第二章 応答のない電話
その朝は、雨の音で目が覚めた。
六月の半ば、梅雨入りが告げられてから五日目の朝だった。カーテンを開けると、向かいのマンションの外壁が濡れて色を変え、ベランダの手すりに、細かな雨粒が等間隔に並んでいた。目覚ましが鳴る三分前だった。私は鳴る前の目覚ましを止め、台所でやかんを火にかけた。
前の晩、拓也と電話で、ほんの少し言い合いをした。言い合いと呼ぶほどのものでもない。席次表の校正が、予定より早く刷り上がったのだ。拓也は宣言どおり、三十人の名前の横に一人ずつ一言を添えていて、その全部を電話口で読み上げたがった。私は残業で疲れていて、「一言は、なしにせん? 恥ずかしいし、読まれるほうも困るよ」と言ってしまった。
拓也はしばらく黙った。それから、「そうかもね」とだけ言った。いつもなら「えー」と粘るはずの人が、あっさり引き下がったのが、かえって胸に引っかかった。そのまま、どちらからともなく「おやすみ」と言って電話を切った。
窓ガラスを伝う雨筋を見ながら、拓也がいつか言っていたことを思い出した。雨の日は、刷る前の紙が湿気を吸うけん、インクの色がちょっと沈むとよ。だけん梅雨の時期は、機械の横に除湿機を三台並べるっちゃん。工場の人は、紙の機嫌をとるのが仕事の半分やって言いよる。そう話す拓也の顔が、自分の仕事を自慢するときだけの、少年のような顔だったことも。
食パンを焼き、牛乳を温めて飲んだ。手帳を開き、今日の欄を確かめる。黒のペンで〈工務店三件 納期回答〉〈月次の締め〉。青いペンで〈席次表 校正 拓也〉。昨夜、電話を切ったあとに、自分で書き足したものだった。
駅へ向かう途中で、携帯が鳴った。傘の柄を肩と顎の間に挟んで、鞄の中を探った。
「おはよ。起きとった?」
拓也の声は、いつもどおりだった。いつもどおりにしようとしているのが、少しだけ分かる声でもあった。
「起きとったよ。いま駅に向かいよる」
「昨日のさ、一言のこと」
「うん」
「全部やめるとやなくて、沙織が嫌なとこだけ消すとはどう? 赤ペンで。品番のときみたいに」
私は横断歩道の手前で立ち止まった。信号は赤で、車が水しぶきを上げて目の前を通り過ぎていった。
「……考えとく」
「今夜電話するけん。そん時、一人ずつ決めよ。校正、持って帰るけん」
「うん。分かった」
「沙織」
「なに」
「傘、持っとう?」
「持っとうよ。いま差しよるやん」
「ほんなら、よか」
拓也は笑って、それから「行ってらっしゃい」と言った。私は「行ってきます」と言いかけて、信号が青に変わったので、その言葉を言い終える前に通話を切った。駅の階段を下りながら、もう一度かけ直そうかと思った。けれど、改札の前は人で混み合っていて、私は携帯を鞄にしまった。今夜、電話がある。そのとき、ちゃんと言えばいい。
支店のあるビルの入口には、濡れた傘を入れる細長い袋の箱が置かれていた。エレベーターの床には靴の跡が重なり、六階で扉が開くと、事務所の空気はいつもより重く湿っていた。
「おはようございます。すごい雨ですね」
森下さんが、ハンカチで鞄の水滴を拭きながら言った。
「梅雨やけんね」
「高橋さん、式の日は晴れるといいですね。七月なら、もう明けてるかな」
「明けとってほしいね」
朝礼のあと、電話は途切れることなく鳴った。雨で現場の工事が止まった工務店から、納期を後ろにずらしてほしいという連絡が三件続けて入り、その一件ずつについて、工場の出荷を止められるかどうかを確かめた。止められるものは止め、止められないものは倉庫で預かる手配をする。一件終えるたびに、手帳の黒い字に線を引いた。
昼は、机でおにぎりを一つ食べた。窓の外では、雨が博多駅の方角の空を白く塗りつぶしていた。森下さんが給湯室から戻ってきて、「午後、もっと強くなるらしいですよ」と言った。
