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名を失くす国の黒き王子  作者: 梓水あずみ


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13/14

第13話 消された札

カイルは王宮監督下に置かれ、北門へ戻れなくなりました。


けれど、北門にはまだ彼の名を呼ぶ声が残っています。


一方、王宮の記録室では、フィンの名が「見習い一名」という言葉に置き換えられようとしていました。


第13話では、名を伏せることと、名を守ることの違いが少しずつ見えていきます。



北門の詰所に、カイルの筆置きだけが残っていた。


机の端。


いつもなら、そこに細い筆が二本並んでいる。


今は一本もない。


王宮へ連れて行かれる前、カイルが使っていた筆置きだけが、動かされずに置かれている。


誰も触らなかった。


触れば、カイルがもう戻らないと認めるような気がした。


朝の詰所では、門番たちが声を出していた。


「ハンナ・リース。呼び手、北通りの魚売り三名」


「本人、返事あり」


「メイ・ロウ。呼び手、香草店の女二名」


「本人、返事あり」


声は昨日より少しだけ揃っていた。


だが、揃いすぎると、今度は別の怖さがあった。


ただ読み上げているだけになる。


ロランが壁に背を預け、腕を組んで聞いていた。


「違う」


門番の一人が止まる。


「え」


「今の言い方だと、ただの名簿だ」


「でも、記録には」


「記録を読むな。思い出せ」


ロランは顎で外を示した。


「ハンナ・リースは、誰に呼ばれた」


「北通りの魚売り三名です」


「それだけか」


門番は詰まった。


別の門番が口を開く。


「魚を買いに来るたび、値切りすぎるって笑われてた人です」


「そうだ」


ロランは頷いた。


「それを忘れるな」


門番たちは黙った。


アスターは詰所の奥で、それを聞いていた。


ロランの言い方は乱暴だった。


だが、間違っていない。


名前だけでは足りない。


呼び手の数だけでも足りない。


その人を知っている出来事が、名をその人へ結び直す。


東広場でセオ・ランが戻ったときもそうだった。


ミナが言ったのは、ただの名前ではない。


花箱を直してくれた人。


雨の日に釘を打ち直してくれた人。


その言葉があったから、セオは自分の手を思い出した。


アスターはカイルの筆置きを見た。


カイル。


北門の記録役。


字が細かい。

嘘が下手。

東広場で紙を奪われる前に読んだ。


昨日、ロランが言った言葉が残っている。


筆置きは黙っている。


だが、詰所にいる者たちは、その名をまだ忘れていない。


「続けろ」


アスターが言った。


門番たちは声を出し直した。


今度は少し遅い。


一つずつ、思い出すように。


王宮の朝は、北門より早かった。


白い廊下に、足音がまっすぐ響く。


カイルは王宮の記録室の奥にある小部屋で目を覚ました。


寝台は硬い。


窓は高い。


扉に鍵はかかっていない。


ただし、扉の前には兵が立っている。


拘束ではない。


監督。


王宮役人はそう言った。


だが、外へ出るには許可がいる。

筆を持つにも許可がいる。

紙に触れるにも許可がいる。


それを拘束と呼ばないだけだった。


朝、カイルは記録室へ連れて行かれた。


昨日と同じ白い部屋。


壁も机も白い。


棚にかけられた布も白い。


その中で、ひとつだけ昨日と違うものがあった。


奥の小机。


フィンが座っていた机だ。


そこにあった木札が、なくなっていた。


昨日までは、こう書かれていた。


フィン・マレ。


今は違う。


新しい木札が置かれている。


北棟見習い 三番。


カイルは足を止めた。


