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名を失くす国の黒き王子  作者: 梓水あずみ


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14/14

第14話 塔へ届いた名

王宮の記録では、フィンの名は「見習い一名」として伏せられようとしていました。


けれど、カイルは「原因不明」と書き残します。

ミレイアは、フィンの名を出来事と一緒に覚えました。


名前だけでは戻らない。

けれど、名前を消してしまえば、その人は見えなくなる。


第14話では、その名が幽閉塔のレオンのもとへ届きます。



王宮の記録室では、朝から白い紙が積まれていた。


白い机。

白い壁。

白い布をかけられた棚。


その中で、昨日から一つだけ変わったものがある。


奥の小机に置かれた木札。


そこには、もう名前が書かれていなかった。


北棟見習い 三番。


フィン・マレの名は、そこにない。


フィン本人は、その札を見ないようにしていた。


袖口には、昨日と同じように墨がついている。


手元の紙を揃える指は、まだ少し震えていた。


ラダが水差しを持って近づく。


「フィン・マレ、水です」


フィンの指が止まる。


「……ありがとうございます」


「昼を抜かないでね」


「はい」


ラダはそれ以上言わなかった。


王宮役人がいるからだ。


けれど、短い声だけで十分だった。


北棟見習い三番ではなく、フィン・マレ。


その名が、今朝も部屋に一度落ちた。


カイルは少し離れた机に座らされていた。


王宮から渡された筆。

王宮から渡された紙。

王宮の決めた文。


それらが、目の前に並んでいる。


扉の前には兵が立っている。


拘束ではない。


監督。


昨日から、ずっとその言葉で包まれている。


王宮役人が紙を一枚置いた。


「昨日の件を清書しなさい」


そこには下書きがあった。


王宮記録室において、見習い一名が一時的に体調を崩す。

給仕女の介助により落ち着く。

不適切な私的記録に触れたことによる動揺の可能性あり。

外部への共有は不要。


カイルはその文をもう一度読んだ。


見習い一名。


給仕女。


体調を崩す。


落ち着く。


どれも完全な嘘ではない。


だが、フィン・マレの机の札が薄れたことはない。


白壁の前へ運ぼうとしたこともない。


ラダが本人を見て名を呼んだこともない。


フィンが自分の名を口にしたこともない。


カイルは筆を持ったまま動けなかった。


王宮役人が言う。


「何を迷っています」


「このままでは、見たことと違います」


「見たことをすべて書く必要はありません」


「では、何を書くんですか」


「王宮に残すべきことです」


カイルは筆先を見た。


墨が、白い紙へ落ちそうになっている。


東広場で紙を奪われたとき、カイルは読み上げた。


紙は奪われた。


だが、声には残った。


今度は違う。


王宮の紙に、自分の手で違うことを書かされようとしている。


「不適切な私的記録に触れたことによる動揺の可能性あり」


カイルはその一行を見た。


そこだけは、どうしても書けなかった。


「原因は分かっていません」


カイルは言った。


王宮役人の目が細くなる。


「可能性と書いています」


「見ていません」


「何を」


「僕の紙のせいでフィンが名を失いかけたところは、見ていません」


部屋が静まった。


フィンの肩が、かすかに動いた。


カイルは続けた。


「見たのは、フィン・マレの机の札が薄れたことです。白壁の前へ運ぼうとしたことです。ラダが本人を見て名を呼んだことです。フィン本人が、自分の名を口にしたことです」


王宮役人はすぐには答えなかった。


怒るのではない。


考えている。


どこまでなら消さずに済むか。

どこからなら整えられるか。


そういう顔だった。


「では、こうしましょう」


王宮役人は別の紙を出した。


「見習い一名が一時的に自名を失いかけた。原因は不明。介助により落ち着く」


カイルは紙を見る。


フィンの名はない。


ラダの名もない。


だが、「体調を崩す」ではなくなった。


「白壁前へ移そうとしたことは」


「不要です」


「ラダが本人を見て呼んだことは」


「給仕女の介助に含みます」


また、含まれる。


大事なものほど、大きな言葉の中に畳まれていく。


カイルは筆を握った。


全部は書けない。


けれど、全部を諦めるわけにもいかない。


彼は、下書きの一行を消した。


不適切な私的記録に触れたことによる動揺の可能性あり。


そこに、新しく書く。


原因、不明。


それだけだった。


フィンの名は書けなかった。


ラダの名も書けなかった。


だが、見ていない原因を、見たことにはしなかった。


今のカイルにできるのは、それだけだった。


王宮役人は紙を見た。