夕方になって、月次の締めの数字が一か所だけ合わないことが分かった。伝票を一枚ずつめくり、入力した画面と見比べていく。こういう作業は嫌いではなかった。合わない数字には、必ずどこかに理由がある。それを見つけるまで、私はたいてい手を止めない。
数字を追う手を止めて、私は一度だけ手帳を開いた。青いペンで、今夜決めることを書き出しておこうと思ったのだ。〈千夏 残す〉。書いてから、自分で笑いそうになった。たぶん泣かせにくる、と書かれた千夏の一言だけは、昨夜聞いたときから、消したくないと思っていた。恥ずかしいと言ったのは、全部を一度に読み上げられたからで、一つずつなら、きっと半分以上は残せる。今夜、電話でそう言えばいい。朝、言いそびれた「行ってきます」と一緒に。
六時を過ぎると、事務所の人影はまばらになった。森下さんが「お先に失礼します」と頭を下げ、営業の人たちも次々に帰っていった。窓ガラスを叩く雨の音が、昼間よりはっきり聞こえるようになった。
六時五十分、机の上で携帯が短く震えた。拓也からのメッセージだった。
〈いま会社出た。九時ごろ電話する〉
私は画面を見て、返事を打とうとした。そのとき、合わなかった数字の理由が、目の端の伝票に見えた気がした。返事はあとでいい。伝票を引き寄せ、指でなぞる。やはりそうだった。同じ注文が、二重に入力されていた。
私は携帯を伏せたまま、修正の作業に取りかかった。
斜め向かいの課長席では、野中課長がまだ書類を読んでいた。老眼鏡を鼻まで下ろし、ときどき赤ペンで何かを書き込んでいる。七時を回った頃、課長は眼鏡を額に押し上げて、私のほうを見た。
「高橋さん、まだかかるね」
「あと少しです。二重入力が一件あって」
「見つけたとなら、明日でもよかろうもん」
「今日のうちに直しておきたいので」
「……無理せんごと」
課長は短く言って、また書類に目を戻した。
修正を終えて保存したのは、七時四十分だった。肩を回し、伏せていた携帯を表に返したとき、画面が明るくなって、着信の表示が浮かんだ。知らない番号だった。市内の局番から始まる、固定電話の番号。
「はい、高橋です」
「夜分に恐れ入ります。こちら、警察の者ですが」
男の人の声だった。抑揚が少なく、一つひとつの言葉を、書いてある紙から読み上げているように聞こえた。
「鈴木拓也さんのお知り合いの方で、間違いないでしょうか。鈴木さんの携帯電話の、最後の通話の相手の方が、こちらの番号でしたので」
最後の通話。今朝の、駅へ向かう途中の電話だ。
「はい。……婚約者です」
「鈴木さんが、本日の午後七時過ぎ、交通事故に遭われまして。現在、病院に搬送されています。ご家族の方にも、いま連絡を取っております」
男の人は、病院の名前と場所を言った。私はそれを聞いていた。聞いていたはずだった。けれど、耳に入った言葉は、どこにも引っかからずに頭の中を素通りしていった。交通事故。搬送。病院。ニュースの中でしか聞いたことのない言葉が、私の携帯から聞こえていた。
携帯を握る指から力が抜けた。端末は机の端に当たり、床に滑り落ちた。拾い上げようと屈んで、自分の手がひどく震えていることに気づいた。指先が、携帯の縁を何度もつかみ損ねた。
「高橋さん」
いつの間にか、野中課長が私の横に立っていた。課長は私より先に携帯を拾い上げ、画面を見て、それから耳に当てた。
「お電話代わりました。高橋の上司の野中と申します。……はい。はい。……すみません、もう一度、病院の名前を」
課長は私の机のメモ用紙を引き寄せ、ボールペンで病院の名前と住所を書きつけた。その字が、いつもより大きく、角ばっていた。
「分かりました。すぐに向かわせます。ありがとうございます」
電話を切ると、課長はメモを私の手に握らせ、自分の机の電話を取ってタクシーを呼んだ。その間に私の鞄を椅子から取り上げ、私の肩にかけた。私の傘が傘立てにあるのを見て、首を振り、自分の大きな黒い傘を持ってきた。
