〇九四
風は依然として吹かない。前日の勢いが嘘のようだ。
「さて、と」
彼が、眼鏡を外し、また掛けなおす。
「……まだ、私がここでお前を待っていた理由を言っていなかったね。本題に入ろう」
……本題があったのか。まあ確かに、無駄話をするために待っていたのは、少々おかしいが。
「私は悲しい。親友が死んだ」
繰り返すように、そう言う。
「お前も悲しい。友達が連れていかれた」
対句法でも使いたいのだろうか。そう私は、あまり本意にそれを聞こうとしなかった。なんとなくではあるが、彼から狂気のようなものを感じとったのだ。
だが、次の言葉ですぐに撤回することになる。
「手を組まないか」
「手を……組む?」
「そうだ。互いに、利害は一致しているだろう。私は人情として、組織にニルの賠償を払わせたい。お前は組織から少女を救い出したい。互いに、標的は組織だ」
彼が手を差し出す。オレンジジュースのしみを縫うように、彼の腕が差し出された。だが、彼と握手をするには、私の足はもう何歩か、前に進まねばならない。前に進めば、細い糸を踏んでしまうだろう。
「案じなくとも、糸を踏んでもなにも起こらない。まわりをよく見ろ」
まわりを見渡す。特に、変わったところはない。
ドアの外はやけに静かだが。
「あ」
気付いた。風が吹かない。
この空間は、すでに歪んでいる。AF-117が作った空間のように、ここに、風は入り込んでこない。
いやだが、歪んだ空間では声を発してはいけないのではなかったのか――いや。そうか結局、あの公園も。
「さあ行こう」
私と彼は、手を交わした。家屋の中がしだいにぼやけていき、完全に薄暗さは消えていった。
向かうは、組織の本拠地。きっと彼女は今頃、そこに送られて、組織におけるルールでも練りこまれているだろう。
私たちは、大山を、旧鳥取を後にした。