<第5章> 帰郷、あるいは地獄めぐり (2 weeks ago,...) 05
(注意)この話には安部公房の『砂の女』に関するネタバレが含まれています。
また作者独自の読書感が入っていることをご了承ください。
家に帰ってすぐ、私はユーリャの死亡通知を持って帰ってきてしまったことに気がついた。さすがに返さなければとは思うけれど、今ユーリャの家に戻っても火に油を注ぐだけなのは目に見えている。これは後で母から返してもらうことにしよう。私は自室のミニテーブルにその紙きれを置くと階段を降りた。
リビングには父が一人座って本を読んでいた。
「あぁ、ソフィア。帰っていたのか」
「うん」
「お母さんは?」
「まだ向こうにいる。今ご飯作るね」
私はキッチンに向かい、どんな食材があるのかの品定めを始めた。
骨付き鶏とニンニク。それから玉ねぎと卵だけ。どうやら昨日の夕食でだいぶ食材を使ったみたいだ。鍋に水を組むと、その中に骨付き鶏を入れて火を起こした。その間にニンニクと玉ねぎをみじん切りにする。
父が覗きにきた。
「何を作っているんだい?」
「簡単にチヒルトゥマかな。ハチャプリはまだ残っているみたいだし。それと一緒に食べればいいかなって」
ふんふんとうなずく父。
「なに?」
「いや、ソフィアも自分で料理が作れるくらい大きくなったんだなって」
「やめてよ、恥ずかしい。お父さんは本でも読んで待ってて」
しっしっと左手で払う振りをする。
「もう読み終わったんだよ」と父。
「へぇ。なに読んでいたの?」
どうやら父は読んだ本の感想を誰かに伝えたいらしい。
正直読書なんて最近は、ほとんどしていないどころか本屋にも足を運んでいなかったから、タイトルを言われてもさっぱりわからないだろうけれど一応聞いてみる。
「安部公房っていう日本人が書いた『砂の女』って作品なんだ」
「砂の女? 砂でできた女の子の話?」
私は切った具材を鍋に入れ、アクを取る。
「簡単に説明するとある男がね、砂漠の中にある村に閉じ込められるんだ。蟻地獄のような場所に幽閉された彼はそこにもともと住んでいた女と奇妙な共同生活を送ることになるって話なんだよ」
「なにそれ、随分とシュールな話だね」
「ところがこれが面白いんだよ」
「どんなところが?」
「彼はこの不条理な状況から何度も脱出しようとしては失敗して……を繰り返してね。それでも希望を失わずにあの手この手で脱出しようとするんだ。そして物語の最後、彼の目の前に梯子が掛けられるんだ。『良かった。これでやっと帰れる』って読者が安堵したその時、彼はなんと蟻地獄に帰ってしまうんだ」
父が読んだ本を熱弁している間にも今日の昼食は完成した。私はお皿を取り出して盛り付けていく。その間にも父の解説は止まらない。
「昔はソ連中の人がこぞってこの本を読んでいたんだよ」
席に着くと、父はその本を見せてきた。カバーは外れ、テープで補修されていた。側面は手垢にまみれ赤茶色に変色している。きっと何度も読み返していたのだろう。
「なんでそんなに熱狂的に読まれたの?」
私は冷えたハチャプリをチフルトゥマにディップして食べた。中のチーズが少し温まって溶け出すのがたまらない。父はフォークで骨付き鶏の身を解しながら解説してくれた。
「ソ連国内の知識人に対する批判だと捉えられたらしい。蟻地獄の中で共同体に順応してしまったこの主人公と、当時の知識人を重ねたのだろう」
「ふーん。なんだか面白そう」
私がそんな感想を漏らすと、父は「じゃあ読んでみなよ」と本を貸してくれた。巻末のページ数を確認してもそれほど長くはない。きっと今から読み始めても夕方までには読み終わるだろう。「読んだら感想伝えるね」ともらった本を汚さないようにテーブルの隅に置く。父は「娘と読書の話ができるとは思わなかったなぁ」と感慨深い声を出しながらスープを啜った。
食器を片付けて自室に帰ると、ベッドの側面を背もたれにするように座ってさっそく『砂の女』を読み始めた。『八月のある日、男が一人、行方不明になった。』から始まる冒頭。すでにあらすじを知っていてもページをめくる手を止めることはできなかった。そして途中で挟まれる生々しい性描写。こんなものを娘に勧めたのか! と少々苛立ちを覚えたと同時に昨日の愚行を思い出して、頬を赤くしながら斜め読みをした。
