がぶつかりました! 兵数、兵力共に拮抗しており、前線では激しい戦闘が予想されます!」
ついに始まったか。以前の織田家との戦の嫌な記憶が思い出される。前線が崩れると、一瞬にして軍が壊滅した。戦の怖さをさまざまと見せつけられてしまった。前線のみんなを信じるしかない。
どれくらい時間が経っただろうか、陣幕の中に重たい沈黙が漂い始めた時、ゆっくり幕が開かれ一人の物見兵が顔を出した。たださっきと様子が違う。兵士の背中を見ると何本もの矢が突き刺さっており、彼の足元に血だまりが出来ていた。ガシャっと冷たい鉄の音を立て、兵士はその場に膝から崩れ落ちた。信繁さんが傍に駆け寄った。
「前線の様子はどうだった?」
「はぁはぁ、我らの軍は……激しい戦闘の末……北条の前線を破りました」
それだけ伝えると、兵士の体から力が抜けていった。信繫さんはそうかと小さく呟き、兵士の動かなくなった背中に手を乗せた。信繫さんは直ぐに踵を返し、机の前に戻った。倒れて動かなくなった兵士は、別の兵士が陣幕の外に運んでいった。無意識のうちに涙が零れた。彼にもきっと、故郷で帰りを待つ家族がいるはずだ。彼は立派に務めを果たし、この戦場で命を落とした。名前の載らない戦功を立て、彼は戦場に散ったんだ。涙を拭き取ると、僕は前を見据えた。
「この隙を逃すでない。北条の軍を徹底的に叩くのだ!」
雪斎さんの力強い声に、家臣たちが声を上げた。僕も自然と声が出た。
強い風が僕らの背中側から吹いた。青空の下で、僕らの旗が伸び伸びと揺らめいていた。
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