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リファイン ─ 誰でもない男の、意外な選択と、その幸福 ─ そして世界は変わる  作者: かおる。
第一章

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2025年5月2日(金)人生を変えるなら

切りの良いところまでと思ったら、長くなってしまった。

半分に分けると勢いが……。なので、このまま行きます!

 今回の講習でスキルを取得できたのは──(脳内ファンファーレ)テレレッテッテッ、テッテー。ジャン!


『吉野さんだけ』──でした。イエイ~、拍手~~~!



 ……結局、そうなるか。

 だよねー。


 もしかしたら俺も……と、思ったりはしたけどさ。

 やっぱ、現実は甘くないか。クッソ。



 全員、実技講習の課題はクリアして、俺たちは地上への帰路についた。

 異生物との戦いにも慣れてきて、帰り道はずいぶん気楽なものになっていた。



「見て。さっき倒したのに、もうスライム湧いてるよ」

 吉野さんが、長井さんの袖をちょんとつまむように触れて、声をかけた。


「ねえ、カッコいい~魔法を使うから、動画……撮ってくれる?」

 はにかむようにそう言って、右手の人差し指をクルッと回す。


 その仕草に反応するように、ダンジョンの空気がさざめき、吉野さんの掌に淡く風が集まりはじめる。

 つむじ風のような魔力がふわりと舞い上がり、白い軌跡を描いてスライム目がけて走った。



 シュパーーンと見えない刃が飛ぶ。


 スライムは、音もなく、まっすぐに切り裂かれた。

 体を輪切りにされたスライムは、上下にわかれた体が灰になるタイミングが一瞬ずれるという不思議な死に方をした。



 死ぬ間際に分裂でもしたんだろうか。

 でも、核を破壊されたから分裂出来なかった……とか。

 タフだな、スライムって。



 長井さんは、吉野さんに言われたとおり、その様子をスマホで撮ってやった。

 吉野さんははしゃいだように長井さんに寄り添い、そのリプレイ画面を見ていた。



「……なんか、目の前の空気が美しすぎる気がします」

 奥田くんがぼそりと呟きながらメガネを外して拭った。


 俺にも、そこに何かあるのはわかるのだが、それを表現する言葉が思いつかない。



 まあいい。世の中にはいろいろある。



 っていうか、そんなことより──今の魔法だよ。魔法!


 さっきと違う魔法だよね?

 今のはサーっと切り裂く感じで、最初のはもっと、こう……バーンと貫通する感じで。


 さっき魔法が使えるようになったばっかりなのに、もう派生スキルが生えてんの?

 しかも、なんか魔法の使い方がめちゃめちゃサマになってない?


 指をクルンとするだけで、スライムを瞬殺って──


 確かに、説明会で、スキルは使えば使うほど、使い勝手が向上したり、より強力な『派生スキル』が現れる、みたいなことを言ってたよな。


 にしても、早すぎだろ。

 こんな短い時間で、派生スキルまで出来るようになるなんて。



 ……すげえな、この子。マジで魔法少女じゃん。



「吉野さん、その魔法って……」

「あ、これ? 静かでいいでしょ。最初のはドカーンって感じで迫力あったけど、こっちのほうが“優雅”っていうか、風魔法っぽくない?」



 確かに。最初の魔法なんて、ライフルで撃ってるのと変わらない感じだったし。



「魔法って、体を使わない分ラクでいいけど、異生物を探して移動する手間は変わらないのよね」

 吉野さんは少し不満そうだ。


「一度倒した異生物が湧くのをただ待ってるだけなら、ハンマーだろうが魔法だろうが、稼ぎは変わらないね」


 時給で計算すれば、手間は同じ、ってわけか。なるほど。


「せめて、最初に払ったライセンス代くらいは、早めに取り返したいなー」

 吉野さんが、泣きそうな顔でその場にしゃがみこんだ。


「いろいろ買わなきゃいけないもの多くて、お財布スカスカ。節約しようと思って自炊してるけど、ろくな材料が買えないし……」

「実家から仕送りないの?」

「定額で決まってるから、足りない分はバイトで稼ぐしかない感じ」

 吉野さんはため息をついた。


「それは大変ですね。では……ゴブリンの魔石を、ひとつ300円で計算してみます。受付で払ったのが──5万6450円ですから、ゴブリンを189体倒せば元が取れますよ」

