2025年5月2日(金)吉野美玲(18歳)みたいな
俺の叫び声を聞きつけたのか、複数の声がして、誰かがこちらに走ってくる音がした。
「吉野さん!? どうしてここに」
説明会のときに演壇にいた向井が、部下と一緒に駆けつけて、俺に声を掛けた。
「先ほど皆さんと一緒に帰られたと思ったのですが」
「えっと……」
なに? 今どんな状況?? そんなこと俺に言われても知らんよ。
っていうか、皆さんって誰? 奥田くんたちのこと??
吉野さんって──お、俺に言ってるんだよね? やっぱり、俺って吉野さんになってます? ハハハ、奇遇ですね、俺もそんな気がします。
──そんなことは言えないが。
向井は不思議そうな顔をしていたが、俺は何と言葉を続けたらいいかのかわからなかった。
「一人ではダンジョンに入らないよう、あれほど言ったのに」
向井はそう言うと、部下に指示を出して周囲を確認させた。
「す、すみません」
俺は思わず何度も頭を下げてあやまった。
「吉野さんは、本当にお一人でここまで来たのですか?」
向井が探るような目を向けてきたので、俺は余計に言うべき言葉を失ってしまった。
「まあいいでしょう……。今は山村さんの捜索が先です。関口、須田。こちらの女性を出口まで送ってきてくれ」
俺がまごついているのを見て、向井は二人の男に声を掛けた。
「部下に送らせますので、今日のところはこのままお帰りください」
「はあ、……えっと、向井さんは戻られないんですか?」
「ええ、山村さんがまだダンジョンの中にいるようです。先ほど皆さんから、山村さんがいなくなったときの状況を確認しましたよね?」
向井はそう言いながら、じっと俺を見つめた。
「えっと……、そ、そうです……ね? あ、そうです、そうです」
何が起こっているのかまったく理解出来なかったが、俺は取りあえず向井の言葉に乗っておくことにした。
どうやら、奥田くんたちは、俺が行方不明になっていると報告したらしい。
「あれから30分経過しましたが、山村さんの退出記録は確認出来ていません。そのため、捜索に出てきたんです。この後、2層まで様子を見に行ってみますが……。もしかして、吉野さんも山村さんを探しにいらしたんですか?」
「そ、そうですね、まあ……そんなところです」
俺のあやふやな言葉に、向井は一瞬不審そうな顔を見せたが、それ以上何も言わなかった。
ダンジョンの出口まで送ってくれた向井の部下にモゴモゴとお礼を言いながら、俺は振り返らずにダッシュでダンジョンから逃げ出した。
ヤバくない? 今の状況。
何がどうなってるんだかさっぱりわからないけど、絶対ヤバいよね。
建物の出口までの途中で男性用トイレを見つけると、俺は一目散に飛び込んだ。
飛び込んで来た俺を見た先客は、ぎょっとした顔をした。慌てて用を済ませると、チャックを締めるのも忘れて出ていった。
何か悪いことをしたか? まあいい。
壁に掛かっている鏡を見る。
鏡には、吉野さんの顔があった。
洗面台に手をつき、鏡に顔を近づけて、よーくよーく見ても、やっぱり吉野さんの顔だ。
「マジか」
おまけに、さっきからものすごく体に違和感がある。今すぐ確認せずにはいられない。
まず、股間に手を当てる。
ない。
胸に手を当てる。
「あ、シンデレラバスト」
──じゃなくて!!
その場でズボンを下ろして股間を確認した瞬間、超高速でズボンを元の位置まで引っ張り上げた。
実録!! 衝撃映像!!!!
「なっ!! なんでノーパンなんだよ!!!!!」
俺は思わず叫んだ。
大事なものがない上に、なんと無防備なスカスカ感っ!!
