北条家の受難
1545年 7月
氏綱が死んだ後の北条は、転がるように苦境に陥っていた。いまだ関東において力を持ち続ける扇谷上杉、山内両家は、ここが勝機と見るや、長年の抗争状態から一転して手を組み始めた。それと時を同じくして、房総半島を支配していた里見家までもが牙をむいた。氏綱が築き上げた強固な家臣団と、豊かな領地を持ってしても、これらの窮地を脱するのは厳しい道のりだった。
北条家の本拠地、小田原城は悲壮感に覆われていた。御殿のとある一室から、青年の泣きそうな声と、それを揶揄う逞しい男の声が聞こえた。
「ううぅ、綱成ぇ。私はどうすればいいんだぁ。上杉は手を組んで、度々戦を仕掛けて来るし。房総の里見も、何やら企んでおる。まさに八方塞がりだぁ!」
「かっかっかっ! 北条滅亡の危機ってか?」
真っ白な顔で、何日も眠れていないのか充血した目で訴える氏康の姿を見て、綱成は楽しそうに豪快に笑った。この部屋には氏康と綱成の二人だけ。大勢の家臣の前では冷静に、気丈に振舞っていた氏康も、綱成の前だけは弱気な自分を曝け出せた。ただ他の家臣も、実は氏康が弱気な性格である事くらい気が付いていた。心が弱いながらも、気を張り詰めて政務に明け暮れる氏康を、陰ながら支えていたのだ。
「何がそれほど面白いのだ! 祖父である早雲様から代々受け継いできた小田原の地が奪われる瀬戸際にいるのだぞ!」
「ふあぁ~ それはまずいなぁ」
呑気に大欠伸を隠そうともしない綱成。これほど困っているのに、どうして助けてくれないんだと、頬を膨らませジトっとした視線を送った。視線に気が付いた綱成は、ああんとガンを飛ばした。氏康はひっと小さな悲鳴を上げ、不貞腐れたように顔を背けた。
「ああ、こんな時に父上が生きていたら」
「はっ、馬鹿かお前は。氏綱の爺さんが死に、お前が当主になったから、周りの大名が動き出したんだ。全ての原因はお前にあるんだよ」
挑発的な綱成の言葉に、氏康の表情が更に暗くなる。
「そんな事、私が一番わかっておる。分かってるが、どうしようもないのだ。祖父や、父上に備わっていた当主として、一国の主としての技量が、私には無いのだから」
俯きがちに自嘲気味に言う氏康。早雲や氏綱といった、偉大な先代と常に比較されて生きてきた。その重圧は、他の家臣たちには到底理解できないものだった。氏綱が死に、家臣や民衆の期待を一身に背負い続け、氏康は潰れる寸前だった。他国からの侵略に怯える日々は、氏康の自信を確実に消耗させていった。
弱気な言葉を吐けるのは、ずっと共に氏綱の下で働いてきた綱成だけだった。
「俺には、早雲様や氏綱の爺さんには無い、お前にしかないものがあると思ってるけどな。お前のその様子なら、どうやら俺の思い違いだったようだが」
「綱成……私にあるものとは」
氏康が言いかけた時、部屋の障子が慌ただしく開いた。ぜえぜえと息を切らした間者が、大名の前という無礼を忘れ、ずかずかと部屋の中に入って来た。彼の右手の中には、ぐちゃぐちゃに汚れた書状が握られていた。呆気にとられる氏康の目の前まで歩み寄り、どかっと座ると、綱成が止める間もなく、握っていた書状を床に広げてみせた。
おずおずと顔を近づけた氏康は、ハッと目を見開いた。異変に気が付いた綱成は書状を乱暴に拾い上げ、書状の内容を端的に読み上げ始めた。
「古河公方、足利晴氏までもが上杉についただと!? やつらは、氏綱の爺さんの頃からの同盟国だろ。一体何がどうなっているんだよ!」
書状を床に叩きつけ、激昂する綱成。その勢いに、書状を届けてくれた間者は、泣きそうな顔で逃げるようにして部屋を出ていった。氏康は、ただただ床を見つめたまま呆然とするしかなかった。氏康の頭の隅に”滅亡”の二文字が浮かんだ。