 奥田くんが、スマホの電卓で計算した結果を見せてきた。


「うえっ。それって、ソロで毎日10体ずつ倒しても、半年コースじゃん」

 吉野さんが目を丸くした。


「初心者はパーティーで組めって言われてたでしょ。3人で割ったら……、一年半ね」

  長井さんが、さらっと現実を叩きつけてきた。


「だったら、地上でバイトしたほうがよくないか? 学生なんだし、ダンジョンよりマシな働き口なんて、いくらでもあるだろうに」


 ……俺にはないけどな。


「レジャーなの。ダンジョンは。レジャーだからいいんですー」

 吉野さんは、口をへの字にしたまま立ち上がった。


「ちなみに、一日の探索時間が3時間だと、10体のゴブリンを倒して日当が3千円になります。3人パーティーだと、日当千円、時給が約330円ですね」

 奥田くんが淡々と計算を続けた。


「330円って……、奴隷かよ」

 俺は思わず呻いた。


「ざっくりした数字になりますが、1層から5層まで進んで、それぞれの層で5回ずつ戦闘があったとすると、合計25戦。深層に行くほど魔石の価値も上がりますから、3人パーティーでも平均時給は4千円を超える計算になりますよ」

「魔石の単価は上がるけど、その分リスクも大きくなるわよ。でも、ゴブリン狩りだけじゃ稼げないわね」

 長井さんがそう言って肩をすくめた。


「そうですね。装備の質や安全性を考えても、普通の学生が5層を超えるのは現実的じゃないですし。3人パーティーで一日10時間潜って、日当一万が限界かな。時給にしたら千円。家庭教師のほうが確実に稼げますね」

「だからさー、そこはレジャーとして割り切ろうよー。遊びに来たのに時給330円ももらえるって、すごくない? 3時間ゴブリンを狩るだけで、学食で好きなもの食べられるんだよ」



 吉野さんって、すっごくプラス思考だな。

 いいことだ。



「異生物の湧くペースがもっと早ければなあ……効率よく稼げるのに。リポップ間隔って、30分くらいかな」

 俺が何気なくつぶやくと、奥田くんがスっとメモを見せてきた。


「手前のスライムは、12分でリポップしました。見分けが難しい個体もいますが、20体ほど観察した結果、平均では24分くらいですね」



 ……っていうか、見分けがつくのかよ。あり得ないだろ。俺には全部同じにしか見えないけど。

 コイツ、どんだけスライム好きなんだ。



「ねえ、それって、リポップする場所にずっといれば、魔法でバンバン倒し放題でラクできるってことじゃないの?」

 吉野さんがぱっと顔を上げた。


「でも、説明会の資料にあったわよ。近くに人がいると、同じ場所には湧かないって。ちょっとずれたところとか、物陰とか、影の中に出るらしいの」

 長井さんがさらっと補足する。


「うわ、それって……、強いのが背後に湧いたら詰みってことじゃん」

 吉野さんは自分の後ろを振り返った。


「だからこそ、パーティーを組んで周囲に目を配るのが大事なのよ」

 長井さんが当然のように言った。



 そうそう、安全第一よ。



 奥田くんはスライム好きだと言っていたが、実物に触れたのは今日が初めてだった。

 そのせいか、興奮ぎみにスライムの生態について語り出した。



「最近のダンジョン研究では、スライムに特定のエサを与えると、種族進化する可能性があるっていう仮説があるんです」

 奥田くんは楽しそうに言いながら、スライムにエサをやり始めた。


「スライムは、吸収した物質の性質を、自分の魔石に刻む性質があるんですよ。そして、条件がそろえば分裂でどんどん増える……」


 彼は俺のほうに、ぐいっと身を乗り出して話を続けた。


「中学校で習った理科の実験を覚えてませんか? 花の色が遺伝するのを調べるメンデルの法則。スライムの魔石が、その“遺伝子”みたいな役割をしてるとしたら、どうなると思います?」