少しだけ眉を寄せたが、受け取った。


「よいでしょう。清書を続けなさい」


カイルは頷いた。


そのとき、廊下から足音が近づいた。


白い衣の裾が、開いた扉の向こうに見えた。


聖女ミレイアだった。


侍女と、祈り役を連れている。


王宮役人が立ち上がる。


「聖女様」


ミレイアは記録室を見渡した。


白い机。

白い紙。

北棟見習い三番と書かれた札。


そして、その札を見ないようにしているフィン。


ミレイアの視線が止まる。


「フィン・マレ」


フィンの顔が上がった。


王宮役人の表情がこわばる。


ミレイアは続けた。


「北棟の記録見習い。ラダに名を呼ばれ、自分の名を口にした人」


部屋の空気が変わった。


祈りの言葉ではない。


けれど、昨日カイルが廊下で渡した言葉を、ミレイアはそのまま持っていた。


名前だけではなく、出来事と一緒に。


フィンはしばらく何も言えなかった。


やがて、小さく答える。


「はい」


それだけだった。


王宮役人が静かに言う。


「聖女様。その名は現在、記録上は伏せられています」


「記録上は」


ミレイアはそう繰り返した。


責める声ではなかった。


ただ、確かめる声だった。


王宮役人は言葉を選ぶ。


「本人保護のためです」


「分かっています」


ミレイアはフィンを見たまま言った。


「ですが、伏せることと、消すことは違います」


カイルは息を止めた。


その言葉は、王宮役人にも、記録室にも、フィン本人にも向けられていた。


王宮役人は表情を変えない。


「ご用件は」


ミレイアは祈り役を見る。


祈り役が一歩前に出た。


「昨日の記録室での異変について、黒き王子にも確認を行います」


カイルの手が止まった。


黒き王子。


その名ではなく、その呼び方。


久しぶりに聞いた気がした。


「北門記録役カイル」


王宮役人が言った。


「あなたも同席しなさい。昨日の件を見た者として、記録を取ります」


カイルは顔を上げた。


「僕が、ですか」


「王宮監督下で、です」


そう付け加えられる。


逃げ道はない。


だが、カイルは紙を見た。


さっき、自分が書いた一行。


原因、不明。


それだけは残った。


カイルは筆を置き、立ち上がった。


幽閉塔へ向かう廊下は、王宮の中でも冷えていた。


磨かれた白い壁が、少しずつ古びた白へ変わっていく。


王宮の白は、見せるための白。


塔の白は、隠すための白。


その違いを、カイルは初めてはっきり感じた。


ミレイアは黙って歩いている。


白い衣の裾は、きれいに洗われていた。


けれど、足元の布だけが少し硬い。


泥を落とした跡だ。


レオンが、前に何か言っていたと聞いた。


今日の泥は落とすな。


なぜそんなことを言ったのか、カイルには分からない。


塔番が扉を開けた。


レオンは椅子に座っていた。


手枷はそのまま。


短い鎖が椅子の脚につながれている。


首枷はない。


レオンは入ってきた者たちを見て、最初にミレイアを見た。


次にカイルを見る。


「記録役まで白くなったな」


カイルは一瞬、意味が分からなかった。


王宮の監督下に置かれ、王宮の紙を持たされ、王宮の筆で記録を取らされている。


そう見えたのだと、少し遅れて分かる。


「僕は」


言い返しかけて、止まる。


レオンはもう興味を失ったように、ミレイアへ視線を戻していた。


「聖女様。泥は落とされたのか」


ミレイアの指が、衣の裾に触れた。


「落とされました」


「白に戻ってよかったな」


「よくはありません」


レオンの口元が少しだけ動いた。


笑ったのかもしれない。


だが、すぐに消える。


祈り役が言った。


「黒き王子。昨日、王宮記録室で名が薄れかける異変がありました」


レオンの目が、ほんの少し細くなった。


「王宮で?」


その一言だけで、部屋の温度が変わった気がした。


王宮役人が続ける。


「白壁の前ではありません。記録室です」


「それで、俺に何を聞く」


「白壁の内側でも名が薄れる理由を知っているか」


レオンは低く笑った。


「内側」


その言葉を、舌の上で転がすように言った。


「白く塗った壁のこっち側なら、安全だと思っていたのか」


王宮役人の顔が硬くなる。


「質問に答えなさい」


「知らない」


あっさりした答えだった。


本当に知らないのか。


知っていて言わないのか。


カイルには分からなかった。


ミレイアが口を開く。


「フィン・マレという記録見習いです」


レオンはミレイアを見た。


名を繰り返さない。


ただ、聖女の口元を見る。


ミレイアは続けた。


「机の札から名が薄れました。白壁の前へ運ばれそうになりましたが、ラダという給仕女が本人を見て呼びました。袖に墨をつけること、昼を抜くと手が震えることを言いました。年配の記録官と、カイルと、アスターも続きました。そして本人が、自分の名を口にしました」