読み終えたときにはすでに太陽が沈みかけていて、部屋の中を茜色に染めていた。中央のミニテーブルに本を置こうとしたとき、ふとユーリャの死亡通知が目に入った。そのときまぶたの裏に、バチバチッと閃光が走った。猛烈な勢いで頭の中のシナプスが結合していくのを感じる。目を閉じて思考の海に身を投げた。そして一つの考えが思い浮かぶ。
もしかしたらこれは、私たちを描いているのではないだろうか。この小さな村の傭兵で生計を立てなければならない、社会に順応しきっている今の私たちに向けて語りかけているのではないだろうか。
きっと私がそう感じたのは、この村の外を知っているから。
そこで社会を変えようとしてきた人たちを見てきたから。
そうした人たちをこの手で殺してきたから。
おそらく父の中でも何か惹かれるものがあったのだろう。
15歳で村長の一族に婿入りした父にとって、この小説の主人公は父そのものだったのだ。だからこうしてボロボロになるまで読んでいた。『外の世界には何もない。自分はこの村での役割をまっとうするのだ』と言い聞かせてきたのではないだろうか。きっとそうだ。
父は自分の一生をどう思っているのだろうか。
気になった私は本を抱え、一階へ降りて行った。
「おと――」
声を上げようとするのを抑え、私はダイニングへ続くドアに耳を押し当てた。どうやら誰か客人と話をしているようだ。
「本当に、うまくいくんだな?」
父の声から随分と真剣な様子が伝わってくる。対する相手の声は柔らかいソプラノボイスだった。
「もちろんですとも。保障は取り付けております」
私はその声を聞いたことがある。忘れるはずもない。けれど、本当に……。いや、まさかそんなはずは……。私は早る気持ちを抑えて引き続き会話の続きを聞いた。
「しかし、そんなことが起これば」
「もともとこの村はツァーリの懐刀と呼ばれ…………」
向こうの長い話が続いているようだ。後半の方はボリュームを下げて話しているのだろう。なかなかうまく聞き取れなかった。
「梯子はすぐ目の前に掛かっているというわけか……」
父はボツりと呟き、それから相手と二、三度適当な言葉を交わすと会話を終えた。私は急いで浴室に隠れて相手の顔を見ようと試みたが、いつになってもダイニングから人は出てこない。私は浴室から出て、ダイニングのドアを開けた。そこにはテーブルに右肘をついて、頭を載せる父の姿だけがあった。
「あれ? 誰かと話していなかった?」
「まさか。ずっと父さん一人だけだよ」
ダイニングから外に出る手段は窓から出る他ない。けれどこの部屋は暖かいままだ。窓を開ければ外気に触れ、室温も下がるだろうから。おそらく窓を開けてはいないだろう。すると考えられる方法は一つ。通話だ。きっと父は誰かと通話していた。そしてその相手は――ユーリャだ。
あの声を聞き間違えるはずがない。私の名前を何度も読んでくれたあの声が今この部屋の中に響いていた。一体父と何の話をしていたのか私にはわからない。けれど私にとってはその事実だけで十分だった。
「それで、読んだのかい?」
「うん……」
父は眉毛を吊り上げるようにこちらを見て感想を待っている。けれど、私の中では先ほどのダイニングの会話に気を取られて、自分が何を感じていたのかすっかり忘れてしまっていた。ただ一言、「凄かった」とだけ伝えた。
父は何も言わなかった。本を返そうとしたら、「それはソフィアが持っていてくれ」と言われた。母が帰ってきた。父は私の目を見てある問いを投げかけてきた。
「ソフィアは、もしもこの主人公だったら、梯子を上るかい?」
その目は真剣そのものだった。まるで好きな人の気になる人を聞くような目でこちらを見つめている。
「私は……上るよ。だって目の前の義務に囚われるだけの人生なんかいやだもん」
そういうと父は「やっぱり親子だな」と穏やかに笑った。




