第八話 気づいた想い
「聞きたいこと、あるでしょう? いいよ。答えるよ。」
事業所を出て、駅に向かう途中で先を歩く山田は立ち止まり、萌を振り返った。その顔はいつもの山田とは違って、少し気落ちしているようにも見えた。「何で教えてくれなかったの!」とヒステリックにまくしたてる間柄ではない。かと言って、自分は全部知っているのに、こちらには何も言ってくれなかったというのが、少しズルい。どちらかと言うとそんな気持ちだ。萌も周りには伏せて活動している以上、自分の正体を知られるというのは恥ずかしいのだ。
「ご存じだったんですね……」
開口一番はそれだった。
「まさか、社内にいるなんて思わなくてね、驚いたよ」
「ですよね……」
キャンペーンの社内選抜で選ばれたことを伝えてから連絡がないことにも今なら合点がいく。あの時は、何かまずいことをしてしまったのか、気分を害するようなことを言ってしまったのかと不安に思ったが、部長会議に出席しているのだ。あの時に知ったのだろう。
再び歩き出す。その足取りは消して軽くはない。
「なんだか、その……ごめんなさい」
存在自体を秘密にしているというのに、表に出してしまった。気づく人の方が少ないとは思うが、それでも気づく人はいたのだ。金子がそれだ。山田はやはり香流水流としての自分を表に出す気はなかったのだろう。そう考えると自分のしたことが申し訳なく思えてしまって、口をついて出たのが謝罪の言葉だった。
「謝ることはないよ。あれはあれで、微々たるものでも会社の増収に繋がったんだから。君は悪くないよ」
「でも……」
「それに君は香流水流という名を伏せてくれた」
山田はまた立ち止まり、萌を見つめた。
「それよりも、謝らないといけないのは僕の方だよ。君が憧れている香流水流が僕みたいなオッサンだなんて、ショックでしょ? それに、いい歳して、あんな絵を描いてるだなんて」
諦めたような、そんな表情を浮かばせる山田とは対照的に、萌は首をぶんぶんと横に振った。
「そんなことないです! そんなふうに言わないで下さい。中の人がどんな人であっても、私は香流先生の絵が好きです。綺麗ってだけじゃなくて、暖かくて、優しくて、可愛くて……だから、そんなこと言わないで下さい」
「……すごい告白をされた気分だ……」
その表情があまりにも自然で、萌は自分の言ったことが急に恥ずかしくなって俯いた。顔が熱い。気温の問題ではなく、萌の顔が火を噴いているのだ。
「いや……その、そのですね……」
必死に取り繕う言葉を探しても出てこない。ただ、あたふたとしてしまっただけだ。
「でも、嬉しいよ。そう言ってもらえて。それに、僕は、僕だけが君の秘密を知っていることを申し訳なくも思っていたんだ。お互い隠しているつもりでも、片方は知っているってズルいだろう? だから、まぁ……金子さんは相変わらず空気を読まなくてああいうことをずけずけと言ってしまうのは昔から変わらないんだけど、今日はまぁ、良かったって思ってる」
それは山田の正直な気持ちだった。ただ、萌には疑問が二つ残った。
「あの、あと二つ聞いてもいいですか?」
「いいよ。でも、もうすぐ駅に着いてしまうから、新幹線の中で聞くよ」
その後、二人は一緒に新幹線に乗り込んだ。当初、新しい住まいを確認しようと思っていた萌だったが、そんなことすっかり忘れてしまうくらい、山田の告白は衝撃的であったし、萌も山田の話を聞きたいと思っていた。
東京へ向かう新幹線、二人掛けのD席とE席、発車してしばらく経ったところで山田は自身の過去を萌に語って聞かせた。
「僕はね、彼女と結婚したいって思っていたんだ。でも、彼女は違った。いや、途中までは同じだった。でもね、ほら、こんな男があんな絵を描いているって、なかなか受け入れられないだろう? 彼女はそれが嫌だったんだろうね。彼女の中の僕は、完璧な男だっただろうから。ね、僕が社内でなんて言われているか知ってる?」
山田は萌に問いかけた。
「……奇跡の五十代。ですか?」
「えぇぇ、そんなこと言われてるの? それって、喜んでいいのかな……」
山田は恥ずかしそうに笑った。
「え、違うんですか?」
「いや、その……独身だったら結婚したい。だとか……」
「あ、それもありますね……あ、それで?」
「そう……せっかく用意してあったものだから、とりあえず使おうかと……」
それは左手の薬指の指輪のことだった。ごつごつとした男性らしい大きな手、その薬指にデザインリングではなく、シンプルな指輪がはまっていれば既婚と見るのが普通だ。山田が左手をあげて、指輪をまじまじと見れば、その視線に萌の心は少し痛んだ。
「……あんな思いはもうしたくないからね」
大切な人に大切なものを否定されたその悲しみは計り知れない。だから、恋愛というものから距離を置いたのだ。
山田の過去話に切なくなりながらも、萌の心にはもう一つ違う思いが浮かんだ。
