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弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
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道場破り

 1544年 10月


 幾重にも重なった若くて元気のよい声が、冷えた道場の床に反射した。少し前までは十五人だけだった門下生たちも、その二倍の三十まで増えた。以前まで同じくらいの年の子たちばかりだったが、元服したての十五歳と僕と十歳以上離れた子なんかも新しく参加するようになった。まだまだ幼さの残る顔で、ぶかぶかな稽古着に袖を通し、えいっえいっと掛け声を挙げている。実にかわいい。僕も将来小姓を付けていいなら、小さくてかわいい男の子を、ごほんっ、何でもない。

 冷えた風が通り抜ける道場の中は随分と寒い。ただ日の当たる廊下は、春先くらいポカポカとしていた。


 「母上、龍もあの中に混ざって稽古したいです」


 「まだ駄目。元服するまでは為和様が見ることになってるから」


 親子の微笑ましい光景を横目で見る。頬を膨らませた龍坊が、多恵さんの膝をポカポカ叩いている。多恵さんは少し困ったように微笑んだ。

 龍坊を稽古に参加させてあげたい気持ちもあるが、当主の嫡男となると皆も遠慮したり委縮したりして稽古にならなくなってしまう。とはいえ、以前為和さんと稽古する龍坊の様子を見せてもらったが、明らかに承芳さんよりも筋が良かった。龍坊がもっと大きくなったら、一緒に稽古する日が来るかもしれない。

 

 「兄さま、関介さま、それに皆さん! お弁当が出来ましたよ!」


 男だらけの暑苦しい空気を一掃する、仄かに土の匂いを乗せる秋風のような声が響いた。僕は反射的に声のする方へ振り返り、思わず頬がだらしなく緩んでしまった。

 風呂敷に包まれた重箱をまるで宝箱のように大事そうに両手で抱える稲穂さんが立っていた。両手の塞がれている中で、頑張って右手だけで小さく手を振る稲穂さん。健気ですごくかわいい。


 「よし、午前中の稽古はここまで。一旦お昼ご飯にしよう」


 僕の号令と共に、みんな力が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。僕の稽古にも慣れてきた喜介くんは、その場ににへたり込むことなく、額の汗を拭い僕のもとへ歩み寄って来た。どこかまだ余裕そうな表情だ。まあまだこの程度、おじいちゃんとの地獄の稽古に比べたらウォーミングアップにもならないけどね。


 「関介様、顔がだらしないですよ」


 そう言われて、自分が思っている以上ににやけている事に気が付いた。稲穂さんの姿を見て、つい油断しすぎてしまった。喜介くんのジトっとした視線から逃げるように、僕は重箱を抱える稲穂さんの元へ駆けた。


 「稲穂さん、そのお弁当どうしたの?」


 「皆さま汗を流して稽古に励んでおられます。稲穂にも何かできる事は無いかと思いまして。そうしたら寿桂尼様の勧めで、女中のお手伝いをしないかと」


 「えっ、でも畑仕事の方は」


 「その事でしたらお父様は、周りの助けがあるから当分は心配するなと言ってくださいました。それよりも、その、妻になったのなら夫と支え合って生きていきなさいと」


 段々と顔が赤く染まっていき、最後の方は雀の囀りのような声で床に向かって喋っていた。稲穂さんの言葉を聞いて、ぼっと顔が熱くなった。お互い何も話せず、もじもじと床とにらめっこしていると、後ろから喜介くんのわざとらしい咳払いの声が聞こえた。二人同時に肩をびくつかせ、顔を上げると稲穂さんの視線とぶつかった。数秒見つめ合った僕らは、ふっと息を吐いてお互いに相好を崩した。


 「ありがと、稲穂さんも頑張ってるんだね。僕も頑張るから。その、一緒に支え合っていこうね」


 「はいはい、夫婦で睦み会うのは夜の布団の上だけにしてください」


 喜介くんは呆れたように言うと、稲穂さんの腕から重箱を受け取り床に置いた。いつの間にか二人だけの世界に入ってしまっていた。気が付くと僕の背後には、弁当を受け取りに来た門下の子たちで行列ができていた。喜介くんのように呆れた様子の子や、囃し立てるようにニヤニヤと僕と稲穂さんの顔を交互に見る子もいた。稲穂さんは、恥ずかしそうに真っ赤な顔を両手で隠して僕の後ろに隠れてしまった。生意気なやつらめ。午後からの稽古はもっときつくしてやろうと心に決めた。

