第七話 親切なお節介
六月――
萌の勤める会社の人事異動は七月一日だ。六月の中頃に内示がある。現場以外の社員は、たいてい二年もしくは三年で部署が異動になる。萌も今の部署はちょうど二年になることから、今年あたり異動がありそうだといつでも引継ぎができるように準備をしていた。
勤務地は様々だ。萌のように総合職で入社した社員は、東は東京、西は大阪、そしてその間の中部地区のどこかに異動になる。運よくただの部署異動ならばいいが、支社や他の事業所へ出向となるといろいろと大変だ。萌は、できるなら都内にいたいと思った。やはり何をするにも便利な上、元々こちらの生まれである。勝手知ったる、というやつだ。それに、イベントも都内で開催されることが多い。だが、実際に異動を決めるところはそんな個人の都合を考えない。ある程度のクラスになればあるのかも知れないが、萌のような一般の社員は、希望は出せてもその通りにはならないのが常だ。
ある日、萌は課長に呼ばれた。やはり異動になるようだ。今の部署に不満はないが、新しい仕事もやってみたいとは思う。もちろん、都内希望であるが。
「小日向さん、もう分かっているとは思うけど、これ」
差し出されたのはA5サイズの安っぽい紙。辞令ともなれば、それなりに厚くて綺麗な紙が使われるが、この時期、発行枚数が多くなる発令通知についてはコピー用紙だ。
「ここね、名古屋本社の担当になるんだけど、とても仕事しやすい、と言うか、時間を有効に使える所らしいから、他に勉強したいことがあればこの機会にやってみたらいいよ。でも、ここは会長の肝いりで始まった事業所でもあるから、しっかりね」
「はい」
受け取った発令通知をまじまじと見る。
『秘書部付出向』
秘書部に籍を置くものの、実際は出向。社外で仕事をするというものだった。行き先は本社のある愛知県。名古屋駅から在来線で約四十分の比較的新しい事業所だ。課長の言ったとおり、会長の名前が常に出てくる所であるから、あまり下手なことはできない。
フロアを見渡すと、萌と同じく発令通知を受け取った社員が次の部署の上長に電話を入れている。ということは、萌もそれに倣うのであれば、秘書部長、つまり山田に電話をしなければいけない。行き会って話すだけでも緊張するというのに、部下になったら緊張しっぱなしになるのではないだろうか。そんなことを思いつつ、受話器を取り、秘書部に内線電話をかけた。
この日、山田は社内にいたため、すぐに電話は取り次いでもらえた。
「はい」
「あ、あのっ、総務部の小日向です」
「あぁ、君か。出向の件かな? 早速で悪いんだけど、明日先方に行く用事があるから、君も一緒に来てほしい」
「あ、はい……あの……」
「ん?」
「よ、よろしくお願いします」
「あぁ、こちらこそよろしく。小日向さん」
さすが、『独身だったら結婚したい男性ナンバーワン』だけのことはある。その耳に心地いい低音と物腰の柔らかさに電話口で萌はぺこぺこと頭を下げながら、少し頬を赤らめた。そんな様子を見ていた同じ部署の女性陣は萌を羨望の眼差しで見つめる。女子社員たちの憧れ、山田宗太郎と仕事をするのだ。あわよくば自分が、と思う者だっているだろう。その視線に居心地の悪さを感じながらも、萌は淡々と引継ぎ資料の用意を始めた。
翌日、天気は快晴。昨日はあれから引継ぎ資料を作って、引っ越しの手配をして、何だかんだで遅くまで社内にいた。さすがにアパートを探しに行く余裕はなく、会社が駅近くに用意した単身寮に入ることにした。単身寮とは言っても、外観は普通のマンションで、萌の入る部屋も1DKと、今の所と大差はない。向かいは二十四時間営業のスーパー、道を挟んだ反対側には病院と、比較的住みやすい。もし、時間があったら下見に行こう。そう思いながら待ち合わせの改札口に立っていると、声がかかった。
「ごめん、遅くなった」
六月と言えども気温は高い。さすがにジャケットは脱いでいるが、ネクタイは若干緩められていて、そこから漂うのは間違いなくフェロモン。それが秘書部長、山田宗太郎だ。
「いえ、私も今来たところです」
なるべく姿を直視しないように答える。如何に現実世界での恋愛はからっきしな萌でもこれはまずい。暴れだしそうな心臓を抑えることで精いっぱいだ。
「じゃ、行こうか」
「はい」
先を行く山田の後を追う、こんなことを考えたら変態と思われるかも知れないけれど、その残り香すら男前だ。
ホームに出ると、一陣の風が二人の間を吹き抜けて行った。湿気さえなければ、とても心地いいものだったかも知れないが、季節は六月。爽やかな風は期待できそうにない。萌は不満を零す。
「部長、名古屋って暑いですね……」
「そう? まぁ、そうだね。僕は慣れてしまったけど」
慣れてしまった。そう聞いて、萌は山田の事を何も知らないということに気付いた。