 俺が黙って聞いていると、奥田くんの目は大きく見開かれ、宝石みたいにキラキラと輝き始めた。



 本当に好きなものを語るときって、人の目ってあんなに大きくなるんだなぁ。



 俺は、奥田くんのスライム愛に、ちょっと感心してしまった。



「もし、レアメタルみたいな貴重な資源を取り込んだスライムが、その性質を分裂後も引き継ぐなら──分裂するたびに、魔石からレアメタルが採れるかもしれない。すごくないですか? これは、ロマンですよ、もう!」


 奥田くんは興奮してきたのか、コンサートの指揮者みたいに手を大きく振った。


「それが実現したら……ダンジョンの中にスライム牧場とか作られそうだな」


 奥田くんの熱量が伝染したのか、俺の脳内には、ファンシーでかわいらしいスライムたちが群れをなしている、ほんわかした牧場のイメージが浮かんできた。



 だが──同時に、ちょっと危ない話にも聞こえた。



 スライムが金属を吸収して、皮膚が硬化したらどうなる?

 誰にも倒せないような、メタルスライムの強化版みたいなモンスターが誕生するかもしれない。

 それって、ものすごく凶悪なフラグなのでは。


 無闇な餌付けはやめてほしい。




 奥田くんは、スライムに大きめのエサをやり、どのように消化するのかを記録し始めた。


 スライムは、体の表面に物が触れると粘液を出して包み込み、それが食べられるものかどうかを確かめているようだった。

 エサに触れたスライムの表面が、わずかに波打つ。

 食べられると判断したのか、スライムはフッと消えるような速さで、エサを体内に取り込んだ。



「えっ、ナニ今の。マジで? めちゃくちゃ消化が早くない?」


 みんなで、奥田くんがエサやりしているスライムに注目した。


 まるで、コップの底に残ったわずかな水分をストローで吸い取るようだ。

 スライムの体にフっと一瞬でエサが吸い込まれた。


 こんなに消化が早いなんて、知らなかった。


 そういえば、異生物って普段何を食べているんだろう。

 ダンジョン内で草を食べてるとか、異生物同士で共食いしている姿も見ない。動物園みたいに、誰かが餌やりしているわけでもないのに生きているなんて不思議だ。


 俺がそう言うと、奥田くんが教えてくれた。


「ダンジョン内には隠れた水源があって、あちこちに泉が湧き出しています。この泉から採取できるのが魔水です。異生物は食事を必要としないのは、この魔水のエネルギーを利用しているからだと言われています。目撃情報があるわけじゃないんですが、異生物も、この泉から生まれてくるという説がありますよ。実際、泉の周りには異生物が多いですし」


「でも、低階層の泉はもう取り尽くして残ってないんだろ? それなら、異生物もいなくなるはずなのに、ゴブリンとかスライムはいるじゃないか」

「泉は枯れても、水源は残っているはずです。岩の割れ目から水が染み出してる場所もありますし。あとは、特殊な例ですが、低階層でも、異生物の数がやけに多かったり、めちゃくちゃ強い個体が現れる場所があります。たぶん、見つけにくい場所に泉が残ってるんでしょうね」

「はー、なるほど。そういうことか」



「いいなー、あたしもエサやりしてみた~い……。けど、スライムにあげるエサがな~い」

 吉野さんは、おねだりする子どものような顔をした。


「鯉にエサやってるんじゃないんだから。いくら弱くても、スライムに囲まれたら逃げられないわよ」

 長井さんが呆れた顔をして言った。


「まあまあ、みんなゴブリン戦でゲンナリしたじゃないですか。気分転換になるなら、少しぐらいいいんじゃないですか」

 俺はそういうと、説明会の前に買ったエナジーバーを吉野さんに渡した。


 吉野さんは「やったー。ありがとー」と言って、長井さんと二人で少し先にいるスライムにエサをやりに行った。


 奥田くんは観察に夢中になってしまったようで、しばらく動きそうにない。虫好きの小学生が、夏休みの宿題でアリの巣の観察をしているときのような顔をしている。



 俺も面白いとは思うけれど、他のメンバーほど夢中にならなかった。

 一番年上なんだから、リーダーっぽく振る舞わなくてはという思いもある。


 なんだか遠足中の小学生を引率している先生みたいだ。

 興味はあっても深入りはせず、遠くから見守る感じ。



 ……まあ、実際は、俺よりみんなの方がしっかりしてるけどな。




 “地上に帰るまでが探索”