 お弁当を受け取ったみんなは、道場の床や庭先など思い思いの場所で食べていた。僕と稲穂さん、喜介くんは決まって僕の部屋で食べる事になっている。お弁当を配り終えた後、自室に向かおうとした時、何処からか多恵さんの甲高い声が聞こえた。いつもの龍坊を叱る声とは明らかに違う。庭の奥の方を見る。そこに多恵さんと龍坊、そして数人の人物が見えた。


 「関介様、あの者たちは何者でしょうか。まさか他国からの刺客でしょうか」


 「分からない。取り合えず僕が話を聞いて来るよ。喜介くんたちは、安全な処に隠れて。もしもの事があれば、僕の事はいいから直ぐに承芳さんに伝えるんだ」


 真剣な面持ちで頷いた喜介くんは、先ず稲穂さんを別の部屋へと避難させた。稲穂さんの心配そうな目とぶつかた。大丈夫だからと、僕は柔らかい笑みを浮かべて頷いた。稲穂さんも、少し硬い笑みを浮かべ奥の部屋へ下がっていった。後の事は喜介くんに任せよう。この道場で、一番の先輩さんだ。こういった時は、僕なんかよりも頼もしい。

 多恵さんは目の前の男に一切怯むことなく、怯えた龍坊を庇いながら睨みつけていた。僕がやって来たことに気づいた多恵さんは、険しい表情をふっと緩めた。

 従者と思われる三人の男たちの前にいる人が、一歩僕らの方へ歩み寄った。緊張感が一気に高まる。


 「驚かせてすまねえな。俺たちは何も危害を加える心算はない。この通りだ」


 その男は、脇に差していた刀を鞘ごと抜き、自らの足元に置いた。戦う気は無いという事か。男の年齢はどうだろう、僕らより一回り、二回り上といったところか。男の顔を見て直ぐ、頬にできた大きな傷跡が目に入った。あれは間違いなく刀の傷だ。男の逞しい体つき。刀を置く所作や立っている姿勢全てが洗練されていた。一目で直ぐに、この男が歴戦の猛者だという事が分かった。目の鋭さから他の人とは違う。

 羽織っているのは、野生動物の毛皮か。従者を引き連れて旅をしてたまたま此処に辿り着いてしまったのか、はたまた承芳さんに会うのが目的なのか。まだまだ警戒心を解く訳にはいかない。


 「あなた方は何者で、何故ここに来たのですか?」


 緊張で口の中が渇く。僕はなるべく冷静を保ったままそう尋ねた。


 「駿府へ来る前に、甲斐に寄って来てな。そこで妙な噂を耳にした。どうやら駿府には日の本一の剣豪がいると。その名は関介だと。お前そいつが何処にいるか知っているか?」


 男は顎を撫でながら乱暴に聞いてきた。額から汗がダラダラと滝のように流れて来た。最悪すぎる展開だ。いっそのこと、織田や北条の刺客であった方が良かったまである。関介さんなら、貴方の目の前にいますよ。まあこんなパッと見ただけでは、男か女かも分からない人が、日の本一の剣豪と呼ばれているなんて信じられないだろう。

 改めて男の全身を眺める。やっぱり嫌でも分かってしまう。この人の剣の腕が相当なものであることが。ここは何とか説得して、穏便に帰ってもらおう。


 「いやあ、関介なんて名前は聞いたことが無いですね。もしかしたら、既に駿府にはいないかもしれないですよ?」


 「そうか。なら邪魔をしたな。ただまあ、一度でもその関介とやらと手合わせをしてみたかった。じゃあな」


 後ろの方の人たちが、残念ですね師匠と話しかけたが、男がくるりと反転させ弟子に一瞥をくれるとシンと黙りこくった。すごい師匠だ。まるで僕のおじいちゃんみたい。まあこれで帰ってくれるならいいか。ほっと安堵の息をついたとき、多恵さんが僕に話しかけてきた。