「おれも一緒に行く。下で待っとこう」
「課長、でも」
「でも、はなし。そん手で、一人でタクシーに乗せられんよ」
エレベーターの中で、課長は何も言わなかった。私は、エレベーターの扉に映る自分の顔を見ていた。口が半分開いていた。閉じようとしても、うまく閉じられなかった。
タクシーは、ビルの前の車寄せにすでに着いていた。後部座席に乗り込むと、ワイパーが規則正しくフロントガラスを拭っては、また雨に覆われていった。課長が運転手にメモを見せ、行き先を告げた。
私は鞄から携帯を出し、拓也の番号を押した。
呼び出し音が鳴った。一回、二回、三回。私は数えていた。七回目で音が途切れ、録音された女の人の声が、ただいま電話に出ることができません、と言った。
もう一度、押した。呼び出し音。七回。同じ声。
もう一度。
「高橋さん」
課長が、横から小さく声をかけた。私は首を振り、もう一度番号を押した。出られないのは、きっと手が離せないからだ。病院で、何かの手当てを受けているからだ。だから、出られないのは当たり前で、それでも鳴らしていれば、いつか誰かが出るかもしれない。出たら、拓也が「ごめん、ちょっと転んだ」と言うかもしれない。
五回目の録音の声を聞いたあと、私は和子さんの番号を押した。
一回目の呼び出し音が鳴り終わる前に、和子さんが出た。
「沙織ちゃん」
その声だけで、和子さんが泣いていることが分かった。
「警察から、電話のあって……いま、お父さんと、車で向かいよる。沙織ちゃんにも、連絡のいったと?」
「はい。いま、タクシーで」
「そう。そう……沙織ちゃん、気をつけてきんしゃい。慌てんでよかけん。慌てんで……」
和子さんの声の後ろで、車のウインカーの音が鳴っていた。お父さんが運転しているのだと思った。電話を切ると、課長が黙ってポケットティッシュを差し出した。私は泣いていなかった。それでも受け取って、膝の上で握りしめた。
窓の外を、雨に滲んだ信号の赤が流れていった。交差点に差しかかるたびに、私は横断歩道を見ていた。傘を差した人たちが、白い線の上を渡っていく。拓也は、どこの交差点にいたのだろう。何時に会社を出て、どの道を歩いていたのだろう。私は携帯の画面を戻し、六時五十分のメッセージをもう一度見た。〈いま会社出た。九時ごろ電話する〉。その下に、私の返事はなかった。
病院の夜間の入口は、建物の裏手にあった。課長が先に降りて傘を開き、私の頭の上に差しかけた。自動扉の向こうに警備員の窓口があり、課長が事情を告げると、警備員は内線で何かを確かめ、廊下の奥を指さした。
病院の白い廊下は、消毒液の匂いに満ちていた。床は磨かれていて、天井の蛍光灯がその上に、白く長い線になって映っていた。足が震え、一歩進むごとに床が傾く。私は壁の手すりに手を添えて歩いた。後ろから、課長の濡れた靴の音がついてきた。
廊下を曲がったところで、処置室と書かれた扉が見えた。その前に、拓也のご両親が立っていた。
お父さんは、家で着ている灰色のカーディガンのままだった。両手を体の横に下げ、扉をまっすぐに見ている。その隣で和子さんが、ハンカチを握りしめていた。和子さんの目から、涙が静かにこぼれ落ちていた。声は出ていなかった。拭うこともせず、涙はただ、頬を伝って顎の先から落ちていた。
和子さんが私に気づき、手を伸ばした。私はその手を取った。冷たい手だった。私の手も、同じくらい冷たかったと思う。
言葉を交わすこともできず、ただ互いがそこにいることを確かめるように、私たちは並んで立っていた。
課長は、少し離れた場所でご両親に深く頭を下げた。
「九和住設の野中と申します。高橋の上司です。……このたびは」
課長はそこで言葉を切った。何を言えばいいのか、課長にも分からなかったのだと思う。お父さんが小さく頭を下げ返すと、課長は私のほうへ向き直り、声を落とした。
