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十二年目のウェディングドレス  作者: 久遠 睦


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第一章 光の街、喜びの心

ドレスの店は、天神の大通りから一本裏に入った古いビルの二階にあった。狭い階段の踊り場に大きなオリーブの鉢が置かれていて、伸びすぎた枝の先が、上ってくる客の肩をかすめる。五月の終わりの土曜日、私はその枝をよけながら階段を上がり、予約の時刻より十分も早く、ガラス扉の前に着いてしまった。

後ろからついてきた拓也が、扉の手前でぴたりと足を止めた。

「おれ、ここまでにしとく」

「中まで来てもよかとよ。お店の人も、新郎さんもどうぞって言いよったし」

「当日まで見らん。そう決めとうと」

拓也は、階段の下に置かれた古い木のベンチを顎で指した。ビルの管理人さんが昼休みに腰かけていそうな、背もたれの塗装が剥げたベンチだった。

「あそこで待っとく。何時間かかってもよかけん」

「二回目やけん、そんなにかからんよ」

「ほんなら、なおさら待てる」

そう言って、彼は左の手首を返し、腕時計に目を落とした。白い文字盤に銀色の針が三本だけの、飾り気のない時計。お父さんから就職祝いにもらったものだと、付き合い始めてすぐに聞かされた。拓也は、急いでいないときでもその時計を見る。見て、何かを確かめたように小さく頷き、また顔を上げる。癖なのだと本人は言うけれど、私にはそのしぐさが、自分がいま立っている場所と時刻を、一つずつ覚えておこうとしているように見えた。

「十時五十分。行ってらっしゃい」

扉を押すと、乾いた鈴の音が鳴った。

一回目の試着のとき、私はもう心を決めていた。店の奥の、壁一面に吊るされた白の中から、担当の女性が迷わず一着を出してくれる。生成りに近い白のサテンで、スカートにはレースも刺繍もない。肘までの袖だけが薄いレースになっていて、背中には小さなくるみボタンが縦に一列、首の付け根から腰まで並んでいる。

「やっぱり、こちらだと思うんです。前回も、鏡をご覧になった瞬間にお顔つきが変わりましたから」

担当の女性は、私より二つ三つ年上に見えた。ボタンを下から一つずつ留めてもらう間、私は鏡の中の自分ではなく、鏡の縁に貼られた付箋を見ていた。〈七月 鈴木様・高橋様〉。私たちの名前が、まだ別々の姓のまま、細いボールペンの字で並んでいる。

「はい、できました。前をご覧になってください」

顔を上げると、知らない人が立っていた。いや、知っている顔だ。毎朝洗面所で見ている、眉の薄い、三十二歳の私だ。それなのに、肩から腰へまっすぐ落ちる布の線が、その顔をどこか遠くの人のように見せていた。

私がこの一着を選んだのは、動いても音がしないからだった。前回、試しに店の中を歩いてみたとき、ほかのドレスは裾が床をこする音や、重ねた薄布が擦れ合う音を立てた。この一着だけは、私が歩いても何も言わなかった。

「裾はこのくらいでよろしいですか。当日の靴をお持ちいただいたので、それに合わせて三センチほど上げますね」

「はい。転ばないくらいで、お願いします」

「お直しは六月の末に仕上がりますので、最後にもう一度、合わせにいらしてください。お式まで、ちょうどひと月を切ったあたりになります」

担当の女性は、私の腰のあたりに待ち針を打ちながら言った。

「新郎様は、今日も外でお待ちですか」

「はい。当日まで見ないって」

「最近は、写真を送ってほしいとおっしゃる方がほとんどなんですよ。お撮りしましょうか。新郎様には内緒で、お友達にでも」

私は迷ってから、鞄から携帯を出して渡した。大学時代からの友達の千夏に、写真を送れと念を押されていたのだ。正面から一枚、横から一枚。背中のボタンが写るように、後ろから一枚。画面の中の私は、慣れない笑い方をしていた。

着替えて階段を下りると、拓也はベンチで背中を丸め、膝の上の手帳に何か書きつけていた。仕事用の、表紙の角が擦り切れた黒い手帳だった。私の足音に気づくと、彼は慌てて手帳を閉じ、それから時計を見た。