兵が後ろから言う。


「進みなさい」


カイルは小机を見たまま動けなかった。


フィンはそこに座っていた。


顔色はまだ悪い。


袖口には、昨日と同じように墨がついている。


だが、机の札には、彼の名がない。


北棟見習い 三番。


役目と番号だけ。


フィンはその札を見ないように、手元の紙を揃えていた。


ラダが水差しを持って入ってくる。


彼女も新しい札を見た。


一瞬だけ、足が止まる。


それから、何も言わずにフィンの机へ近づいた。


「フィン・マレ、水です」


フィンの指が動いた。


顔が上がる。


「……ありがとうございます、ラダさん」


その声を聞いて、カイルは少しだけ息を吐いた。


ラダは水差しを置きながら続けた。


「昼を抜くと、また手が震えるよ。今日はちゃんと食べなさい」


フィンは小さく頷いた。


「はい」


年配の記録官が咳払いをした。


ラダはすぐに下がる。


だが、彼女はもう一度だけ言った。


「フィン」


フィンは返事をした。


「はい」


その短いやり取りだけで、部屋の白さが少し汚れたように見えた。


カイルはそう思った。


悪い汚れではない。


人の手が触れた跡のような汚れだった。


王宮役人が入ってきた。


昨日と同じ男だ。


手には、白い封蝋のついた紙を持っている。


「北門記録役カイル」


カイルは立つ。


「はい」


「今日から、あなたには王宮記録の整理を手伝ってもらいます」


「北門へは」


「許可が出るまで戻れません」


分かっていた答えだった。


それでも、聞くと胸が冷えた。


王宮役人は机に紙を置いた。


「まず、昨日の記録室での件を清書しなさい」


カイルは紙を見た。


そこには下書きがある。


王宮記録室において、見習い一名が一時的に体調を崩す。

給仕女の介助により落ち着く。

不適切な私的記録に触れたことによる動揺の可能性あり。

外部への共有は不要。


カイルは最後まで読んだ。


フィンの名がない。


ラダの名もない。


机の札が薄れたこともない。


白壁前へ運ぼうとしたこともない。


「これは違います」


カイルは言った。


王宮役人は静かに答える。


「どこがです」


「見習い一名ではありません。フィン・マレです」


フィンの肩がかすかに動いた。


王宮役人はフィンを見なかった。


「本人保護のため、名は伏せます」


「本人を守るために、名前を消すんですか」


「消しているのではありません。広げないだけです」


その言葉は、昨日より少し柔らかかった。


だから余計に怖かった。


王宮役人は続ける。


「昨日の件は、原因が分かっていません。王宮内で不安が広がれば、記録室そのものへの信頼が損なわれます」


「信頼のために、見たことを変えるんですか」


「見たことを、民が受け取れる形に整えるのです」


また、整える。


カイルは紙を握りそうになり、やめた。


ここで破れば、何も残らない。


王宮役人は新しい筆を差し出した。


「あなたは記録役です。感情ではなく、決められた文で書きなさい」


カイルは筆を見た。


自分の筆ではない。


王宮から渡された筆。


先はよく整えられている。


墨も濃い。


だが、それで書く文字は、自分のものになるのだろうか。


カイルは筆を取らなかった。


「書けません」


部屋が静まった。


王宮役人の顔は変わらない。


「拒むのですか」


「名前を伏せるなら、せめて何が起きたかを書いてください」


「何が起きたかは、まだ分かっていません」


「分からないなら、分からないと書いてください」


カイルは言った。


「原因は不明。記録室でフィン・マレの机の札が薄れた。白壁前へ移そうとする動きがあった。ラダが本人を見て名を呼び、フィン本人が自分の名を口にした。そこまでは、見ました」