『独身だったら結婚したい男性ナンバーワン』だとか『奇跡の五十代』だとか異名はよく耳にしても実際の山田についてはプライベートな話は一切しないらしく、誰に聞いても同じことを言うのだ。『五人の子供がいる子煩悩パパ』だと。
「電車来たよ」
「あっ、は、はい」
山田がとても優れた男性だということは分かった。だがそれはあくまでも憧れの対象であって、妻帯者である以上、想いを寄せることはできない。だから憧れ。誰もがそう思うのだろう。
電車に揺られること約四十分で目的地のある最寄り駅に着いた。ここからさらに二十分歩くらしい。この徒歩は想定外だった。鬱陶しい蒸し暑さの中、二十分も歩くのは勘弁してほしいところだが、仕方ない。辞令が出てしまったのだから。あ……
「あの、私は出向と言われただけですが、具体的にどんな仕事をするのですか?」
出向と書かれた辞令は貰った。だが、具体的な仕事内容について上司は何も言っていなかったような……
「もしかして、聞いてない?」
萌は深く頷く。
「ったく、これだから……」
その先に続く言葉を知りたいような気もしたが、人間いろいろあるのだろう。
「今、広報業務をやっているうちの社員がいるんだが、君はその子の後任だよ。広報全般をやってもらう」
「広報……私にできるでしょうか?」
「なに、そんな難しいことはないよ。それに、事務所にはうちから出向の男性社員もいるから、大丈夫。サポートしてくれるよ」
入社してから総務部に配属されていた萌にとって、広報というのは未知の領域だった。浮かぶのはマスコミ対応、それがメインになるのだろうか。
そんな話をしているうちに目的地に着いた。まだできて十年足らずの事業所は社屋そのものが新しい。エントランスの自動ドアが開くと、冷気が一気に押し寄せてきた。暑い中歩いて来た身体にはありがたいが、これがいつもとなると、さすがに防寒具を用意した方がいいかも知れない。
「おぉ、久しぶりじゃないか」
二人の姿を確認し、事務所から出てきたのは恰幅のいい、定年間際と思われる人のよさそうな男性だった。山田がお辞儀をするのに倣い、萌も頭を下げた。
「こんな暑い中、ご苦労さん。ま、こっちで話をしよう」
通されたのは事務所とは別にある応接室だった。こちらも既に冷房が効いていて、一人だったら絶対に
「あぁぁ」と声を発していただろうと容易に想像できた。
萌はまず金子と名乗るその男から仕事内容を聞いた。やはりやることはマスコミ対応、そして外部からの来客への説明、ガイドブックやその他印刷物のデザインから校正などなど。金子は付け足した
「こうやって言うと大変と思うかも知れませんが、一度にこれらのものをやるわけではないので、安心して仕事をしてください。あと、うちには二人の正規雇用の女子職員がいますが、いい人たちなので、困ったことがあったら彼女たちを頼ってください」
とのことだった。萌も、それなら頑張れそうだと思った。そして、緊張していたのだろう、安心したことによって急にお手洗いに行きたくなり、中座をしようとしたその矢先だった。金子の発した言葉に、山田は慌てふためき、萌は絶句した。
「あぁ、そうだ。ポスター見たよ。まだ絵を描いていたんだな。それに聞いたところ、キャッチコピーは小日向さんじゃないか。すごいなぁ、二人いつからそういう仲なんだ? 山田もいつまでもそんなオモチャの指輪なんかしていないで」
「金子さん!」
応接室が水を打ったように静まり返った。エアコンの動く音だけがやけに耳についた。いつもは見せない表情で焦ったように声をあげる山田の顔は心なしか真っ赤だ。
「ちょ、ちょっと金子さん。それ!」
「ん? あぁ、小日向さんにも内緒なわけか。そりゃ、すまなかった」
「い、いや……その……」
元々、上司部下の間柄だったのだろう、山田は金子にはどうも逆らえないような、そんな雰囲気を感じた。いや、今はそれどころではない。萌は金子の言ったことを聞き逃さなかった。ただ、茫然と山田を見つめることしかできなかった。山田はバツが悪そうに俯くだけ。金子もまずいことを言ってしまったと気づいた様子で、だんまりだ。
山田は自分の正体を知っている……知っていた。そして、山田の正体を知ってしまった……山田こそが、萌が憧れる香流水流その人であるということを。ただただ、驚愕。今の自分の感情を示す言葉はそれしか見当たらない。
そのままにされていたら、自分は何分あの場で固まっていただろう。まるで助け船でも出すかのように、萌の前任者、現在の担当者の登場でその場は有耶無耶になった。
それから担当者と仕事の内容や引継ぎの日程調整などの話をし、事務所内の職員に挨拶をして、この日の訪問の目的を果たした。だが、その間、頭にあるのは山田のことで、少し上の空だったかも知れない。