「四十分。思ったより早かったね」

「言ったやろ、そんなにかからんって」

「で、どうやった」

「秘密」

「そうよね。当日の楽しみやけん、言わんでよか」

彼は立ち上がり、ズボンの埃を払ってから、私の顔を覗き込んだ。

「……でも、ほんのちょっとだけ言って」

「見らんって決めたっちゃろ」

「見るとと聞くとは、違うやん」

私は笑って、階段の上のオリーブを指さした。

「あの枝くらい、まっすぐやった」

拓也は真剣な顔で踊り場を見上げた。伸びすぎた枝は、窓のほうへ斜めに傾いていた。

「……曲がっとうやん」

「だけん、言わんって言ったと」

五年前、私が最初に覚えた拓也のしぐさも、あの時計を見るしぐさだった。

当時の私は、今と同じ九和住設の福岡支店で営業事務をしていた。博多駅から歩いて五分ほどのビルの六階で、住宅設備の受注と納期を管理する。工務店から電話で入る注文を伝票に起こし、工場の出荷予定と突き合わせ、ときには外回りの営業の代わりに受話器へ向かって頭を下げる。それが私の一日だった。

その年の秋、支店で配る新しい商品カタログの印刷を、地元の博栄印刷が請け負った。色校正の束を抱えて受付に現れたのが、入社六年目の鈴木拓也だった。

「博栄印刷の鈴木です。カタログの校正、お持ちしました」

担当の営業は外回りに出ていて、代わりに私が応接スペースで校正を受け取ることになった。拓也はテーブルに紙を広げる前に、左の手首を返して時計を見た。

「すみません、五時半に会社に戻らんといかんので、二十分だけよかですか」

二十分と言った人が本当に二十分で帰るところを、私はそれまで見たことがなかった。拓也は時計に目をやりながら要点だけを説明し、私が付箋を貼った箇所を一つずつ自分の手帳に書き取って、きっかり十九分で立ち上がった。

その夜、私は部屋で校正の写しをめくっていて、洗面化粧台の品番が一桁ずれていることに気づいた。誰が見ても気づかないような、数字の並びの違いだった。翌朝いちばんに博栄印刷へ電話をかけると、出たのは拓也本人だった。

「え、ほんとですか。……あ、ほんとや。うわ、すみません。助かりました」

電話の向こうで紙をめくる音がして、続けて何かが床に落ちる音がした。

「高橋さんって、全部の数字、見よるとですか」

「見ますよ。お客さんは、数字で注文されますから」

その日の夕方、拓也は直した校正を持って、もう一度支店に来た。応接スペースのテーブルに置かれたのは、校正の封筒と、缶入りのほうじ茶だった。買ったばかりなのか、缶の表面に細かな水滴が浮いていた。

「お礼です。こんなもんで、すみません」

「お仕事ですから」

「そうなんですけど。なんか、仕事以上に見てもらった気がして」

帰りぎわ、彼はまた時計を見た。それから、時計とは関係のない顔をして言った。

「今度、校正やなくて、ご飯でもどうですか」

最初の食事は、博多駅の地下の、天ぷらを一つずつ揚げて出してくれるカウンターの店だった。拓也は揚がるたびに「うまっ」と言い、私は彼が「うまっ」と言うたびに笑った。三回目に会った帰り、天神の駅の改札の前で、彼は人の流れに押されながら「おれ、高橋さんのこと、ばり好いとうよ」と言った。私は返事の代わりに、何度も頷くことしかできなかった。

試着の日の夜、小倉の母から電話がかかってきた。母の電話は、いつも用件から始まる。

「ドレス、どうやったね」

「決めてきた。背中にボタンがいっぱいついとるやつ」

「そうね。写真は」

「千夏に送った」

「お母さんには送らんと?」

「送り方、分からんって言いよったやん」

母は少し黙り、それから、受話器の向こうで誰かに話しかけた。父がそばにいるらしかった。

「お父さんがね、当日は背広でよかかって。紋付きは嫌って」

「よかよ。友達だけの式やけん、背広で」

「それから、拓也さんに伝えといて。お父さん、釣りの話ができる婿が来るって、この前から喜んどるけん」

拓也は、一度だけ小倉の実家に挨拶に来たことがある。口数の少ない父と、二時間ほどの間に、なぜか関門海峡の潮の流れの話で盛り上がっていた。帰りの新幹線で、何の話やったと、と聞くと、拓也は「なんの話か、おれもよう分からんかった」と言って笑った。