 これはダンジョン探索の基本とされている。

 俺は、パーティーメンバーの目が届く範囲をウロウロしながら、なんとなく時間をつぶしていた。

 たとえ安全圏にいても、一人で先に帰るのはナシだ。


 時間もあるし、俺もエサやりしてみるかと近づいていった。

 持っていたエナジーバーを、そうっとスライムの上に置いて食わせてみた。


 あっという間に消化される様子は、マジックショーさながら。



 お、自分でやってみると、意外と面白いな。


 以前、娘を連れて牧場にいったことがあるが、うさぎのエサやり体験が出来るという触れ込みだったのに、エサの食べ過ぎで、まったく近寄って来なかった。



 あれには、家族全員でがっかりしたっけ。



 俺は、何気ない記憶に、ちょっと笑いつつも苦い気持ちになった。


 あのときのうさぎの代わりに、このスライムが牧場にいれば、無限にエサを食べそうな気がする。

 この勢いなら──



 もし俺が間違って人を殺して、完全犯罪を目論むようなハメになったら、死体をスライムに食わせれば証拠隠滅できるんじゃないか?


 いや、待てよ。

 俺が考えつくようなことは、他の誰かがもうやっているかもしれないな。



「ダンジョン内で死んだ人の遺体は、持ち帰れなかった場合、どうなるんだろう。やっぱりスライムに掃除されちゃうのかな」

 俺は、スライムの観察に夢中になっている奥田くんに話し掛けた。


「そうなりますね」

「スライムを地上に連れて帰ったら、どうなる? 犯罪組織に使われたりするんじゃないの? 掃除屋みたいな感じで」

「それはないです。ダンジョンの外では異生物は生きられないので、すぐに弱って死んでしまいます。これは、すでに何度も実験されていて確実です。ボクは地上に魔力がないっていうのが、すごく残念なんですよ。自分の家でスライムが飼えないじゃないですか」

 奥田くんは、心底がっかりしたという顔をした。


「ああ、なるほど」


 俺は、ふとした疑問を思いついた。


「ダンジョンの外には魔力がないんだから、スキルは弱まる。それと同じように、異生物は、魔力のない地上では生きられない。──だったら、ファンタジー小説によくある、スタンピード(モンスターがダンジョンから溢れる現象)は現実には起こらないんじゃないかな」


 しょっちゅうスタンピードが起きる世の中だったら、人類なんてあっという間に滅びてしまう。



 ダンジョンの出入り口にある頑丈そうな扉は、ダンジョンが出来た当初、異生物が溢れてくることを危惧した政府が設置した。

 最初のうちは、自衛隊の探索時以外は常に閉めて警戒していたが。今では探索も自由化されて、扉は開けっ放しになっている。



「あの扉は、まだダンジョンがどういうものなのかわからなかったけれど、政府が万が一のときのことを考えて設置したものです。まあ、あれを使う事態は、今のところないと思っていいんじゃないでしょうか」

