三
死ぬということを意識した途端、俺は全く動けなくなっていた。夢の中のように柵の中に戻ろうとすることもできず、ただ、その場に座り込み柵にしがみついているだけだ。立ち上がろうにも、風が吹くたびに落ちていくイメージがちらついて、それもままならない。
「おい、高橋! いい加減、動けよな! ほんと、つまんねぇやつ」
「なんだよ。悲鳴くらいあげなきゃつまんねぇじゃねぇか。おい佐立、高橋は期待はずれだったみたいだぞ?」
腰ぎんちゃくの一人に問いかけられた佐立は、押し黙りながら俺を睨んでいた。
そもそも、なぜ佐立はこんな所に立てって言ったんだ? いきなりぶちきれてたけど、その理由は俺にはわからない。顔だけはなんとか動かすことができるので視線を向けると、佐立は先ほどと変わらない表情で、俺を威圧し続けている。
お前は何がしたいんだよ! 俺に何を期待してんだよ!
そう叫びたいが、声が喉元につっかえて出てこない。それもこれも、下から吹き上げてくる強い風と昨日の夢のせいだ。
「そうだな」
佐立がぽつりと呟いた。それが、腰ぎんちゃくの言葉に対する返事だと気づいたのは少し後だ。
「もう、あいつ見ててもつまんねぇし、飯の続きとでもいこうぜ」
そう言って、腰ぎんちゃく達は俺がしがみついている柵から離れると、元いた場所に戻っていく。俺をここに追いやったやつらもそれに続いた。既に皆、俺になんて見向きもせず昼食の続きをすすめていた。
「ちょっと! 置いていかないで助けてよ!」
「は? うるせぇよ。もういいから、さっさとこっちに来いよな」
「来いっていったって、立てないんだ!」
「まじめんどくせぇ。知らねぇよ」
俺が必死に叫んでいるにも関わらず、佐立達は視線も向けずに飯にかじりついている。
それを見て、俺は愕然とした。まず、俺をこんな所に無理やり置いていったのもそうだが、そんなことをしておいて、俺のリアクションがつまらないからとあっという間に飽きて放置。落ちたら命の危険もあるというのに、ありえない。落ちたら死ぬんだぞ? あっけなく、残酷に。
佐立達の様子を見ていたら、俺はなぜだかふと理解した。あいつらから見た俺がどんな存在か、どんな気持ちで俺にこんなことをしたのかを。
虫なんだ。
そう、俺は虫みたいなものだったんだ。あいつらにとっては、その程度のもの。いてもいなくても変わらない、弄ぶだけの命、ただの暇つぶし。
だから、俺を命を落すかもしれない危険に曝そうとも、助けを求められようとも応じない、気にもならない。それは、自分たちとは違う存在だからだ。他でもない俺が、そういう存在だと思われているのだろう。
それを理解した瞬間に生まれた感情は怒り。そう、ただ怒りだけだった。
「ふざけんなよ」
俺がこぼした呟きは、誰にも届かずに地面に落ちる。しかし、俺は声を出すのをやめない。
「ふざけんなよ! おい、待てよこら!」
大声で叫ぶと、ようやく佐立達がこちらに気づく。
「あぁ?」
「ふざけんなって言ったんだ! 人の命を危険にさらしておいて……お前ら、勝手すぎるだろ!?」
柵にしがみつきながら必死で叫ぶ。よほど間抜けな格好をしているだろうが、そんなものは気にならない。それほどまでに、俺の心は怒りで満ちていた。
「なんだよ、高橋。その口の聞き方は」
いらだちながら、にらみながら、こしぎんちゃく達が俺に近づいてくる。別に迫力も何も感じないが、心にこびりついている恐怖を、俺は怒りを燃え上がらせてかき消した。
「はぁ? お前何言ってんの? おら、早くこっちにこいよ。その減らず口、だまらせてやるよ」