『私だったら、そんなこと気にしないのに……』
むしろ、同じ趣味を共有できるなんて、素敵なことだ。お互いが切磋琢磨しあって創作活動ができる。たまに鬱陶しく思うこともあるかも知れないが、同じことで悩み、同じことで喜ぶことができるのであれば、それはやはり嬉しい。
「……部長は素敵です。か、仮にですよ? 私がもし、部長とその……そういう関係になったとしたら、私は全然嫌じゃないです。むしろ嬉しいというか……」
「……小日向さんさ、もしかして告白してる?」
山田に顔を覗き込まれ、萌は顔中から火を噴くくらい真っ赤になった。今日、二回目だ。自分はなんということを言ったのだろう。これは告白ととられてもおかしくない。
「か、仮に。の話です!」
「そっか。残念。でも僕は、小森小春さんの素直な文章、好きだよ」
「そう言えば、読まれたんでしたね」
「うん。だって、そのために渡したんでしょう?」
「えぇ、そんなぁ……」
真っ赤になったかと思ったら、今度は困り顔。自分の表情はどれだけ変化できるのだろう。山田はそんなあたふたと慌てたかと思えば情けない表情を見せる萌を笑った。萌もつられて笑ってしまった。
「あれ? じゃあ、イベントで香流先生のスペースにいた人は?」
「あぁ、彼女は親戚の子だよ。僕が昔から絵を描いてあげてたんだ。今はイタリア人の恋人と恋愛中だよ。そのうち結婚するんじゃないかな。あ、そうしたら売り子探さないといけないな。イベントのたびに帰国してもらうのも申し訳ないからね。それに彼女の恋人は僕と同じくらいの年齢で彼女に随分とご執心のようだからね」
「親戚の方だったんですね。私、てっきり彼女が香流先生かと思っていました」
「まぁ、それが目的ではあったんだけどね。ネタバレしてしまったよ」
「売り子ですか……」
つい数分前まで恋愛について話をしていたはずが、いつのまにか同人作家同士の会話になっている。これも二人が同じ創作活動をしている故のことなのだろう。
「ところで小日向さん、夏のイベントは?」
「あ……ダメでした。今回は友人もダメで……」
異動の発令が出た同時期に夏のイベントの当落発表もあった。異動の準備で忙しくしていた萌はすっかりそのことを忘れていたが、話を振られたことによって思い出した。落ち込む余裕もなかったが、改めて思えばやはり残念だ。だが、去年とは少し違う感情もある。それは香流水流の正体を知ったからだ。あまりこういうやり方はよくないかも知れないが、身近にいることが分かっただけでなく、それがこうして並んで会話ができる人物であれば頼めば並ばなくても新刊は手に入るかも知れない。そう考えたら、残念な気持ちも少しは軽くなる。
「新刊、用意してる?」
「はい。まだ進捗は半分くらいですが、それなりに」
山田は腕を組み、しばらく何かを考えているような素振りを見せ、そして一つの提案をした。
「僕のスペースで販売したら? 委託販売って扱いになるけど。あと、売り子をやってもらうことになるけど」
「部長は?」
「僕はもちろん行かないよ。というか、行けないな。いつどこで知り合いに会うか分からないし、この活動だって秘密なんだから」
「私でよろしいのですか?」
「もちろん。君が香流水流の正体を知った今でも、香流水流のファンだと言ってくれるなら」
「勿論です! 先ほども申しましたが、私は香流先生のイラストが本当に好きです。可愛いだけじゃなくて、優しくて、暖かくて」
「ちょっと待った!」
山田は手を広げ、萌の言葉を制した。そして少し俯き、眼鏡を押し上げて言った。
「あのね……そう面と向かって言われるとね、さすがの僕も恥ずかしいから……」
あの部長の恥ずかしがる姿なんて、滅多に見れるものではないだろう。それを見た女性なんて、ごく僅かかも知れない。だが今、こうして恥ずかしそうにしている姿は何となく可愛らしくもあり、萌は思わず笑ってしまった。
「ごめんなさい。そうですよね。でも、みんなの憧れの山田部長のそんな表情を見れるなんて、私、後ろから刺されないかなって」
そんな会話をしている間に新幹線の車内に終点の東京駅に着くことを知らせるアナウンスが流れた。
ほんの僅かな時間でも、山田とこうして話ができたこと、山田という人物を知れたことが萌は嬉しかった。
「分かっているとは思うけど……」
「はい。二人だけの秘密ですよね」
「そう。あと会社では普段通りにお願いするよ」
「それも分かってます」
そう、これは二人の秘密。他の誰にも知られてはならない二人だけの秘密。
新幹線を降りたら、もう、こういう話はできない。秘書部長の山田と、総務部の小日向萌に戻るのだ。それに、月が変われば山田は東京、萌は名古屋住まいになる。行き会うこともなくなるだろう。これだけ楽しい話ができたのだから、寂しくないと言えば嘘になるが、仕方ない。そこはきちんと割り切らなければいけない。山田と香流水流は別の人物として考えなければ。