「おれは、これで失礼する。会社のことは、何も考えんでいい。何かあったら、夜中でもいいけん、電話して」
課長は黒い傘を私の横の長椅子に立てかけ、来た廊下を戻っていった。濡れた靴の跡が、白い床に点々と残っていた。
それから、どのくらい待ったのか分からない。処置室の扉の上の、赤いランプが灯ったままだった。和子さんは私の手を離さなかった。お父さんは一度も座らなかった。
和子さんは、しばらくすると、私の手を握ったまま話し始めた。誰に向けているのでもない、小さな、途切れない声だった。
「昨日の晩もね、あの子、電話してきたとよ。席次表に、親戚の肩書きをどう書いたらいいかって。博多の叔父さんは、もう会社辞めとるけん、前の会社の名前書いたら怒るやろうかって。そげんこと、本人に聞けばよかろうもんって言ったら、聞いたら一言書くの断られそうやけん、って笑いよって。最後に、沙織に怒られた、ってぼやいとった。一言は恥ずかしいって言われたって。でも、あの子、嬉しそうやったとよ。怒られたって言いながら、ずっと嬉しそうやった……」
和子さんの声は、そこでほどけるように途切れた。私は、昨夜の自分の言葉を思い出していた。一言は、なしにせん? あのとき拓也が黙った数秒の間に、電話の向こうで彼がどんな顔をしていたのか、私は知らない。
お父さんが、扉を見たまま「母さん」とだけ言った。和子さんは頷き、それきり口を閉じた。
廊下の突き当たりに、お手洗いの表示が見えた。私は和子さんの手をそっと外し、そちらへ歩いた。洗面台の鏡に映ったのは、会社で羽織っている紺のカーディガンを着た、いつもの私だった。髪の先が雨で湿っている以外は、何も変わっていない。朝、駅へ向かう前に整えた前髪も、そのままだった。こんな顔のままで、ここにいていいのだろうかと思った。蛇口をひねり、冷たい水で手を洗った。指の震えは、水の中でも止まらなかった。
戻ると、お父さんはさっきと同じ場所に、同じ姿勢で立っていた。
廊下の向こうから、走ってくる足音が聞こえた。
「お母さん」
真由ちゃんだった。髪が雨で額に張りつき、保育園で着ている、胸に動物の刺繍がついたエプロンをしたままだった。延長保育の当番だったのだと、あとで聞いた。
「お兄ちゃんは? お兄ちゃんは、どうなっとうと」
和子さんが首を振った。分からない、という意味の首の振り方だった。真由ちゃんは私を見て、何か言おうとして、口を閉じた。それから、私の空いているほうの手を握った。三人で並んで、扉を見ていた。
廊下の壁に、丸い時計が掛かっていた。私は、その針が九時を指すのを見ていた。
九時。拓也が電話をくれるはずの時刻だった。私は鞄の中の携帯を、服の上から押さえた。鳴らなかった。
九時を一分過ぎ、二分過ぎた。拓也は、約束の時刻に三分遅れただけで謝る人だった。五分過ぎても、十分過ぎても、鞄の中は黙ったままだった。
やがて、扉の上のランプが消えた。扉が開き、緑色の服を着た医師が出てきた。まだ若い医師だった。マスクを顎の下まで下ろし、私たち四人の顔を順番に見て、それから、深く頭を下げた。
その瞬間、世界から音が消えた。
医師の口が動いている。手術帽の下の額に、汗が光っている。お父さんが何か尋ね、医師が答えている。けれど、その言葉は、私の耳に届く前にどこかで形を失い、意味のない音の切れ端になって床に落ちた。病院に着いたとき。できる限りのこと。午後八時。その切れ端のいくつかを、私はあとになってから拾い集めた。
和子さんの手が、私の手の中で一度だけ強く握られ、それから力を失った。真由ちゃんの体が、私の肩にぶつかるように崩れた。お父さんは、医師に向かって頭を下げていた。腰から折れるように、長い間、頭を下げていた。
「先生」
顔を上げたお父さんが、低い声で言った。
「あの子は……痛かったとでしょうか」