 「貴方何を言っているの? 関介って貴方の事じゃない。どうしてそんな嘘を付くの?」


 空気がピシッと凍り付いた。体が石になってしまったように動かない。多恵さん、どうしてそんな最悪なタイミングで。

 帰ろうとしていた男が足を止め、身を翻して僕の方へ歩み寄って来た。やばい、怒らせたかな。後ろのお弟子さんたちは、嘘を付きやがってと言わんばかりの鋭い眼光を向けてくる。正直、目の前のお師匠さんより先に彼らに袋叩きにされそうな雰囲気だ。

 男は僕の顔をジッと見たまま何も口にしない。頭が痛くなるほどの重たい沈黙が数秒続いたのち、突然男がふっと笑った。


 「お前が剣士? ふっ、笑わせんな。お前みたいな女子のような者が、日の本一の剣豪なわけがないだろう」


 そうです、その通りです! だから今すぐにでも帰って下さい。そう言いかけたところで、僕の背後から走って来る足音が聞こえた。振り返ると、喜介くんが何故かすごく険しい表情で走って来た。嫌な予感が頭を巡る。


 「関介様を馬鹿にするな! この人は、確かに女子のような見た目で、中身も女子のような人ですが、剣の腕だけなら日の本誰にも負けません!」


 やっぱり、どうしてみんな余計な事を言うかなあ。男はほうと呟き、また僕の全身を舐めるように見回した。


 「お前が此処の師範なのは本当らしいな。面白い、日の本一と言われているお前の剣の腕を見てやるよ」


 最悪の流れになってしまった。多恵さんと喜介くんの空気の読めない一言のせいで、こんな強そうな人と手合わせをする事になってしまった。男がもう一歩僕の前に歩み寄る。動けない僕は、逃げる事も出来ずただ男の顔を見るだけで精いっぱいだった。


 「名乗るのが遅くなったな。俺の名は上泉信綱だ。さあ、直ぐにでも手合わせとしようぜ」


 僕は返事すら出来なかった。かといって首を横に振れば、その場で切り捨てされかねない。僕が何も反応でき手凪いでいると、喜介くんが後ろから肩を抱き、こんな人簡単に倒しちゃいましょうと。喜介くん、後で後悔するくらい稽古してやるからな。


 信綱さんが道場に上がると、喧騒が一瞬で止んだ。みんなにも分かるんだ。この人がどれだけの剣豪なのかが。分かってないのは喜介くんだけだ。


 「此処がお前の道場か。ふん、童を集めて遊技するには広すぎるな。まあ、それも今日までになりそうだがな」


 「ふんっ、関介様が本気を出せば、貴方なんて直ぐに勝てるんですから。ねっ、関介様」


 周りの子たちからの、心配や期待の視線が痛い。本当にこの人に勝てるのだろうか。ふと、信綱さんの後ろの障子から、稲穂さんが顔を出している事に気が付いた。心配そうに僕を見つめている。


 「関介、早く刀を持て」


 信綱さんが明らかに苛立った様子で急かしてきた。怒っている理由の半分以上は喜介くんのせいだろう。わかる、僕も若干苛ついてきたから。仕方がない、僕は意を決して竹刀を握り男の前に立った。竹刀を目の前で構える。すると何故か、信綱さんは怪訝そうに顔を歪ませた。


 「何をやってんだ、それは木刀だろうが。俺は真剣を持てと言ったんだ」


 真剣、真剣!? 本気で言っているのかこの人は。道場内の喧騒がより大きくなった。調子に乗っていた喜介くんも、目を丸くしている。嘘だろ、此処で殺し合いをしろってのか。


 「待って下さいよ! ここは道場ですよ、殺し合う場所じゃない!」


 「黙れ。何を怖気づいてんだお前。剣士同士の戦いは、どちらかが死ぬまでに決まってるだろ。持っていないなら、俺のを貸してやるよ。今までに百人以上を殺してきた刀だ」


 信綱さんは僕の前までゆっくり歩くと、そっと大事そうに刀を置いた。持つと金属の重厚感が手の中に広がった。だがこの重さは金属だけじゃない、命の重さだ。これは人を殺すための道具なんだ。

 信綱さんが刀を顔の前で構えた。その瞬間、彼の全身から研ぎ澄まされた剣士の風格を感じた。これは本当に殺される。遅れて僕も構えた。息が吸えない。刀が震えて、カタカタと音を立てた。