そう思っていたのは萌だけではなく、山田も同じだった。ありのままの自分をさらけ出して、逃げ出すかと思えば、それを自然に受け入れている萌、金子が余計なことを言わなければ、言うことはなかっただろう。だから、あの時は焦った。だが、話をしてみて分かったことがある。萌の前だと本来の自分でいられた。飾ることもなく、偽ることもなく、ごくごく自然体で。もっと話をしたい。もっと自分を知ってもらいたい。
以前から、気になる人物ではあった。ちょうど去年のこの時期、山田が初めて萌を見た日だ。廊下でぶつかりそうになった日、がっくりと肩を落としていたのを見て、もしや? と思った。ちょうど夏のイベントの当落発表の日であったことから、何かしら活動をしている人物で、落選したのでは? と。まさか、自分の会社にそんな人物がいるなんて思いもせず、何となく目で追った。そして、夏のイベントで小森小春という人物を知った。荒削りではあるが、読みやすく、優しさが伝わる文章に好感を持った。それから少しメールでやり取りをして……こうして話をするようになって、今、別れを寂しく思う自分がいる。そこまで考えて気づいた。小日向萌に興味以上の感情を持っているということ。だが、彼女が自分に好意を持ってくれているという確証はない。彼女は香流水流が好きなのであって、自分のことをどうこう考えているわけではないだろう。
「じゃぁ、ここで」
切り出したのは山田からだった。
いつまでもホームで立ち尽くしているのも、傍から見ればおかしいだろう。別れの時間が来るのは当然と言えば当然だ。
「はい……来月からよろしくお願いします」
「あぁ、こちらこそ。じゃ……」
軽く手を上げて立ち去る山田。その背中を見て、萌の心には何ともいえない気持ちが溢れ出していた。行ってしまう……また暫く会えなくなってしまう。でも、やっぱり私は……気づけば萌は山田の後を追っていた。そして――
「あのっ、お時間ありますか?」
雑踏の中、聞こえるか聞こえないかの声であったが、萌の発した声は、山田にははっきりと聞こえた。
「ど、どうしたの?」
萌の表情は真剣そのものであった。
「え、あ……あの……あの……」
「うん」
自分はなんて大それたことをしてしまったのだろうか。別れの挨拶をしたばかりだというのに、しかも自分よりも目上の人間だというのに。そう思うと、急に自分のしたことが恥ずかしい上に、失礼だった。と脂汗を流した。そして出た言葉がこれだった。
「い、今書いている話なんですが、だ、男性の意見を聞きたいなって……そ、それで、部長に、って……」
山田は優しく微笑んだ。もしかしたら、自分が引き留めていたかも知れなかったからだ。
「読ませてくれるの?」
「あ、は、はい。文章下手くそですが、それでもよければ……お願いしたいです。タブレットに入っているので」
萌は勢いよく頭を下げた。
「でも、ここでは何だから、移動しようか。どこかでご飯でも食べながら。そうだ、小日向さん、最寄りはどこ?」
「三鷹です」
「へぇ、偶然。僕も三鷹。今まで行き会わなかったのが不思議だね。それなら都合がいい。僕の行きつけの店があるからそこに行こう。誰にも邪魔されずに読ませてもらえるからね」
脂汗をかいたかと思えば、次は緊張がやってきた。自分から言い出したことではあるが、香流水流が本人の前で小森小春のまだ書きかけの文章を見るのだ。緊張しない人がいるとしたら、会ってみたい。
「でも、ごめん。ここから三鷹までは別々に行こう。ここは知り合いが多い。誰かに見られたら、僕は何とでも言えるけど、君にとっては不都合だろう?」
そうだった。山田は何とでも言える。言えば信用してもらえるだけの人望もある。たまたま行き会った。とか、降りる駅が同じだから。とか何とでも言えるのだ。だが萌は違う。萌のような一般の社員はすぐに根も葉もない噂の餌食になってしまう。今、目の前にいる山田は子煩悩で家族思いな男だ。事実を知っているのが萌だけとなると、やはり迂闊な行動はとれない。不倫と言われるか、関係を迫っているととられるか。きっとすぐに広まってしまうだろう。「大人しい顔をしているけど、中身はすごい」くらいは言われてしまう。特にそういうネタが好きな女子社員にとっては格好の餌食だ。
「分かりました。ではのちほど」
「うん。着いたら改札を出たところにいて」
萌は頷いて階段を降りた。分かっている。分かっているのだ。分かっていると言ったばかりだ。だが、このできたばかりの二人の秘密は思いの外、萌の心に重くのしかかった。
在来線に乗り換え、ドアに凭れながら考えた。分かっていると言ったのに、なぜそれを重く考えてしまうのかと。答えは簡単だ。平気なふりをしていても、やはり自分の心に嘘をつくことはできない。萌は山田を特別な存在に思い始めてしまったのだ。