医師は少し間を置いてから、ここに運ばれてきたときには、もう意識はなかったと答えた。お父さんは「そうですか」と言い、もう一度だけ頭を下げた。その問いと答えだけは、なぜか、音を失った世界の中で、私の耳にはっきりと届いた。
涙さえ、出なかった。私の目は乾いていて、瞬きをするたびに、まぶたの裏が擦れるように痛んだ。泣かなければいけないと思った。今ここで泣かないのはおかしいと、頭のどこかで分かっていた。それなのに、涙はどこからも出てこなかった。自分の体のどこかが、知らない間に閉じられてしまったようだった。
看護師に案内されて、私たちは処置室の隣の、小さな部屋に入った。
拓也は、白い布をかけられて、寝台の上に横たわっていた。
看護師が顔の布をめくると、和子さんが短い声を上げた。拓也の顔は、思っていたよりもずっときれいだった。額の生え際に小さな擦り傷があり、髪がまだ湿っていた。目は閉じていて、口元は、眠っているときと同じように、ほんのわずかに開いていた。
「拓也……拓也、なんで……」
和子さんが寝台に取りすがり、拓也の顔を両手で挟んだ。真由ちゃんが「お兄ちゃん」と叫んだ。それは、私が聞いたことのない声だった。保育園の子どもたちを呼ぶ声とも、兄を小突くときの声とも違う、喉の奥が裂けるような声だった。
お父さんは、寝台の足元に立っていた。長い間、息子の顔を見ていた。それから一歩近づき、白い布の上から、拓也の胸に手のひらを置いた。
「……拓也」
それだけだった。お父さんは、手を置いたまま動かなかった。
私は、寝台の横に立っていた。手を伸ばせば、拓也の手に届く場所だった。布の端から、右手の指先がのぞいていた。私は手を伸ばした。伸ばして、拓也の指まであと数センチのところで、私の手は止まった。どうしても、その先へ動かなかった。触れたら、冷たいのが分かってしまう。分かってしまったら、もう戻れない。私は宙に浮いたままの自分の手を見ていた。
布の端からのぞく左の手首に、いつもの時計がなかった。白い文字盤の、銀色の三本の針。あの時計のない拓也の手首を、私は五年の間、一度も見たことがなかった。処置のときに外したのだと、看護師が小さな声で言った。
部屋を出ると、廊下に制服の警察官が二人立っていた。年かさのほうが帽子を取り、お父さんに向かって頭を下げた。
「このたびは、お悔やみ申し上げます。事故の状況について、簡単にご説明させていただきます」
警察官の声は、電話で聞いたのと同じ声だった。私は長椅子に座り、その声を壁越しのように聞いていた。会社の近くの交差点。青信号の横断歩道。右折してきた乗用車。運転していたのは、高齢の男性。雨で、視界が悪かった。詳しいことは、これから。
お父さんは、一つ一つに「はい」と答えていた。一度も聞き返さなかった。警察官が手帳を閉じ、もう一度頭を下げて去っていくと、お父さんは長椅子の端に、初めて腰を下ろした。両手を膝の上で組み、その手を、ずっと見ていた。
看護師が、透明な袋と、拓也の鞄を持ってきた。袋の中には、財布と、鍵と、携帯が入っていた。携帯の画面にはひびが入っていて、その下で、着信を知らせる小さな光が点滅していた。私がかけた電話だった。五回分の、私の名前だった。
和子さんが、拓也の鞄を胸に抱いた。鞄の口から、角の濡れた大きな封筒がのぞいていた。和子さんはそれを引き抜き、表に書かれた文字を見て、私に差し出した。
「これ、沙織ちゃんのやろ」
封筒には、拓也の会社の名前が刷られていて、その下に、彼の字で〈席次表 校正〉と書いてあった。
私は封筒を受け取った。濡れた角が、指に冷たかった。
日付が変わる頃、病院の人が、これからの段取りについてお父さんと話していた。拓也をどこへ連れて帰るのか。誰に知らせるのか。お父さんは低い声で答え、和子さんは長椅子でうなだれ、真由ちゃんは和子さんの肩を抱いていた。私は封筒を膝に載せたまま、廊下の時計を見ていた。秒針が、文字盤の上を休みなく回っていた。