 奥田くんはそう言うと、スライムの観察に戻っていった。



 俺は今まで、「ダンジョンなんて物騒なものは、さっさと埋めちまえ」と思っていた。

 だが、地上には害がなく、貴重な資源があるなら有効活用しようと決めた世間の判断は、間違ってはいなかったんだなと思った。



 まあ、つまり、正しい情報がないと、正しい判断が出来ないってことだな。




 そんなことを考えながら、スライムがエサを消化する様子をぼんやり眺めていた。


 いつの間にか、奥田くんはスライムの団体を相手にパン食い競争のようなことを始め、女子大生チームは、風魔法でどこまでスライムを小さく切れるかを実験していた。



 手持ち無沙汰になった俺は、少し先の岩の影にいたスライムに、エサやりをしようと近づいていった。


 ふと、首すじに水滴のようなものが当たった。

 見上げると、天井にもスライムが何体か張り付いていた。



 あー……、あのベタベタがあれば、天井に貼り付いても落ちないんだな……。



 何気なくそう思ったその瞬間、天井の尖った出っ張りに張り付いていたスライムが、上を見上げていた俺の顔の上に落ちてきた。


 スライムは、障害物を迂回するよりも、床に落ちたほうが移動しやすいと判断したのかもしれないが──


 反射的に手で払いのけようとするものの、スライムの柔らかい体は捕らえどころがない。ヌルっとした感触に指が滑る。



「お……っ!」


 驚いて叫ぼうとした口に、スライムが入り込もうとする。体の一部を触手のように変化させ、舌の奥へ押し入ってきた。



 うおっ! マジかよ!


 俺は、スライムの体をあらん限りの力を込めて噛みちぎり、舌先でスライムを押し返して口を閉じようとした。

 だが、スライムのほうが力が強く、逆に舌を押さえこまれて、喉の奥に侵入されてしまう。



 まったく現実感が湧いてこない。俺は自分に何が起きているのか理解できず、助けを呼ぶことさえ頭に浮かばなかった。



 スライムに襲われるなんてあり得ないだろ。



 心のどこかで、自分はこんなところで死ぬはずがないと思っていた。

 正月に餅を喉に詰まらせて死ぬときってこんな感じかと、他人事のように感じた。


 喉に張り付いたスライムの体から、粘液がにじみ出てくるのを感じる。俺は何度もえずいて嘔吐しそうになるが、スライムはびくともしない。



 クソっ! コイツ!



 叫びたくても息ができない。近くに仲間がいるはずなのに、助けを呼ぶ声すら出ない。

 呻くなり暴れるなり、何か音を立てるべきなんだろう。


 だが、すでにパニック状態だった俺は、冷静な判断など出来なくなっていた。


 体が酸素を求めてもがき、なんとかスライムを振り払おうと掴みかかる。

 ふいに、粘液でベタついた指先が突然抵抗を感じなくなった。スルっと手首から先が、スライムの体内に取り込まれる。


 その瞬間、真っ赤に焼けた鉄の棒にでも触れたような激痛が走った。体がビクッとして、反射的に腕を引き抜こうとするが、万力で締め上げられたようにびくともしない。

 消しゴムで鉛筆の線を消すような速度で、指先から体の輪郭が失われていくのを感じた。


 酸素が回らず、意識がもうろうとする。



 ──ああ、そういえば……前にもこんなことがあったな。



 子どもの頃、家族で海水浴に行き、急に足がつかなくなって、水を飲んでしまった。

 まわりにはたくさんの人がいたのに、息が出来ず、そのまま沈んでいった。


 海の底から見上げた、ゆらめく陽の光──その光をかき混ぜるように飛び込んできた人影。


 近くにいた大人が、沈んだ俺を見つけて引き上げてくれたのだ。

 浜に戻ると、母が大声で俺の名前を呼んで、泣きながら抱きしめた。



 いつもアニキのことばかり気にかけていた母さん。あのときは、俺のことを心配してくれた──



 今まで誰にも言えなかったけど……アニキが再起不能になったって聞いたとき、俺は心配してるフリをして……、本当は心の奥がスカッとしたんだ。


 アニキを心配している母の前で……「アンタの大事なご長男が、そんな姿になって残念だな。ハハハ」なんてことを考えながら。


 きっと、そんなことを考えたバチが当たったんだ。

 スライムに殺されるなんてカッコ悪いよな。情けねえ……。こんな姿は誰にも見せられない。



 いつもそうだ。

 俺は、自分に都合の悪いことは誰にもバレないように隠そうとして、何の問題もないフリをするんだ。

 出来の悪かったテストの答案用紙を、机の奥にくしゃくしゃに突っ込んで隠した子どものときと変わらない。



 母さんは、いつだってアニキばっかり大事にして。アニキは新品の物を買ってもらえても、俺はアニキのお古。

 家族の中の”希望”も”期待”も、全部アニキのものだった。


 俺はその横で、物わかりのいい弟を演じてた。何も言わず、反発もせず。

 どうせ、いてもいなくても変わらないんだから──って思いながら。



 アニキが病院から帰ってきたとき、車椅子から降りようとするアニキの手が俺の肩に触れて、一瞬だけ──この手を振り払ったらどうなるか、なんて想像をしてしまった。


 ただ、頭の中でよぎっただけ。実際に何かをしたわけじゃない。


 でも、そのときに俺のほうを見たアニキの目を、今でも思い出せる。




 俺が『何を考えたか』バレたんじゃないか?




