↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
42/47

第2章 頼朝の悲恋

【伊豆・蛭ヶ小島(ひるがこじま)の孤影】


 湿った草の匂いと、海から吹き寄せる潮風の冷たさ。

 進が目を覚ますと、そこは狩野川の中州に位置する荒涼とした茅葺きのあばら屋であった。


 京を追われてから、十数年の歳月が流れていた。

 かつて都で絢爛たるエリート街道を約束されていた少年は、髭を蓄えた二十代半ばの青年に成長していた。

 源頼朝である。


 流人としての生活は過酷を極めた。

 平家の目が光る伊豆の地で、頼朝は常に監視され、その動向は逐一京都の六波羅へ報告されていた。

 外出の自由も、武器を持つことも許されず、写経と読経の日々。

 いつ平家の刺客が送り込まれ、首を刎ねられるかわからない恐怖と隣り合わせの日常であった。


 「進……都の風は、今も華やかなのだろうな」


 粗末な木彫りの仏像に手を合わせながら、頼朝は小さく呟いた。

 その瞳に映るのは、敗者としての諦念ではない。どんなに惨めな境遇に置かれようとも消えることのない、源氏の嫡男としての冷たく研ぎ澄まされた怨念と執念であった。


【八重姫との出会いと束の間の安らぎ】


 そんな絶望の檻の中で、頼朝の凍てついた心を溶かしたのが、伊豆の有力武士・伊東祐親(いとうすけちか)の娘、八重姫(やえひめ)であった。


 祐親が平家への大番役(京の警備業務)のために上京している隙を突き、頼朝は秘かに八重姫のもとへ通い詰めるようになった。

 伊豆の深い山々に抱かれた密会場所で、二人は身寄りのない流人と名門の娘という立場を忘れ、深く愛し合うようになった。


 「頼朝様……お顔の色がすぐれません。どうかご無理をなさらないでください」

 「八重……お前の笑顔だけが、この暗闇の中での唯一の光なのだ」


 言葉を交わし、手と手を重ね合わせる時間。

 平家の恐怖に怯え、息をひそめて生きる頼朝にとって、八重姫の温もりだけが彼を「流人」から「一人の人間」へと戻してくれる救いであった。進はその密会を、固く口を閉ざして見張り続けた。


 やがて、二人の間には愛の結晶である男の子が誕生した。

 名を千鶴丸(せんづるまる)と名付けられた。


【破滅の報せ…伊東祐親の帰還と冷酷なる決断】


 しかし、密かな幸福は長くは続かなかった。


 安元元年(1175年)、京での任期を終えた伊東祐親が伊豆へと帰還した。

 我が家に源氏の罪人との間に子が生まれていたことを知った祐親は、顔を血の色に染めて激怒した。


 「狂ったか八重! 平家全盛のこの世で、源氏の流人と懇ろになり、子までなしたと分かれば、我が伊東一族は清盛公によって根絶やしにされるぞ!」


 平家の威光を恐れる祐親にとって、頼朝との繋がりは一族を破滅へと追いやる大罪そのものであった。


 祐親の決断は、容赦なく、そして冷酷であった。


【千鶴丸の悲劇…深淵の痛む胸と、頼朝の沈黙】


 「頼朝様! 八重姫様から……! すぐにお逃げください!」


 八重姫の使者からの決死の報せを受け、進と頼朝は夜陰に紛れて蛭ヶ小島を脱出し、伊豆山神社(走湯権現)の暗がりへと逃げ込んだ。


 だが、幼き千鶴丸を救い出すことはできなかった。


 祐親の手勢によって奪い取られたわずか三歳の千鶴丸は、刺客の手により、轟々と音を立てて流れる伊東の轟の滝(松川の柴付の淵)へと投げ込まれ、哀れな水泡となって命を散らしたのである。


 「……千鶴丸が……滝に……?」


 走湯権現の密室で、報告を受けた頼朝の顔から一切の血の気が引いた。


 取り乱し、叫び、涙を流すことすら、監視の目が光るこの地では許されなかった。 

 頼朝は拳を固く握りしめ、爪が手のひらに食い込んで血が滲むのにも気づかず、じっと床を見つめて静かに震えていた。


 「わしの……わしの無力さが、我が子の命を奪ったのだ……」


 自分の血を引いたという理由だけで、幼き我が子を殺された男の苦しむ姿。

 最愛の八重姫とも強制的に離縁させられ、彼女は別の武士のもとへ嫁がされたという報せが追い打ちをかけた。


 怒りも、哀しみも、絶望も——すべてを胸の奥底の冷たい暗闇へと押し込め、頼朝は感情を消し去ったような無表情で立ち上がった。


 「進。わしは二度と涙を流さぬ。この伊豆の土に染み込んだ血と怨念のすべてを、平家を滅ぼすための糧として生きていく」


 八重姫との悲恋と、我が子の凄惨な死。

 この悲劇こそが、孤独な流人であった源頼朝を、平家打倒のために鬼と化す「冷酷なる絶対者」へと変貌させる決定的な転換点となったのだった——。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。