レオンは黙って聞いていた。


途中で茶化さなかった。


それが、かえって不気味だった。


ミレイアは言う。


「名前だけでは、戻りませんでした」


レオンの指が、手枷の鎖に触れた。


小さく音が鳴る。


「今さらか」


声は低かった。


王宮役人が眉を寄せる。


「何がです」


レオンは答えない。


ミレイアだけを見ている。


「聖女様は、ずいぶん人の名を集めるようになった」


「集めているのではありません」


「なら、何だ」


「一名にしないようにしています」


その言葉に、レオンの表情が少しだけ止まった。


ほんの一瞬だった。


だが、カイルには見えた。


ミレイアは続ける。


「私は、その人を知りません。けれど、知らないまま一名にしたくありません」


レオンは視線をそらした。


「知らないまま名を呼ぶな」


「だから、名前だけでは呼びません」


ミレイアの声は静かだった。


「知っている人の言葉と一緒に、覚えます」


部屋が静まった。


カイルは、自分が今の言葉を記録すべきなのか迷った。


王宮の紙に書けば、また整えられるかもしれない。


書かなければ、消える。


筆を持つ手に力が入る。


そのとき、レオンが言った。


「記録役」


カイルは顔を上げる。


「はい」


「お前は今、何を書く」


王宮役人の視線がカイルに向いた。


カイルは紙を見た。


王宮から渡された紙。


王宮の記録として残る紙。


そこに、レオンの言葉を書くのか。

ミレイアの言葉を書くのか。

王宮が残したい形を書くのか。


カイルは息を吸った。


「見たことを」


レオンの目が少し笑う。


「白くならないようにか」


カイルは答えなかった。


代わりに、筆を置いた。


紙に書く。


聖女ミレイア、記録見習いを「一名」とせず。

名と、本人を知る者の言葉を共に覚えると述べる。


王宮役人がすぐに言った。


「その一文は不要です」


カイルの手が止まる。


王宮役人は続ける。


「黒き王子への確認記録です。聖女様の感想は必要ありません」


カイルは紙を見た。


感想。


今の言葉が、感想にされる。


レオンが小さく笑った。


「便利だな。いらないものは全部、感想か」


「黒き王子」


祈り役の声が強くなる。


レオンは肩をすくめた。


「書けよ、記録役」


カイルは王宮役人を見た。


王宮役人は何も言わない。


止めれば、聖女の言葉を消したことになる。


残せば、王宮の記録に余計なものが入る。


短い沈黙だった。


カイルは筆を動かした。


消さなかった。


ただ、そのあとにもう一行足した。


黒き王子、これに返答せず。


レオンが笑った。


「賢くなったな」


「見たことだけです」


「いい子だ」


「褒められてもうれしくありません」


「俺も本気で褒めていない」


カイルは少しだけ、肩の力が抜けた。


塔の部屋で、そんなことを思うのは変だった。


それでも、久しぶりに自分の声で答えた気がした。


ミレイアがレオンに問う。


「あなたは、なぜ人の名を呼ばないのですか」


王宮役人がすぐに反応する。


この問いは、記録に残る。


カイルも筆を構えた。


レオンはミレイアを見た。


長い沈黙が落ちる。


答えないかと思った。


だが、レオンは低く言った。


「名前だけ残しても、戻らない奴がいる」


ミレイアの顔がわずかに強ばる。


「誰のことですか」


レオンは答えない。


手枷の鎖を指先で鳴らす。


「知らないなら、知らないままでいろ」


「私は、知らないままではいたくありません」


「それで何人の名を拾う気だ」


「拾うのではありません」


ミレイアは言った。


「落とされたままにしたくないだけです」


レオンは笑わなかった。


その横顔は、ひどく疲れて見えた。


王宮役人が口を挟む。


「黒き王子。今の発言は、記録見習いの件に関係がありますか」


「ない」


レオンは即答した。


「では、削ります」


カイルの筆が止まった。


レオンがこちらを見る。


「削るな、とは言っていない」


カイルはレオンを見る。


「では、消しますか」


「お前が決めろ、記録役」


それは、突き放す声だった。


だが、カイルには分かった。


レオンは助けてくれない。


答えをくれない。


