第5章 太閤の死
【巨城に忍び寄る「影」】
慶長3年8月。 太閤秀吉がこの世を去った。
主を失った大坂城は、表向きこそ天下の権威を誇る巨城として輝いていたが、その内部は急速に冷え込み、不気味な暗雲に覆われつつあった。
秀吉の遺児・秀頼を抱え、豊臣家の頂点に立った淀殿(茶々)。
かつて浅井長政の長女として生まれ、幼少期に小谷城の落城で父を、後に北ノ庄城の落城で母・市と義父・柴田勝家を失った彼女にとって、この大坂城は「命の最後の砦」であり、同時に「業の檻」でもあった。
(わらわは二度も城を追われ、肉親を失った……。この大坂城だけは、秀頼の天下だけは、なにがあろうと手放しはせぬ……!)
だが、その強固な決意を嘲笑うかのように、城内では不吉な怪異が次々と勃発し始めるのだった。
【大坂城の怪異】
進は秀吉亡き後も、秀頼と淀殿に仕える側近として、怪異に揺れる大坂城の渦中にいた。
異変は城の至るところで囁かれ始めた。
秀吉が存命の頃、ことのほか愛でて庭園の山里丸に据え置かせた巨大な「蛙石」。
カエルがうずくまったような形をしたその巨石が、秀吉の死後、湿った夜風が吹くたびに不気味な音を立て始めた。
「……見たか? 昨夜も山里丸の蛙石が、まるで人がすすり泣くような声をあげていたぞ……」
「あれは……秀吉様が亡くなられた悲鳴か、それとも豊臣の終わりを告げる怨霊の啼き声か……」
腰元たちの怯えた囁きは、城内の陰気な空気を一層濃くした。
さらに、山里丸の暗がりでは、誰もいないはずの廊下に黒い影が揺らめき、時折「……秀頼を頼む……」という秀吉の掠れたうわ言や、切腹させられた千利休の黒衣の幻影が目撃された。
不吉な影はそれだけに留まらない。 関ヶ原の戦いが近づくにつれ、城の天守から理由もなく火の玉が飛び立つのが目撃され、本丸の井戸からは死者のうめき声が響き渡った。
これらはすべて、豊臣という巨大な楼閣が、内部から腐り落ちていく前兆であった。
【追い詰める過去】
これらの怪異に誰よりも怯え、そして誰よりも過剰に攻撃的になっていったのが、淀殿であった。
夜な夜な蛙石の泣き声が天守まで届くたび、淀殿は秀頼を強く抱きしめ、血が滲むほど唇を噛みしめた。
「静かにさせよ! 蛙石など叩き割ってしまえ! 不吉な噂を流す者はすべて首を撥ねよ!!」
ヒステリックに叫ぶ淀殿の瞳には、かつて小谷城と北ノ庄城で目にした「地獄の炎」が映っていた。
(覚えている……。あのアブラムシのような火の匂い、血の匂いを……。織田の血を引くわしが、浅井の生き残りが、なぜこれほどまでに戦におびやかされねばならぬのだ!)
淀殿の心には、底知れぬトラウマと孤立感が巣食っていた。
秀吉という絶対的な庇護者を失い、周囲を見渡せば徳川家康が狸のような目で見下ろしている。 かつて秀吉に忠誠を誓った恩義ある大名たちも、次々と徳川へと寝返っていく。
「誰も信じられぬ……。治部(石田三成)も、内府(徳川家康)も、誰も彼も……! この城と、秀頼を守れるのは世しかおらぬのだ!」
彼女の執着は、次第に「豊臣の威光を守るためなら、どんな妥協も許さない」という硬直した狂気へと変貌していった。
徳川からの譲歩の打診をことごとく突っぱね、徳川との臣従関係を拒絶し、豊臣家を「孤高の頂」に縛り付けたのは、彼女のプライドであると同時に、二度と城を失いたくないという「極限の恐怖」の裏返しであった。
【蛙石の誘い】
ある夜、淀殿は寝所で激しい金縛りに遭った。
ふと見ると、豪華な几帳の向こうから、ぬらぬらと濡れた巨大なカエルの影が這い寄ってくる。
その影の背景には、燃え盛る小谷城と北ノ庄城の炎、そして血の海に沈む三条河原(秀次一族の処刑場)の光景が広がっていた。
『——茶々よ。お前もまた、城とともに燃える運命なのだ』
低く湿った声が脳裏に響く。
それは秀吉の声のようでもあり、信長や利休、あるいは彼女が失ってきた無数の死者たちの呪詛のようでもあった。
「嫌……嫌だぁっ! わらわ)は逃げぬ! 大坂城は沈まぬ!!」
淀殿の絶叫が大坂城の暗い廊下にこだました。
進は、震える肩を抱きしめて自室に閉じこもる淀殿の姿を見つめながら、歴史の波が確実にこの城を呑み込もうとしていることを感じていた。
かつて天下を極めた秀吉の栄華も、死者たちの怨念と、生き残った者の執着と恐怖によって、いよいよ最終章——大坂の陣という悲惨な結末へ向けて突き進んでいくのであった。