「お母さん」

「なんね」

「ありがとう」

「なんね、急に。早よ寝なさい」

母はそう言って、自分から電話を切った。切れたあとの小さな音が、耳の奥にしばらく残っていた。

六月に入って最初の月曜日、支店の朝礼で、野中課長が手元の紙から目を上げた。

「それから、もう一件。高橋さんの七月の休暇、届けが出とりますので、その週の納期回答は前倒しでお願いします。……ま、そういうことです」

まばらな拍手が起こり、私は頭を下げた。野中課長は五十を過ぎたばかりで、老眼鏡をいつも額の上に押し上げていて、書類を読むときだけそれを鼻まで下ろす。口癖は「無理せんごと」で、言われた側が無理をしているときほど、その言い方が短くなる。

席に戻ると、隣の机の森下さんが椅子ごと寄ってきた。入社二年目の、私の仕事をいちばん近くで覚えてくれている後輩だ。

「高橋さん、ドレス、決まったんですか」

「うん。土曜日に二回目の試着してきた」

「写真ないんですか、写真」

「ない」

「絶対あるやつじゃないですか、その言い方」

森下さんが笑ったところで、私の机の電話が鳴った。早良区の工務店からだった。ユニットバスの納期を一週間早められないかという相談で、私は工場の出荷予定表を画面に呼び出し、同じ型番の在庫を三つの倉庫で探した。二つ目の倉庫に一台だけ残っているのを見つけ、営業に連絡を回し、工務店に折り返す。受話器を置いてから、手帳の今日の欄に黒のペンで〈ユニットバス 納期前倒し 済〉と書いた。

その同じ手帳の、ページの下のほうには、青いペンで別の文字が並んでいる。〈席次表 拓也〉〈引き出物 最終数〉〈ドレス お直し 六月末〉。仕事は黒、式のことは青。そう決めて書き分けるようになってから、手帳を開くたびに、青い字が日ごとに増えていくのが分かった。

昼休み、給湯室で湯を注いでいると、野中課長が空の湯呑みを持って入ってきた。

「高橋さん、式は友達だけでやるっちゃろ」

「はい。家族と、友達だけです」

「そりゃよかった。上司のスピーチなんか頼まれたら、おれ、三か月前から眠れんごとなるけん」

課長は自分の湯呑みに湯を注ぎ、それから、急須の蓋を押さえたまま言った。

「式の前に倒れたら、元も子もないけんね。無理せんごと」

「はい」

「鈴木くんにも、よろしく言うといて。あのカタログ、いまだに一番見やすいって評判やけん」

課長は、私たちのなれそめを知っている数少ない人の一人だった。品番の一桁を見つけた翌週、拓也がもう一度校正を持ってきたとき、たまたま応接スペースの横を通りかかって、「博栄さん、今度から高橋さんに全部見てもらい」と言ったのが課長だった。

その日の仕事を終えたのは、六時を少し過ぎた頃だった。博多駅から地下鉄に乗り、天神で降りる。改札を抜けて地下街に入ると、石畳の床がまっすぐに続き、唐草模様の天井の下を、仕事帰りの人たちが流れていく。靴の踵が石を打つ音が、天井に吸い込まれて柔らかく返ってくる。ここは、仕事帰りの私たちの定番の待ち合わせ場所だった。

地下街の南の端に近い洋食屋は、卵を半熟のまま包んだオムライスが名物で、入口の脇にいつも同じ白い陶器の猫が置いてある。拓也が来る前に、私は奥の二人席に座り、手帳の青い字をもう一度確かめた。

約束の時刻を三分過ぎて、拓也が入ってきた。上着を腕にかけ、額にうっすら汗を浮かべている。席に着くより先に、彼は時計を見た。

「三分。ごめん、帰りがけに部長に捕まった」

「三分なら、遅刻のうちに入らんよ」

「入る。おれの中では入るとよ」

オムライスを二つ頼むと、拓也は鞄から四つ折りの紙を取り出して、テーブルの上に広げた。片面には、色のずれたチラシが刷られている。刷り損じの紙の裏に、彼はわざわざ何かを印刷してきたのだった。

