第10章 後世への遺産
【3人の対談】
歴史書の編纂事業がようやく一定の目処を見せ始めた夜。
燈篭の灯火が静かに揺れる編纂所の片隅で、進麻呂は二人の男と酒杯を交わしていた。
一人は、類まれなる記憶力を持ち、天武天皇の命によって帝紀や本辞を暗誦し続ける天才・稗田阿礼。
もう一人は、その暗誦された言葉を、流麗で厳かな文字へと定着させていく文官・太安万侶であった。
進麻呂は二人に向かい、震える指先で静かに木片へ文字を刻んだ。
『万侶殿、阿礼殿……お聞きしたい。勝者の都合で書き換えられ、敗者の無念を悪名で塗りつぶしたこのような歴史書を、後世に残すことに……誠に悔いはないのですか』
進麻呂の問いかけに、二人は言葉を失い、じっとその文字を見つめた。
進麻呂はさらに文字を書き連ねた。
『真実の歴史は、もっと血生臭く、もっと悲しい。蘇我氏にも大友皇子様にも、この国を想う真摯な義があった。それらをすべて「逆賊」と一蹴し、虚飾の神話で覆い隠すことが、本当にこの国の未来のためになるのでしょうか』
静寂が部屋を支配した。
太安万侶は深いため息をつき、静かに杯を置いた。
しかし、じっと目をとじていた稗田阿礼が、ゆっくりと口を開いた。
「進麻呂殿。私はただ、覚えた記憶のままに語っているに過ぎませぬ。私心など……毛頭ござらん」
阿礼の声は、不思議なほど透き通っていた。
「私はただ、大王の仰せに従っているのです。たとえそこに時の権力者の政治的思惑や意図が入っていたとしても……それがこの国を一つにまとめる大王の意思であるならば、何の問題もありませぬ。歴史とは、その時代の民を生かすためのものでもあるのですから」
阿礼は進麻呂の目をまっすぐに見つめ、穏やかに微笑んだ。
「そして……もし、この書物に偽りや問題があるとするならば。……それは、後世の者が必ずや真実を見抜くでしょう。文字として遺りさえすれば、未来の聡明な人々が、行間から敗者の声を聞き取り、隠された真実を解き明かしてくれるはずです」
「後世の者が……見抜く……」
その言葉は、進麻呂の胸を強く打ち抜いた。
そうだ。現代の歴史学者たちも、予備校の教壇で自分が教えていた受験生たちも、この『古事記』や『日本書紀』の行間を読み解き、蘇我氏の真の姿や乙巳の変の陰謀に思いを馳せていたのではないか。
勝利者が歴史を書き換えても、遺された言葉の端々に漂う「真実の欠片」を、後世の人間は決して見逃さない。
(無駄ではなかったんだ……。俺たちがこの葛藤の中で遺した文字は、必ず未来へ届く……)
肩の荷がふっと下り、深い温もりが全身を包み込んでいく。
安堵とともに阿礼と万侶の姿がぼやけ、飛鳥の夜風の音が、遠く遠くへと遠ざかっていった――。
【覚醒のあと】
――ハッと息を呑んで、伊崎進は目を覚ました。
薄明るい朝の光が、自室のカーテンの隙間から差し込んでいた。
湿った布団の感触。天井の模様。現実の自分の部屋だった。
進はゆっくりと身体を起こした。
あんなに重かった身体が、不思議なほど軽い。
胸を締め付けていたあのコールセンターの怒声の恐怖も、飛鳥の壮絶な歴史の暗闘をくぐり抜けた今では、遠い幻のように感じられた。
「進さん……? 起きられたの?」
ドアが開き、驚いた表情の妻・美智子が覗き込んでいた。
進は美智子に向かって、優しく微笑みかけた。
敗者たちの無念と、勝利者たちの孤独。そして、歴史を紡ぎ出す人間の業。
古代の飛鳥で目撃したあの凄絶なドラマの余韻を胸に抱きながら、進は静かに、現実の再生への一歩を踏み出そうとしていた。
(『新・夢十夜』第二夜:飛鳥編・完)