「ふー。落ち着け、落ち着け、落ち着け」
俺は自分を落ち着かせようと、その場をグルグル回った。
この体は俺のものじゃないけど、今は俺のものみたいだし。
うん、俺のだよな。そうだ、そうだ。
だったら体のどこを見たって犯罪じゃない。絶対。いや、……た、たぶん。
犯罪じゃない、犯罪じゃないとつぶやきながら、ジャケットのジッパーを下ろした。
顔は動かさずに、目だけそうっと下に向ける。
下がノーパンだったら上もノーブラだよね。
そうだと思ったよ。
取りあえず女性の胸に当たる部分を、両手で掴んでみた。
うん、ソフトな感触。
「ブッ!! ホ、ホッホッ、ホンモノの胸だアアアア!!!!!!」
予想通りなんだけど、予想外の感触に、俺は思わず叫んだ。
女性の体に女性の胸があったからと言って、別におかしくはないのだが、それが自分の体にある場合は、何って言うの、ちょっとアレだし、とにかく何か違うでしょ!!!
足音がして、誰かがトイレに入ってくる音がした。
「うひょおおおお!!!!」
ちょっと待って、まだ来ないで。今ダメ。
男子トイレの真ん中で、女性が胸を出してるシチュエーションってナニ?? どんな羞恥プレイよ!!
俺は、飛び上がってジャケットの前を閉じ、足がもつれて転びそうになりながら個室に駆け込んだ。
「うえっ……ぷ」
アドレナリンが出過ぎて吐きそうだ。
見えるもの全部がやたら鮮明で、頭の中がビュンビュンと唸りを上げて高速回転しているが、動作がそれに追いつかない。
脳がジリジリ焼けて、今にもオーバヒートしそうだ。
俺は、ドアの内側に張り付いて聞き耳を立てた。
人が出ていく音を確認し、さらに5分待って個室から出た。男性用トイレから、女性の姿をした俺っぽい何かが出てくるというところを目撃されないよう、あたりを見回し、細心の注意を払って外に出た。
更衣室のロッカーの鍵を開けて荷物を取り出し、財布に入れた運転免許証を確認した。
免許証を見るまで、自分は本当は女で、記憶喪失か何かでそれを忘れてただけなんじゃ……とまで思ったが。
そこに載っていたのは、フツーに“男の自分”の顔写真だった。
「ああ、よかった……」
ホっとして、不覚にも泣きそうになった。
自分の正気を疑いかけていた俺は、免許証を握りしめたまま、しばらくその場に立ち尽くした。
ダンジョンに持っていったスマホも、ずいぶんオシャレになったが、中身は俺のものだ。
装備品は、実技講習の参加者全員が初心者用装備だったので、見分けがつかない。
だが、サイズが小さいのは一目瞭然だ。
俺が選んだのはLサイズだったが、今着ているこれはSサイズくらいか。
いつ体が縮んだんだ?
「夢か? これは夢だろ――、やけにリアルだけど」
俺は顔の前に両手を広げてみた。
「手ぇ、ちっさ!!」
細くて華奢な指先。
しかも、爪には薄いラメの入ったマニキュアが丁寧に塗られていた。
俺はまじまじと指先を見つめた。
マニキュアを塗ったことはあるか?