「調べてきたっちゃん。見て」

紙の裏には、花の名前と花言葉が、きちんとした書体で並んでいた。いちばん上に、白いバラ。

「沙織、ブーケはやっぱ白のバラがよかっちゃない? 花言葉、知っとう? 『純潔』とか『あなたにふさわしい』とか、色々あるんよ」

「拓也が言うと、なんか照れるね。でも、よかよ。拓也がいいなら、それがいい」

「おれがいいかどうかやなくて、沙織が持つとやけん」

「拓也が調べてきてくれたっていうのが、いいと」

拓也は、いつものように屈託なく笑った。彼の柔らかな博多弁を聞いていると、一日の終わりに強張っていた肩が、ゆっくりほどけていく。なんしようと? と用もないのに電話をかけてきたり、ばり好いとうよ、と真っ直ぐに伝えてくれたり。私は冷めかけたオムライスにスプーンを入れながら、彼の話の続きを待っていた。

来月、私は結婚式を挙げる。相手は、五年付き合った恋人の鈴木拓也。友達だけを招いた、ささやかな式だ。派手なことが苦手な私たちには、それが一番合っている。籍は、式の朝に二人で区役所へ出しに行くことにしていた。式の日と、夫婦になった日が同じなら、覚える日付が一つで済む。そう言い出したのは、日付を覚えるのが苦手な拓也のほうだった。

オムライスが運ばれてくると、拓也はスプーンを持ったまま、もう一枚紙を取り出した。今度は罫線だけが引かれた、まだ何も書かれていない席次表の下刷りだった。

「席次表、うちの会社で刷るけん。来週には校正出す」

「プロに頼むと、なんか大げさやね」

「おれがプロやけん、大げさでよかと。名前の横に、一人ずつ一言入れようかと思いよる。この人は沙織の大学の友達で、こういう人です、みたいな」

「それ、全員分?」

「全員分」

「三十人おるとよ」

「三十人なら、一晩で書ける」

拓也は、土曜日にベンチで広げていた黒い手帳を鞄から出し、付箋のついたページを開いて見せた。千夏の名前の横に、癖のある字で〈沙織の一番の友達。スピーチ担当。たぶん泣かせにくる〉と書いてある。その下にも、何人分かの名前と一言が、窮屈そうに並んでいた。

「ドレスの店で待ちよる間に、半分書いた」

「あのとき書きよったの、これやったと?」

「四十分あったけんね。……沙織の高校の友達のとこは、分からんけん空けとる。あとで教えて」

私は笑って、スプーンの先で彼の皿の端を軽く叩いた。

「今度は私が赤ペン入れる番やね」

「品番、一桁もずらさんけん。見とって」

食べ終わって店を出たのは八時前だった。地下街から階段を上がって地上に出ると、六月の夜の空気が、まだ湿り気を帯びずに頬に当たった。梅雨入りはまだで、ビルの窓という窓に明かりが灯り、交差点を渡る人の影が、車のライトに長く引き伸ばされていた。この街の光は、どこを歩いていても足元まで届く。拓也と並んで歩いていると、そのことがいつも、自分たちのために用意されているように思えた。

「日曜、空いとう?」

信号待ちのとき、拓也が言った。

「空いとうよ」

「おふくろが、がめ煮炊くって。沙織に作り方教えるって張り切っとう」

「ほんと? 行く」

「親父も、たぶんおる。いつも通り、ほとんどしゃべらんと思うけど」

信号が青に変わり、拓也はもう一度時計を見てから歩き出した。何を確かめたのかは、聞かなかった。

日曜日の午後、私たちは電車で大橋へ向かった。駅から十分ほど歩いた住宅街の、緩い坂の途中に、拓也の実家はある。門の脇の紫陽花が、ちょうど色づき始めたところだった。

チャイムを鳴らす前に、玄関の戸が開いた。

「いらっしゃい、沙織ちゃん。暑かったろう。拓也、あんた、なんで沙織ちゃんに荷物持たせとうと。ほら、上がって上がって。スリッパ、新しいのおろしといたけんね」

お義母さん、と呼ぶにはまだ早い鈴木和子さんは、エプロンの紐を結び直しながら、一息にそれだけ言った。私が手土産の菓子折りを差し出すと、「こげんことせんでよかとに」と言いながら、両手で大事そうに受け取った。

居間では、拓也の妹の真由ちゃんが座卓いっぱいに色画用紙を広げていた。保育士をしている真由ちゃんは、式の受付に飾る看板を作ると言って、先月から材料を買い集めているのだという。