 「行くぞ!」


 信綱さんが駆けて来た。僕を殺すために刀を振り下ろした。死にたくない。ただそれだけの本能で、僕はすんでのところで刀を避けた。刀を振った風圧が鼻の先に触れた。信綱さんは次に刀を右に払った。後ろに重心を掛けたせいでこれ以上避けられないと悟り、彼の刀を自身の刀で受けた。ガキンッと、重たい金属の音が響く。感じた事の無い力だ。

 体勢を整えなきゃ。刀を弾き、僕は一歩後ろへ後退する。だが、歴戦の剣士がそんな隙を許すはずもなく、直ぐに距離を縮められた。


 「おらあ!」


 見えなかった。反射的に男の刀を受け止めた瞬間、僕の刀は宙を舞い、僕の後ろの床に刺さった。頭が真っ白になった。

 殺される。逃げ出したいのに、身体が思うように動かない。震えた足が絡まり、僕はその場に尻もちをついた。周りの光景も、音も何も感じない。ただ稲穂さんの悲鳴だけが鮮明に聴こえた。

 男はゆっくりと僕の前に歩み寄って来る。殺される。本当に僕は死ぬんだ。視界が涙で掠む。もう頭の中はパニック状態だった。僕はボロボロと泣きながら男に言った。


 「やめて……殺さないで……お願いします、殺さないで」


 男の刀が僕の股の前に刺さった。男の顔を見上げる。男の目は失望と軽蔑の色をしていた。


 「やめだ。剣士同士の戦いで命乞いをされたのは初めてだ。てめえは殺すにも値しない」


 それだけ吐き捨てると、男は突き刺した刀を鞘に納めた。弾かれた刀を回収すると、僕に一瞥をくれることなく道場を後にした。道場内に気まずい沈黙が流れた。

 誰かが僕の傍に駆け寄ってくる音が聞こえた。誰だろう。顔を上げると、瞳に涙を一杯に溜めた稲穂さんと目が合った。稲穂さんは僕の両手をがっちりと掴み、ウルウルとした目で言った。


 「関介様が無事でよかったです。本当によかったです」


 「関介様、大丈夫ですか。お怪我とかありませんか?」


 少し遅れて駆け付けた喜介くんは、膝をつき僕の顔を心配そうにのぞき込んだ。

 そこでようやく周りの喧騒が聞こえ始めた。僕は負けたんだ。それも圧倒的な力の前に一瞬で。あまりに一瞬の出来事過ぎて、悔しいとか、ああすれば勝てたかもとか思う暇もない。こんな負け方、おじいちゃん以外では初めてだ。緊張していた全身の力がすうっと抜けていく。ぶるっと肩が震えた。


 「その、僕は大丈夫だから。先にみんなを帰してあげてよ。僕がこんな状況で、稽古どころじゃないんだから」


 僕が言うと、喜介くんは苦笑混じりに辺りを見渡した。つられて僕も周りを見ると、門下生の子たちが膝をついて僕を取り囲んでいた。


 「私たちは、たとえ関介様が負けたとしても一生ついて行くと決めてますから!」

 「関介様は、なにがあっても私たちの師匠です!」


 僕を囲んでわいわいと盛り上がる門下生たち。僕は赤面して床を見つめる事しか出来なかった。

 

 「取り合えず関介様、自室に向かいましょう」


 立ちあがった稲穂さんが、右手をそっと差し出して言った。僕はその手を取る事が出来なかった。承芳さんとは違って、別に負けて拗ねてるわけじゃない。これには、とても口には出したくない理由があるのだ。


 「関介様?」


 稲穂さんが心配そうに尋ねる。喜介くんも、僕の様子にようやく異変を感じたようだ。稲穂さんを見上げ、僕はへへっと笑って言った。


 「実は、腰が抜けて立てないんだ。それと……」


 僕はもごもごと口籠りながら、虫の声のように囁いた。


 「その、お尻が冷たくて」


 ぶるっと背中が震えた。あっ、と稲穂さんが呟いた。道場内のざわつきが一瞬で静まり、何とも言えない気まずい空気に変わった。

 喜介くんをジトっと睨むと、ふいと目を逸らした。だから早くみんなを外に出してくれと頼んだんだ。無様に負けた後の仕打ちがこれってあんまりだ。床に広がる水溜りに、みんなの苦笑いする顔が映った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

読んで頂いただけで嬉しいです。

感想や、評価していただけるともっと嬉しいです。

続きを読んで頂ければ号泣します。

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