ないな。
どこからどう見ても他人の手だ。
恐る恐る、その手で頬に触れてみる。
やわらかく、滑らかな肌。ヒゲのざらつきひとつない。
頬を軽くつまむと、ちゃんと指でつままれた感触がある。
夢を見ているのではない。
「いや、女子大生になる夢って。俺にそんな願望はない。……ないよね?」
この非現実的な状況が、誰かが仕掛けたイタズラならどんなに気がラクか。
あとになって、笑い飛ばして終われるような──
だが、そんなオチはない。
何度自分の体を見ても変わらない。
もはや、目の前の光景を現実として受け入れるしかなかった。
俺は、本当に吉野さんになってしまった。
混乱したまま、この状況をどうしたらいいのか考え続けた。
「な、なんで俺がこんな目に……? なんの呪いだよ……。ダーーーー、チクショーッ!! もう、どうすりゃいいんだよ!!」
叫び声を上げながら、ぐるぐると歩き回り、頭をガシガシと掻きむしった。
不意に、体の奥に微かなざわめきが走った。
何かに意識を乗っ取られたかのように、体の制御を失う。
次の瞬間、体中の細胞が一気に書き換えられ、自分という存在が再構築され……
──そして新しい体が再起動した。
「この感じって……」
スキルを得たときと、まったく同じ感覚だ。
どこからか、誰かの話し声が小さく聞こえてきた。
耳ではなく、頭の奥で響いている声が……
目を閉じ、意識を集中すると、頭の中にひとつのスクリーンが浮かび上がった。そこに、この体のオリジナルである吉野さんの記憶が、次々と再生されていく。
大学の入学式、花火を見上げた日、ファーストフード店の机に広げられたノート──
思い出が細切れにされ、時系列を無視してスクリーンに現れる。
そして、日常の断片の中で、何度も繰り返し再生される、たったひとつの記憶。
ついさっき覚えたばかりの魔法。それを自分の手で放った、あの瞬間。
憧れ続けていた力を初めて手にしたときの、爆発しそうな興奮。達成感が胸に湧き上がり、溢れんばかりの歓喜がスクリーン越しに、まざまざと伝わってくる。
手が震える。
映像越しではない、自分の体験と錯覚するくらいリアルな感情。
まるで、俺自身が魔法使いになったみたいだ。
吉野さんの感情に心を乱されながら、スクリーンに映る彼女に目を凝らすと、顔写真付きのプロフィール画面のようなものに切り替わった。
名前:吉野美玲
分類:女、学生
タイプ:真面目、根性
高さ:156cm
重さ:44kg
特性:魔法使い
「──何だ、これ? か、鑑定スキルが生えた……? いや、まさかな」
俺は念のため、身の周りの物に向かって『鑑定』と唱えてみた。
……。
特に反応はなかった。鑑定スキルではなさそうだ。
「っていうか、何を真面目な顔してやってんだよ。鑑定スキルの使い方も知らないじゃん」
俺はバツの悪さをごまかすように顔の前で手を振って、頭を切り替えた。
「しっかし、これって何か見覚えがあるような……」
俺は、腕を組んでじっと考え込んだ。
子どものときにやっていたゲームの、モンスター図鑑みたいだが……。
それとも、ステータス画面ってやつだろうか。
「でも、人のステータス画面が見えるなんて話は、聞いたことがないな……。せっかくスキルが生えたのに、これじゃ全然意味がわからんな」
俺は、ため息をつきながら吉野さんの情報を見つめた。
せめて“スキルの使い方”がわかれば、と思った瞬間──
頭の奥にヒビが入ったような感覚とともに、吉野さんの記憶が、堤防が崩れるように一気に流れ込んできた。
彼女の感情や、遠い日の声、匂いが、俺を飲み込んでいく。
吉野美玲という人格の破片が、ためらいもなく突き刺さる。
抗うこともできず、意識は踏み潰され、どこまでが“俺”なのか──境界線が消えていく。
俺は濁流に飲み込まれ、底の見えない水の中を、ただ沈んでいった。
──そして、音が止んだ。
陽の光が、やけに優しい。
カーテンを開けた自分の部屋──のはずなのに、どこか違和感がある。
こんな色の壁紙は……見覚えがない。俺の家じゃない。なのに、使い慣れた机がある。
窓の外から、誰かが犬を散歩に連れ出そうとする声が聞こえてくる。
隣の犬は、かまってほしくてよく吠える。
──俺は、セーラー服に袖を通す。ん? 俺がセーラー服?
これは、俺じゃない。俺じゃないけど、体が自然に動く。スカーフを手に取って、先生に教わった通りに結ぶか、一瞬だけ迷う。
スカーフを三つに折って……なんて面倒な手順は省略。あらかじめ結び目を作っておいた“省エネ結び”で、手早く身支度を済ませる。
「これってSDGs(しょうもない・堕落した・ガールズ)じゃん」
同じ結び方をしていた隣の席の女子が笑った。俺の親友みたいだけど、誰だかわからない。
っていうか、SDGsってそんな意味だったか?
低い声で名前を呼ばれた。──美玲。
その響きに、胸が一瞬だけ震えた。反射的に返事をしそうになった。
でも、違う。俺は美玲じゃない。俺は──、誰だ?