「おい氏康! 何か策を打たねえと、本当に潰れちまうぞ! おい聞いてんのか!」
氏康の頭の中に響く綱成の声がぐわんぐわんと揺れ、段々遠くの方へ消えていった。ぼそぼそっと、氏康は俯いたまま声にならない言葉を呟いた。怪訝そうに綱成が氏康の顔を覗き込むと、ハッと動きを止めた。綱成の背中に冷たい汗が伝う。部屋の温度が急に下がったように感じた。
おもむろに顔を上げた氏康は、呆気にとられる綱成を見て言った。氏康の瞳の色が変わっていた。睨まれただけで心臓を貫かれてしまうような、鋭い銀色の光を宿していた。
「今川を叩く」
「今川だあ? 何で今その名前が出て来るんだ」
「上杉の同盟、突然の足利の敵対。これら全て今川が裏で手を引いてるに違いない」
ほうと目を見張る綱成を無視して、話しを続けた。
「綱成、お前は川越を守備しろ」
「俺に留守を頼むってか。まさかお前が直接今川とやり合うってのか?」
じっと綱成を見つめ、氏康は面倒くさそうに答えた。
「そうだが?」
「ってめえ。しっかり説明しやがれ。俺がお前に加勢すれば、今川ごとき造作も……」
氏康は眼球だけを動かし、威勢よく喋る綱成の顔を捉えた。その瞬間北条きっての猛将である綱成が言葉を切り、無言の圧力に当てられて動けなくなった。それに満足したのか、興味を無くしたのか、鼻を鳴らしてどかっと椅子に座った。その豪快で不遜な態度は、先代の氏綱を思い起こす。視線を床に移しぶつぶつと何かを唱え始めた氏康は、再び綱成に視線を移すことは無かった。面白くない綱成は、わざとらしく大きく舌を鳴らし部屋を後にした。
障子を思い切り閉め、ぴしゃっと大きな音が静かな廊下に響いた。綱成はイライラしていた。廊下を早足で歩きながら、苛立ちは沸点に到達した。角を曲がった所で、柱に向かって思い切り拳をぶつけた。右手の側面の皮が破れ、床に血が滴る。
「これ綱成、物に当たるでない」
「んあ? ああ、幻庵様か。これは、みっともねえ所を見せちまいましたな」
綱成が殊勝にも頭を下げた相手は、先々代の当主早雲の末子である北条幻庵だった。早くして仏門に入るも、歴代の当主に仕え数々の戦に参加してきた、北条の古株家臣である。活躍は軍事面だけでなく、北条家の家臣たちの教養の師であり、文化面でも大きな貢献を果たしてきた。綱成が氏康のよき友であれば、幻庵は氏康のよき相談相手だった。
「氏康め、またあの目をしていたのか?」
「ちっ、あの目はどうにも苦手だぜ。背中が冷えてしょうがねえ」
「あれは獲物を狙う獣の目だ。使いこなせば大きな武器となるやもしれぬ。だが、氏康にはちと危険すぎる。あやつが愚将だからではない。あやつは大切な物を見失っとる。視野を狭めれば、乱世では生きてゆけぬ」
心配そうに二人が見つめる部屋の中では、氏康が今も一人で策を練っていた。どうすればこの窮地を脱することが出来るのか。氏康の頭の中の軍議に他人は存在しない。銀色の目をした氏康にとって、信じられるのは己の頭脳のみだった。
今川に放った間者より、一通の書状が小田原に届けられた。そこには、奪われた河東の地を奪いに今川が兵を挙げたと記されていた。氏康の想像は当たっており、上杉の同盟など関東情勢の変化は全て、今川の仕業である事は間違いないものとなった。
対上杉防衛の前線の城である河越城には、氏康の指示通り北条綱成が入った。北条氏康を大将とした部隊は、決戦の地である富士川を目指し行軍を開始した。
氏綱の死後、大きく揺れる北条家の命運は、相模の獅子北条氏康の手に委ねられた。馬に跨り富士川を越えた今川の地を見据える氏康の瞳は銀色に光り、普段見せる凡将の氏康の顔はすっかり消え去っていた。
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