「沙織ちゃん」
話を終えたお父さんが、私の前に立った。
「今夜は、いったん帰り。タクシー、呼んでもらったけん」
「でも、私も」
「明日からが、長かけん。あんたが倒れたら、拓也が困る」
お父さんの声は低く、どこも震えていなかった。けれど、組んでいた手の指が、白くなるほど互いを握りしめていた。私は頷くしかなかった。
真由ちゃんが、夜間の入口まで送ってくれた。自動扉の前で、彼女は私の腕をつかんだ。
「沙織さん。……明日、電話するけん。絶対出てね」
「うん」
「絶対よ」
真由ちゃんの目は真っ赤に腫れていて、エプロンの胸の動物の刺繍が、涙で濡れて黒ずんでいた。
タクシーの中で、私は封筒を膝に抱えたまま、何も考えられなかった。考えようとすると、頭の中に白い霧がかかった。運転手は一度も話しかけてこなかった。雨は少しも弱まっていなかった。
車は天神の交差点を抜けた。今月の初め、地下街の洋食屋を出たあと、拓也と並んで信号を待った交差点だった。あの夜、信号が青に変わる前に、彼は時計を見た。何を確かめたのか、私は聞かなかった。聞いておけばよかったと思った。それが、その夜に私が考えられた、ただ一つのことだった。
マンションの部屋の鍵を開け、明かりをつけずに中へ入った。濡れた靴を脱ぐことも忘れて、私は玄関の上がり口に座り込んだ。廊下の先の窓から、街灯の明かりが差し込み、床の上に、雨粒の影がまだらに揺れていた。
課長の黒い傘を、病院の長椅子に置いてきてしまったことに、そのとき気づいた。
鞄から携帯を出し、千夏の名前を画面に呼び出した。小倉の母の番号も、その下にあった。どちらかに知らせなければいけないと思った。けれど、発信の印に指を置いたまま、私はそれを押すことができなかった。口に出したら、それは本当のことになる。誰かに言った瞬間から、拓也がいないことが、この部屋の外でも始まってしまう。私は画面を消し、携帯を床に伏せた。
どのくらいそうしていたのか分からない。気がつくと、私は台所のテーブルの前に座り、封筒から席次表の校正を取り出していた。角の濡れた紙は、端が波打っていた。
罫線の上に、三十人の名前が並んでいた。その一人ずつの横に、昨夜電話口で拓也が読み上げようとした一言が、きちんと刷られていた。そして、その刷られた文字の上に、鉛筆で、細い線が何本も引かれていた。
〈沙織に聞く〉
千夏の名前の横に、拓也の字でそう書いてあった。その下の名前にも、またその下の名前にも。〈沙織に聞く〉〈沙織に聞く〉〈これは残したい〉〈沙織に聞く〉。三十人分の名前の横に、拓也は今夜、私と一つずつ決めるための印をつけていたのだった。
私は鉛筆の文字を、指でなぞった。紙の上で、鉛筆の粉がわずかに擦れた。
携帯を取り出し、拓也の番号を押した。呼び出し音は鳴らず、すぐに録音の声が流れた。電源が入っていないか、電波の届かないところに。病院の袋の中で、あの携帯はもう、どこにもつながらなくなっていた。
私は画面を戻し、六時五十分のメッセージを開いた。〈いま会社出た。九時ごろ電話する〉。その下の、空いたままの場所に、指を置いた。
〈了解。気をつけてね〉
送信を押した。メッセージは送られ、画面の上で、既読の印がつかないまま止まっていた。私は画面が暗くなるまで、それを見ていた。暗くなるたびに指で触れて、明るくした。何度も、何度も。
窓の外が、いつの間にか灰色に変わり始めていた。雨はまだ降っていた。屋根を打つ音も、ベランダの手すりを伝う音も、昨日の朝、目覚ましの三分前に聞いた音と、何一つ変わっていなかった。
その夜、私は一度も泣かなかった。テーブルの上の席次表の、鉛筆の〈沙織に聞く〉を見つめたまま、朝が来るのを待っていた。待っていれば、電話が鳴るような気がしていた。