何を書くかは、自分で決めろと言っている。


カイルは紙に目を落とした。


名前だけ残しても、戻らない者がいる。


その言葉は、フィンの件だけではない。


レオン自身の奥にある何かだ。


だが、カイルはそれを知らない。


分からないことを、分かったとは書けない。


カイルは短く書いた。


黒き王子、名について別件と思われる発言あり。詳細不明。


王宮役人が眉をひそめた。


「曖昧です」


「分からないので」


カイルは言った。


「分からないと書きました」


レオンがまた笑った。


今度は、少しだけ本当に笑ったように見えた。


尋問はそこで終わった。


王宮役人が得た答えは少ない。


白壁の内側でも名が薄れる理由は分からない。


黒き王子は詳しく語らない。


聖女は「一名」にされた者の名を覚えている。


記録役は、余計なことを書くようになっている。


それだけが残った。


レオンは部屋へ戻された。


塔番が鎖を確かめる。


ミレイアは扉の前で一度立ち止まった。


「レオン」


その名が出た瞬間、カイルは息を止めた。


レオンも、ほんの少しだけ動きを止めた。


ミレイアは続ける。


「私は、知らない名を勝手に補いません」


レオンは振り向かない。


「知っている名も、勝手に戻すな」


「分かっています」


「分かっていない」


低い声だった。


「名前だけじゃ、戻らない」


扉が閉まる。


鍵が回る。


ミレイアはしばらく扉を見ていた。


それから、何も言わずに歩き出した。


カイルも後に続く。


王宮へ戻る廊下で、ミレイアは一度だけ立ち止まった。


「カイル」


カイルは驚いて顔を上げる。


「はい」


「今日、あなたが書いた言葉は、消されるかもしれません」


「分かっています」


「それでも書いたのですね」


カイルは少し考えた。


「書けるところまでです」


ミレイアは小さく頷いた。


「それで十分な日もあります」


十分。


その言葉は、慰めではなかった。


足りないことを知っている人の言葉だった。


その夜、幽閉塔の部屋で、レオンは壁を見ていた。


寝台の横。


白い塗料の下に、何度も刻まれた傷。


リ。


リ。


リ。


そこから先はない。


レオンは指先で、その傷の近くに触れた。


なぞりはしない。


ただ、触れた。


「名前だけじゃ、戻らない」


誰に言ったのか分からない声だった。


部屋の外で、塔番の足音が遠ざかる。


白壁は見えない。


だが、王宮のどこかで、今日も白い紙が積まれている。


見習い一名。


北棟見習い三番。


原因不明。


不要。


感想。


いくつもの言葉が、人の名を覆っていく。


レオンは壁の傷を見た。


リ。


そこから先を、まだ誰も知らない。


知っているのは、自分だけかもしれない。


それでも、口にしなかった。


名前だけでは戻らない。


だから、レオンはその先を言わなかった。

第14話まで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、カイル、ミレイア、そして久しぶりのレオンの回でした。


王宮は、フィンの件を「見習い一名」として整えようとします。

カイルはすべてを残すことはできませんでした。

それでも、「不適切な記録のせい」とは書かず、「原因不明」と書きました。


小さな抵抗ですが、見ていないことを見たことにはしない。

それは、今のカイルにできる精一杯でした。


そしてミレイアは、フィンの名を名前だけではなく、出来事と一緒にレオンへ伝えます。


フィン・マレ。

北棟の記録見習い。

ラダに名を呼ばれ、自分の名を口にした人。


ただ名前を唱えるのではなく、その人がそこにいたことと一緒に覚える。

ミレイアも少しずつ、名を守ることの意味に近づいています。


一方でレオンは、まだ人の名を呼びません。

そして最後に、「名前だけじゃ、戻らない」とつぶやきました。


塔の壁に刻まれた「リ」。

その先を知っているのは、おそらくレオンだけです。

けれど彼は、まだその名を口にしません。


次話では、レオンがなぜそこまで「名前だけ」を拒むのか。

そして、ミレイアが知らないままではいられなくなっていく流れへ進みます。

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