「沙織さん、いらっしゃい。見て見て、まだ途中やけど」

画用紙の上には、切り抜かれた花びらが何十枚も並べられていた。真ん中に、平仮名で〈たくや さおり〉と下書きがしてある。

「保育園の子たちの名札作りで、切り抜きだけはばり上手くなったとよ」

「すごい。これ、全部手で切ったと?」

「お兄ちゃんが手伝うって言ったっちゃけど、一枚目で指切りそうになったけん、クビにした」

「クビにされた」

拓也が胸を張って言うと、真由ちゃんは鋏の柄で兄の膝を小突いた。

座卓の奥、窓際の座椅子には、お父さんの鈴木正和さんが座っていた。新聞を四つに畳み、老眼鏡を外して、私に向かって軽く頭を下げる。

「よう来たね」

それだけだった。それだけなのに、私は背筋が伸びるのを感じた。郵便局を勤め上げたお父さんは、南区の道という道を知っていて、どこの家の塀が何色かまで覚えているのだと、拓也から聞いたことがある。

台所では、和子さんが大鍋の前で私を待っていた。

「がめ煮はね、鶏の皮から炒めると。皮の脂で、ほかのもんを炒めるとよ。こんにゃくは包丁やなくて、手でちぎって。断面がぎざぎざのほうが、味がよう染みるけん」

私は言われるままにこんにゃくをちぎり、ちぎった端から鍋に落とした。鶏の脂の匂いが立ち、ごぼうと蓮根と人参が、順番に鍋の中で鳴った。

「うちのがめ煮は、拓也が小さか頃から、ずっとこれやけん。沙織ちゃんにも覚えてもらわんと、あの子、よそのがめ煮食べたら文句言うけんね。この前なんか――」

話の途中で、和子さんの声が詰まった。菜箸を持ったまま、エプロンの裾で目元を押さえている。

「ごめんね、最近、なんでも泣けてくるとよ。あの子が結婚するって思ったら、鍋の湯気だけで涙が出る」

「お母さん、また泣きよる」

居間から真由ちゃんの声が飛んできた。

「泣いとらん。玉ねぎ」

「がめ煮に玉ねぎ入っとらんやん」

台所と居間の間で笑い声が往復し、私は鍋をかき回しながら、和子さんの横顔を見ていた。小倉の実家の台所では、母はいつも黙って料理をする。こんなふうに、しゃべりながら、泣きながら鍋をかき回す人を、私は初めて見た。

夕食は、座卓の色画用紙を片づけて並べた。大皿のがめ煮と、鯵の南蛮漬けと、胡瓜の浅漬け。お父さんの前にだけ、小さなグラスのビールが置かれた。

「お兄ちゃんさ、デートのときも時計ばっかり見よるっちゃないと?」

がめ煮の里芋を箸で割りながら、真由ちゃんが言った。

「見よらん」

「見よる」

私が言うと、真由ちゃんは手を叩いて笑った。

「ほら。沙織さん、嫌やったらちゃんと言わんといかんよ。この人、小学生の頃から、目覚まし時計の秒針ずっと見とるような子やったけん」

「あれは、壊れとらんか確かめよったと」

「毎晩?」

「毎晩」

拓也は真顔で答え、左の手首の時計を、親指の腹でひと撫でした。

「これは、親父がくれたっちゃけん。狂わんとよ」

「わしが選んだとやない」

不意に、お父さんが口を開いた。グラスを持ったまま、目は大皿のほうを向いている。

「母さんが選んだ。わしは、腕時計なんか一回も着けたことがなか」

「お父さんはね、配達のとき、局の時計で全部覚えとったとよ。何時何分にどこの角を曲がるか、頭の中に入っとったけん、時計がいらんかったと」

和子さんが言い添えると、お父さんは小さく鼻を鳴らした。

「拓也」

「なん」

「電池は、切れたら替えにいかんといかんぞ。止めたままにしとったら、時計がかわいそうたい」

「分かっとうって。もう二回替えたもん」

拓也が口を尖らせると、お父さんはそれ以上何も言わず、グラスのビールをひと口飲んだ。その横顔が、ほんのわずかにほころんで見えたのは、私の気のせいではなかったと思う。

食後、真由ちゃんは看板の続きに戻り、私は和子さんと並んで食器を洗った。和子さんは、拓也が小学校の運動会で転んで、泣きながら最後まで走った話をしてくれた。洗い物を拭き終える頃には、私は拓也の小学二年生の担任の先生の名前まで知っていた。

