〇 第2話 エルフと人間と異世界人(わたし) ―5
ああ、だがしかし、この建物すべてに水洗式のトイレは併設されていないのだ。そう思うと、やはり私にとっては非文明的な暮らしであると言わざるを得ない。
文明的な暮らしにはなにはなくともまずトイレだ。清潔で便利なトイレが当たり前であった世界からこの異世界へとやってきてしまったがばかりに、私はそんな過激な思想を植え付けられてしまった。私は悲しきトイレモンスターだ。
「まずは市場の果物屋を見に行こう。新鮮な果物を選んだら、ユリコも食べられると思うよ。美味しくはないかもしれないけれど、朝のあれだけじゃ、お腹すいちゃうでしょ」
まあ、やっぱり美味しくはないんだろうな。とはいえ、ルィイは私にまだ食べ物を恵んでくれるつもりらしい。それはもしかしたら、珍獣が死なないように餌を与えるくらいの意味しかないのかもしれないけれど。
ルィイの後について町を歩く。幾人かの町民を目にしたけれど、みんな挨拶などを交わすこともなく、ルィイの横を素通りしていく。
というかこれ、何となく避けられてないか? 常に他人を避けて、他人に避けられて生きてきた私には、なんとなくわかる。
「ねえ。この街の人って、……えっと。エルフじゃないんだよね」
「ええ。そうよ。この街は人間の町。だから私もここではよそ者なの」
やはりルィイも、周りの人間のよそよそしさに気が付いているみたいだ。それでも、彼女は気にしない様子で、通りを悠々と歩いている。私はその後ろを、縮こまって歩いた。
「この町の市場は、人間たちの間では有名だそうよ。この町は東の港町と王都を繋ぐ大きな街道のそばにあるから、人間の世界のいろいろな品物が集まってくるらしいわ」
ルィイと共にたどり着いたそこは、建物がない大きな広場のようになっている場所で、カラフルな布で作られたテントのようなものが、間隔をあけてまばらに立ち並んでいた。
その中の一つに、ルィイが手をあげて近づいていく。どうやら先ほど言っていた果物屋らしい。
「こんばんは、アルスルさん」
ルィイが挨拶をしたので、ついつられて私は会釈した。でもよく考えたら、会釈というのは日本人を含む東洋人の風習で、ヨーロッパやアメリカではしないと聞いたことがある。
また私は変なことをしてしまったかもしれない。この世界が欧州的文化圏の挨拶の習慣に習っているのかは知らないけれど。
ルィイの視線の先にある果物屋のテントの主人は、ガタイのいい中年男性だった。明らかにアジア人の顔付きではないその容姿からは、生粋の日本人である私には年齢を読み取ることが難しい。
間違いなく三十は超えているだろう。四十代でも驚かないが、さすがに五十というと失礼かな。まあ、だいたいそれくらいの容姿だ。
「今日は何がおすすめですか? できるだけ新鮮で、消化に優しいものが欲しいのだけれど」
ルィイが店の前まで行って、そこに並べられた果物を吟味する。横から私も覗き込むが、なにが何なのかはさっぱりわからない。たくさんの種類が置いてあるけれど、どれもおいしそうには見えなかった。
いくつかの果物のそばには、何やら文字のようなものが書かれた木の板が置いてあるけれど、その文字は全く見たことのない表記の言語だった。日本語ではなく、まして、英語でもない。
店主のアルスルさんがルィイにニッコリとほほ笑んで、いくつかのフルーツを手に取って、口を開いた。
「●%THヵ匿◇#&5α? ¥σBИ螟ィ>K!」
「は?」
アルスルさんは、突如として私に理解できない言葉を発した。
え? ちょっとまって? 確かに町中にあった看板の文字も、この果物の説明らしき文字も、私はまったく読めなかったし、このアルスルさんが日本語を喋れるわけがないのだけれど……。
ああ、またこの世界で生きていけない理由が増えてしまった。というか、言葉はあまりにも致命的すぎる。トイレや果物の味なんかとは比べ物にならない。他者とコミュニケーションができない世界で、どうやって生きろというのだ。
まあ、私、前の世界でもほとんど他人とコミュニケーションとってなかったけどね。
……って、あれ? じゃあなんで私はルィイと会話できるんだ?