 ただ目が合っただけ。

 言葉を交わしたわけでもないのに、俺の中にあった何かが壊れた気がした。



 ──アニキを支えたって、母が俺を見てくれるわけじゃない。

 どうあがいても、俺は兄を支える役割から逃れられない。


 その気持ちは、澱みたいに俺の心に溜まっていった。



 俺は、ずっと言いたかった。


 俺のことを、ちゃんと。

 弟だからとか、家族だから、じゃなくて。


 一人の人間として、大事にしてくれって──




 ふみかと娘の心菜の顔が浮かぶ。

 俺が大事にしようとしていた二人。俺の家族だ。


 朝のキッチンには、パンの焼ける匂いと、炊きたての白米の湯気が混じっていた。


 ……あれは、お互いが自分の意見を尊重した結果だと思っていた。


 違う──ただ、俺がわがままを通しただけ。

 朝の忙しい時間、彼女に負担を掛けているのをわかっていながら、俺は知らないフリをした。サイテーだな。



 ふみかは、いつも忙しいって言って──ちゃんと話し合えばよかったな。

 夫婦なのに、俺たちにはほとんど会話がなかった。

 ふみかが何か言っても、俺はスマホをいじりながら曖昧な返事をして、何を言われたかすら覚えていない。


 ──笑っちまうくらいバカだ。そんなんだから、ふみかに見限られたんだよ。



 心菜は……初めて海に行ったとき、波が怖くて俺にしがみついてたっけ。

 俺が海が苦手だ。でも……パラソルの下には、幸せそうに笑うふみかがいた。


 最後に笑った彼女を見たのはいつだったか。



 ──そうだ、結婚記念日! 9月14日だ! ちゃんと覚えてるぞ。



 ふみかが置いていった離婚届は、引き出しに突っ込んだままだ。


 何でも先伸ばしにするのは、俺のよくないところだ。

 ふみかに、“今さら気がついたの”なんて言われるな──きっと。



 素直に離婚に応じるべきだったのか。

 妻のことを相談した先輩が言ったのは──


「奥さん、まだ32だろ? 違う人生を始めるには十分時間がある。オマエが駄々をこねるのは、相手の時間をムダにしてるのと同じだ。戻って来る見込みがないなら、相手の言う通りにしてやれ。それも愛情だよ」



 俺が何度やり直したいと言っても、彼女から返ってくるのは溜め息だけ。


「あなたは、自分の聞きたいことしか聞いてくれないのね」


 彼女がそうつぶやいたときの表情も、しぐさも全部覚えている。

 でも、それまでの生活のどこに問題があったのか、俺にはまったく想像がつかなかった。



 今、このときまで──



 ホントにバカだ、俺は……。



 ガキの頃から、何にも成長してない。

 面倒くさいことを全部彼女に押し付けて、甘えていただけなんだ。



 俺だって変わりたいんだ。

 そう、強く願う──



「私の話をちっとも聞いてくれないじゃない」



 ゴメン、ちゃんと話を聞くから。

 ここから出たら、今度こそ妻と向き合おう。


 もう絶対先延ばしなんかしたりしない。

 もっとマシな人間になるよ、約束する。




 目も開けられず、頬に感じるのは自分の涙なのか、スライムの粘液なのかわからない。


 ふっと体が軽くなった気がした。




 あ……これがスキルか……。




 意識が途切れ、俺は膝から崩れるように地面に倒れた。

 エサのニオイを嗅ぎつけたスライムたちが、音もなく集まり、ゆっくり俺の体を覆い始めた……。

第一章はここまで。読んでくれてありがとうございます。

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