容易に怒りが沸点まで到達した腰ぎんちゃく達は、俺がしがみついている柵をけりつけながらそう言った。しかし、俺にはその言葉の内容は届かない。なぜなら、怒りが爆発して俺の頭は既に混乱状態なのだ。冷静に考えることも、理論だてて考えることもなく、ただ感情にまかせて言葉をぶつけるだけ。
「行かない」
「はあ? 何いってんだ、こいつ」
怒りを通り越して呆れ果てたのか、口をぽかんとあける腰ぎんちゃく達。そんなやつらの顔をみながら、俺は続けざまに言葉を叫ぶ。
「お前らが来い」
「は?」
「散々俺のことを馬鹿にしやがって。そんだけ馬鹿にするんだったら、ここに立つくらい余裕だろ? ほら、来いよ! こっちに来いよ!」
そう言いながら、俺はその場に立ち上がる。そして、柵から両手を離した。片手を前に突き出して、佐立達を挑発するように手招きする。下から吹き上げる風も、震えすぎている膝もこの際気にしない。それよりも、俺は沼田や佐立達に虫のように思われていたことが屈辱だったのだ。それに対する怒りが、恐怖に勝っていた。
「ほら、沼田! こっちに来いって言ってんだろ!? 早くしろよ、ほら!」
俺の叫びは屋上中に響き渡る。その必死さはおそらくかなりのものであり、みっともないことこの上ないだろう。しかし、俺はその叫びをやめるつもりはない。
「ふ、ふざけんなよ! なにいって――」
「だってよ。ほら、いけよ沼田」
俺と沼田の会話に唐突に飛び込んでくる声。それは佐立だった。佐立は、俺がやけくそで沼田に言った言葉を後押しする。その事実は俺を驚かせた
「な、なんでおれが!?」
「高橋から金巻き上げてたくらいだ。そんだけのことができんだから、高橋がやってることくらい、余裕でできんだろ? 高橋ができてんのにおまえができないなんてあっちゃならねえ。違うか? なぁ」
圧力を込めた佐立の言葉は妙に説得力がある。そのせいか、言葉を向けられている沼田の顔はすでに青ざめていた。
「待てって! こんなのただのおふざけじゃねえか! 何マジになってんだよ。はは、笑わせんなよ」
「できねぇのか?」
佐立の追撃に沼田は何も言う事ができない。他の取り巻きも、そんな沼田の様子を白い目で見つめていた。俺はその様子をみて、なぜだか愉快な気持ちになった。そして、調子にのってさらに言葉を積み重ねる。
「なんだよできないのかよ! でかいくち聞いといてそれかよ! この弱虫が!」
俺の言葉に、沼田がこれでもかと顔を歪ませながら睨みつけてきた。しかし、ここまで言ってしまったのだ。引き返すことができないこの状況に、俺は開き直りにも似た感情を抱いていた。沼田に対する恐怖はもうほとんどない。自然と笑みを浮かべていた。そんな中、俺は大事なことを忘れていた。
「俺を弱虫って言ってみたかったらな、これくらいしてみせろよ!」
そういって、表情はそのままにその場で飛び上がる。なぜ飛ぼうと思ったのかは、わからない。けど、今以上に沼田を追い込もうと思った結果、飛ぶという選択肢を俺は選んでいた。これだけやれば、沼田も俺を虫を見るような目で見ないだろう。沼田が出来ないことを俺はできたんだ。そんなちっぽけな優越感にひたりながら、俺は屋上の端に着地をしようと足に力を込める。
が、その瞬間に突風が俺を襲った。空中にいる俺の身体はわずかに流されて、俺は屋上から消え去った。
そう、屋上の端にいることを忘れていたのだ。俺は、落ちていく最中、ようやくそのことを思い出した。そして、俺の視線の端に白い髪の少女がうつりこむ。その少女はなぜだか悲しげな笑顔を浮かべている気がした。