突然怒りが湧き上がる。父親の言葉に、言い返したくなる衝動を覚える。
“別に、あんたなんかに頼んでないし”
口にはしなかった思いが、喉を通して漏れそうになる。
俺の記憶じゃないのに、身体が記憶の通りに反応しようとする。
ふと、懐かしい匂いがした。
制服の袖をすり抜ける風の感触。小さく畳まれた手紙を、そっと指でなぞるように広げる。
ゆっくりとドアが開き、優しいまなざしが覗く。
肩が触れるか触れないかの距離。交わる視線。
暗がりから差し出された手が頬に触れた──そのとき。
淡い光の中で、“俺”という存在が、徐々に溶けていく感覚を覚えた。
まるで、体が分解されて、次々と吉野さんに書き換えられていくようだ。
俺は思わず膝をついて叫んだ。
「ストップ! ストッーーープっ!」
頭の奥で光が弾け、洪水のような記憶は、潮が引くみたいにすっと遠ざかった。
息が荒い。鼓動が早鐘のように打ち、額に冷や汗がにじむ。
記憶の奔流が途切れると、俺はようやく深く息をついた。
「はあーー、VRどころじゃないな。なんつうリアルな……」
俺は、膝に手をついて、しばらくその場にうずくまった。
まだ吉野さんの記憶が体に残っている。
「女子大生になったと思ったら、今度は女子高生の記憶を追体験って──。危うく、どっかの男にキュンってしちゃうところだったぜ……」
俺は大きくため息をついて立ち上がった。
「こんなプライベートな記憶を覗くつもりはなかったんだが……。スキルって、自分の思った通りに動かせないのか? とんだじゃじゃ馬だな」
ロボットアニメで、ロボットに乗り込んで操縦する主人公はよくいるが……これは、その逆だ。
自分の体を、誰かに動かされているようで、違和感がありすぎる。
「俺がセーラー服を着るとかどんなプレイだよ。しかも、なーんか、いい感じになったり♥……しねえよ!」
俺は妙な気分を振り払うように、両手を大きく振って深呼吸した。
だが……あの後、吉野さんはどうしたんだろうな。
だって、……ねえ。
スキルで見えた吉野さんの記憶は、もう“俺の記憶”として脳に刻まれてる。
どうせ、俺のスキルで見たものじゃん。だったら……あと5秒だけ──
いやいやいやいや。バカ。やめろ。自分のモラルを試そうとするな。
あれは、俺の記憶じゃないのはわかってる。
なのに、動悸はおさまらず、体がムズがゆくてじっとしていられない。
スキルで他人の記憶を覗くってことは──見せるつもりのなかった本音や素顔まで、否応なく流れ込んでくるってことだ。
本来なら、覗いちゃいけないものだ。じっくり覗くなんて、マナー違反にもほどがある。
……だが、見えてしまった以上、気になって仕方がない。
だって、見えちゃったもんは、記憶に残るだろ。
それに、見えそうだったら……やっぱ見ちゃうじゃん。
……スキルを使う度、こんな感じになるんだろうか。
それとも、ちゃんとスキルが使えるようになったら、見たい記憶を選べるようになるのか?
現状では、どんな記憶が流れてくるか、自分では選べない。
当然、そこには吉野さんの“少々プライベートな”記憶も混じってくる。
これは、不可抗力……というか、もう、ゴメンとしか言いようがない。
「……今度会ったら、気まずいな。どんな顔して話せばいいんだか。──まさか“あの男の子とどうなったの”なんて、聞けるわけないし。いや、俺が自分から見ようと思ったわけじゃないけど」
やましい思いに言い訳しながら、俺は彼女の記憶を頭の中から急いで追い払った。
だが、頬にほんのり残った“感触”だけは、なかなか消えてくれそうにない。
「くーーー、やっば。なんで俺までときめいてんだよ」
落ち着け。これは事故だ。俺は何も悪くない、はずだ。
とにかく、一人になれる場所が必要だ。
誰にも見られず、責められず、セーラー服の幻も出てこない──そんな場所はどこだ。
家か。
何しろ、俺の家には俺しかいない。
一国一城の主とはよく言ったもんだ。ハハハ……ハァ。