居間に戻ると、真由ちゃんが最後の花びらを貼り終えたところだった。糊のついた指をおしぼりで拭きながら、彼女は看板を壁に立てかけ、少し離れて眺めた。

「沙織さん、ほんとに、うちのお兄ちゃんでよかと?」

「どういう意味」

拓也が座卓の向こうから言ったが、真由ちゃんは兄のほうを見なかった。

「だって、この人、ちっちゃい頃からうちのおやつ半分取るし、ゲームは負けたら電源切るし。……でも、うちが小学校で熱出したとき、迎えに来てくれたとは、いっつもお兄ちゃんやったと。中学生のくせに、自転車の後ろに乗せて」

「その話、いま要る?」

「要る。沙織さんに言っとかんといかんと思って、ずっと取っといたっちゃけん」

真由ちゃんはそれだけ言うと、看板の端からはみ出した糊を指先でこそげ落とし始めた。拓也は黙って、自分の湯呑みに残ったお茶を飲み干した。耳の先が赤くなっているのが、私の座っている場所から見えた。

帰りぎわ、玄関で靴を履いていると、お父さんが門の外まで出てきた。拓也は和子さんに持たされたがめ煮の容器を受け取りに、一度家の中へ戻っていた。紫陽花の前で、私とお父さんの二人きりになった。

お父さんは、しばらく坂の下の街灯を見ていた。それから、私のほうを見ずに言った。

「沙織ちゃん」

「はい」

「籍がどうこうやなか。もう、うちの者やけんね。遠慮はいらん」

私が何か答える前に、拓也が容器の入った紙袋を提げて戻ってきた。お父さんは「気をつけて帰り」とだけ言い、背を向けて家の中へ入っていった。

駅までの坂道を下りながら、私はお父さんの言葉を拓也に伝えた。拓也は立ち止まり、紙袋を持ち替えて、家のほうを振り返った。

「親父がそげんこと言うの、初めて聞いた」

「そうなん?」

「おれにも言ったことないもん、そげん長いの」

拓也はそう言って笑い、また時計を見た。私は、その手首の内側にそっと自分の指を添えた。秒針の動きが、指先に伝わってくるような気がした。

その夜、部屋に戻ってお風呂から上がると、携帯が鳴った。千夏だった。

「写真見た。あんた、あれ反則やろ。背中のボタン、何個あると」

「数えてない」

「数えんね。当日、拓也くんが外すとやろ。大変よ、あれ」

「外すのは、お店の人」

「夢がないねえ」

千夏は大学の入学式で隣の席になってから、ずっと変わらない調子でしゃべる。広告の制作会社で働いていて、いつも締め切りに追われているはずなのに、私の電話にだけは必ず出る。式では、友人代表のスピーチを引き受けてくれていた。

「でさ、スピーチ。品番が一桁ずれとった話、使ってよか?」

「それは、よかよ」

「あと、三回目のデートで、改札の前で好いとうって言われて、頷くしかできんかった話」

「なんで知ってるの」

「あんたが言ったっちゃん、あの晩。泣きながら電話してきて」

「泣いてなかった」

「泣いとった。鼻すすりよった」

私は布団の上に寝転び、天井を見上げて笑った。千夏も電話の向こうで笑っていた。

「あんたさ、拓也くんの前やと、博多弁になるよね。小倉の子のくせに」

「そう?」

「そう。うちらの前やと標準語みたいなのに、拓也くんと電話しよるとき、横で聞いとったら、もう全然違うもん。よかよ、とか言いよる」

「言いよるね、たしかに」

「それが一番の証拠よ。私、それをスピーチの最後に言おうかな」

「やめて」

「考えとく」

電話を切る前に、千夏は少しだけ黙って、それから言った。

「沙織。よかったね」

「うん」

「ほんとに、よかった」

電話を切ってから、私は手帳を開いた。七月のページの、ある土曜日に、赤いペンで小さな丸がつけてある。その周りを、青い字がいくつも取り囲んでいる。〈席次表 校正〉〈ブーケ 白いバラ〉〈ドレス 最終合わせ〉。手帳を閉じて枕元に置き、明かりを消すと、窓の外から、遠くを走る車の音だけが聞こえてきた。


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