危険
膝丈ほどの雑草が生い茂る暗い森の中、灰色はこちらに向けてひたひたと距離を詰めてきていた。
「ひっ」
アリスが不安に煽られ、俺の元に駆けてくる。一方でクレアは、灰色に体を向けたまま後ずさり、俺の前で庇うように立った。
緊張感が張り詰める。心臓を握られたような恐怖に冷たい汗が流れる。何もしていないというのに、呼吸が荒ぐ。
草を踏み分ける小さな音が次第に近づいてくる。その音を聞くたびに唾を飲み込み、身構えた体は強張っていく。
クレアは、俺たちの方へと後ずさりながら剣を抜き、刃を灰色に向けて構えた。
灰色は気付かれたと察したのか、動きを止める。そして伏すことをやめ、のそりと姿を表した。
尖った耳、地面に突き立った四足の太い足、人一人分程もありそうな堂々たる体躯。獰猛な瞳はまっすぐにこちらを捉えており、鋭い牙が剥き出しになった口元からは涎が溢れている。
「狼……」
そう言って、俺の方を向いたアリスの顔は蒼白に変わっていた。アリスが歯をかちならせる音が、異様に静寂な辺りに響く。
恐怖が伝染し、身が硬化すのを感じる。目の前に立つクレアも不安を隠せず、剣を持つ手が震えていた。
そんな俺たちを嘲笑うかのように、狼は歪に口端を釣り上げ、ただその場で突っ立っている。
「やるしかない」
クレアが息を大きく吸い込んで震えを止め、一歩前へと出る。すると、意外にも狼は後ろを振り返って逃げ出した。
一瞬呆気に取られたが、狼はすぐに立ち止まり、距離をとってこちらを伺ってくる。その視線の先は俺の背中、ぐったりと体を預けてきているミストへと向いていた。
弱っている獲物を襲う隙を伺っているのか。
距離が離れたというのに、緊張感が増す。締め付けるような恐怖がじわじわと沁みてきた。
ミストの汗で湿った背中から、弱々しい鼓動が伝わって来て、危機感を助長させる。
「狙いはミストかもしれない」
試しに後ずさるようにして距離を取ろうとすると、狼もゆっくりと近づいて来た。
「ついてくるっ!? ど、どうしようクリス!?」
アリスが怯え、ヒステリックな声をあげた。
震えるアリスを安堵させるため、俺は片手で抱き寄せる。そして、恐怖に囚われないよう必死で留意しながら、対応を考える。
恐れるな。思考が鈍くなるだけだ。
でも、どうする?
このままだとずっとついてくるだろう。今ここでやるしかない。だが、人間は狼に追いつける足を持っていない。距離は縮まることなく、いたずらに体力を失うだけだ。あわよく近づけても、こっちが無事でいられる保証なんて、どこにもない。
かといって、逃げることはできない。森の中、狼を撒くなんて不可能だ。疲労の溜まっている今、尚更振り切れるとは思えない。
その時、狼は突如空を向いた。白い毛が溢れんばかりに生えた喉をこちらに晒し出し、木々の合間を貫くように大きな咆哮をあげる。
一斉に全身の鳥肌が立ち、びりびりと皮膚が痺れる。
狼の遠吠えは、木の葉をざわつかせ、山に広がっていくように響き、やがて吸い込まれたみたいに鳴り止んだ。
上がり始めた青白い月なんて全く興味がないみたいに、狼は易々とこちらに視線を向けてくる。凶猛な眼差しに再び捉えられ、背筋は容易に凍り、場は途轍もない緊迫感に支配される。
「クリスっ!!」
空気に呑まれ、クレアが焦燥感が篭った声を上げた。
前に立つクレアの背中はいつもとは異なり小さく見え、背に掛けられた二つの荷物にすら潰されそうな印象を抱いた。
声をかけなければという使命感が沸き立つ。
しかし、何も答える事が出来ない。
使命感と恐怖に気を揉まれ、ただ必死に打開策を探す。
くそっ、どうすればいい?
狼は群れで行動する生き物だ。今は一頭しかいないが、複数で狩猟を行うのが基本。はぐれである可能性はないと見ていいだろう。
今の遠吠えで連絡を取ったのだとしたら、すぐに集まってくるかもしれない。
考えが出ない間も、刻一刻と危機へ陥っていく。
っ!! 今は時間を稼がないと!
「クレア! 背負っている荷物を一つ、狼に向けて投げてくれ!」
俺はクレアの背に斜めに掛けられた二つの荷物に目を向けて言い放った。すると、クレアは一瞬振り返り、丸くしていた目を俺に向けてきた。
「いいのか!? クリス!?」
「ああ!!」
最初に四つあった荷物は、運べるように二つに纏めていた。その片方を差し出すという事は、水・食料の半分を失う行為である。
遭難した今は、少しでも残しておきたい状況にあり、なおかつ狼が興味を示すかどうかはわからない。圧倒的に不利な賭け、ハイリスクな行為。だが、それでもやらなければ、ただ無為に時間を消費することになる。
クレアは、構えている剣を片手で持ち直し、肩に掛けていた荷を持つ。そして、それを狼に向かって投げた。
狼は、突如飛来するものを避けるため、俊敏に背後へと走る。荷がどしりと落ちた音がなると、狼は振り返り、俺たちの方に視線を戻した。狼は警戒心を顕に、こちらから視線を逸らさずに首を下げ、荷物の匂いを嗅ぐように鼻をすんすんと動かした。
狼の行動に心臓がどくどくと脈打ち、緊張感が走る。
暫く匂いを嗅ぐに留まっていた狼は、首をあげこちらに顔を向けてくる。狼の口元は歪につり上がっているような印象を受ける。それは、鯱が海豹を投げて遊ぶような、弱者を甚振るようなものだった。
それから狼は、ゆっくりと荷物に向けて歩を進め、荷物の中に鼻を突っ込み、中のものを引っ張り出した。そして、乾燥させたパンや干し肉を食べる。
「クレア、アリス。一応、気は引けたみたいだけど、警戒しながら距離を取ろう」
「うん……」
俺たちは、狼から視線を外さず距離を取り、視界から消えると必死で走った。