フィンが顔を上げた。


ラダは扉の近くで水差しを持ったまま立ち止まっている。


年配の記録官は、手元の紙を見ていた。


王宮役人はしばらく黙った。


それから、低く言った。


「その書き方では、王宮内の動揺を広げます」


「では、動揺しないように、名をなくすんですか」


「名をなくすのではありません」


王宮役人の声が少しだけ硬くなった。


「名の扱いを慎重にするのです」


それは、完全な嘘ではなかった。


名を軽く扱ってはいけない。


知らない者がただ唱えるだけでは危ない。


カイルもそれは分かっている。


だからこそ、名前だけの紙にするのも危ないのだ。


カイルはフィンを見た。


フィンは小さな声で言った。


「僕は、書かれなくてもいいです」


ラダが息を呑む。


カイルはフィンを見る。


「本当に?」


フィンは新しい木札に目を落とした。


北棟見習い 三番。


「僕のせいで、記録室が騒がれるなら」


声が小さくなる。


「見習い一名でいいです」


カイルは言葉を失った。


本人がそう言うなら、どうすればいい。


名前を残すことは正しい。


でも、残されることが怖い者もいる。


アスターが人の名を覚えることは正しい。


だが、それはときに、相手へ痛みを戻す。


カイルは初めて、その重さを少しだけ分かった。


王宮役人が静かに言った。


「聞きましたね。本人も望んでいます」


ラダが震える声で言った。


「でも」


全員の視線が彼女へ向く。


ラダは水差しを両手で握っている。


「昨日、名前を呼ばなかったら、フィンは戻らなかったと思います」


王宮役人はラダを見る。


「給仕女。発言を求めていません」


ラダは唇を噛んだ。


だが、下がらなかった。


「フィン・マレ」


彼女は言った。


フィンの肩が動く。


「北棟の記録見習い。袖を汚す子。昼を抜くと手が震える子」


王宮役人の眉が動く。


「やめなさい」


ラダは止まった。


それ以上は言わなかった。


だが、言った分だけは、もう部屋に残った。


フィンは俯いたまま、机の端を握っていた。


カイルはその手を見た。


白くなるほど力が入っている。


書かれなくていいと言いながら、名を呼ばれた手は、確かに机を掴んでいる。


王宮役人はため息をついた。


「この件は、後ほど上に諮ります」


「その間、フィンの札は戻さないのですか」


カイルが聞いた。


王宮役人は新しい木札を見る。


「昨日の札は文字が損じています。人目に触れさせるべきではありません」


「新しく書けばいい」


「また薄れたらどうします」


カイルは答えられなかった。


それも、正しい恐れだった。


王宮役人は、悪い顔をしていない。


フィンを守ろうとしている部分もある。


名前の札がまた薄れれば、本人が傷つく。


記録室の者も怯える。


だから番号にする。


その方が安全だと、王宮は本気で思っている。


だが、番号で呼ばれたフィンの顔を、カイルは見てしまった。


安全なはずの言葉が、人を少しずつ薄くすることもある。


「北棟見習い三番」


年配の記録官がふいに言った。


フィンが反応しなかった。


記録官は自分でも驚いたように、口を閉じる。


もう一度、今度は少しだけ声を変えた。


「フィン・マレ」


フィンが顔を上げる。


「はい」


年配の記録官は、しばらくフィンを見ていた。


それから、そっぽを向くように言った。


「棚番号を間違えるな。昨日も直した」


フィンは小さく頷いた。


「はい」


ラダが目元を袖で押さえた。


カイルはその場面を、紙なしで覚えた。


今は書けない。


だが、忘れない。


その日の昼過ぎ、カイルは記録室の外へ出された。


逃げられるわけではない。


兵が左右につく。


書庫から別の部屋へ移されるだけだった。


廊下の角で、白い衣の裾が見えた。


聖女ミレイアだった。


侍女を連れている。


昨日より顔色が悪い。


白い衣の裾は、もう泥を落とされていた。


だが、足元の布だけが少し硬くなっている。


何度も洗われた跡だった。


ミレイアはカイルを見て、足を止めた。


「北門の記録役ですね」


カイルは頭を下げる。


「はい」


兵が一歩前に出る。


「聖女様、こちらは王宮監督下の者です」


ミレイアは兵を見ずに言った。


「少しだけです」


兵は困った顔をした。


だが、聖女の言葉を遮ることはできなかった。


ミレイアはカイルへ向き直る。


「昨日、記録室で何かがあったと聞きました」


カイルは黙った。


何を言えば、何を奪われるのか分からない。


ミレイアは続けた。


「王宮の文には、見習い一名とだけありました」


カイルの指が動いた。


ミレイアは静かに問う。


「その一名に、名はないのですか」


カイルは兵を見た。


兵は表情を固くしている。


カイルは息を吸った。


隠せば消える。


広げれば危ない。


どちらも怖い。


だが、ミレイアは「名はないのか」と聞いた。


名前だけを求めているのではない。


一名という言葉の中に、人が消えていることに気づいている。


カイルは小さく答えた。


「フィン・マレです」


ミレイアの目がわずかに動く。


カイルは続けた。


「北棟の記録見習い。袖に墨をつけて、ラダという給仕女に叱られていました。昨日、机の札の名が薄れました。ラダが本人を見て呼び、本人が自分の名を口にしました」


兵が口を開きかける。


ミレイアが先に言った。


「フィン・マレ」


その名が、白い廊下に落ちた。


祈りの声ではなかった。


確認するような声だった。


「北棟の記録見習い。ラダに名を呼ばれ、自分の名を口にした人」


カイルは息を止めた。


ミレイアは、名前だけを繰り返さなかった。


カイルの言葉を、その人を示す形で受け取った。


「ありがとうございます」


ミレイアは言った。


「一名では、顔が見えません」


それだけ言って、歩き出した。


侍女が慌てて後を追う。


兵は黙っていた。


カイルも動けなかった。


聖女の口に、フィンの名が乗った。


王宮の文では「見習い一名」だった者が、ほんの少しだけ廊下に戻った。


その夜、北門では読み合わせが続いていた。


アスターは昼過ぎに一度だけ北門の外まで戻り、ロランにフィンの件を伝えると、すぐまた王宮へ向かった。


今はロランが詰所を見ている。


門番たちは疲れた顔で声を出す。


「カイル。北門の記録役。字が細かい。顔に出る。嘘が下手」


「東広場で紙を奪われる前に読んだ」


「王宮へ連れて行かれた」


ロランが続けた。


「戻ってくるまで、筆置きはそのまま」


門番の一人が、ふと思い出したように言った。


「フィン・マレ」


ロランが目を向ける。


「誰だ」


「王宮の記録見習い。机の札から名が薄れた人です」


別の門番が言う。


「給仕女が呼び戻した」


「本人を見て」


「ラダ、でしたっけ」


名前は少し不確かだった。


それでも、誰かが覚えようとしていた。


ロランは黙って聞いていた。


やがて、ぶっきらぼうに言う。


「間違って広げるな」


門番たちは肩をすくめる。


ロランは続けた。


「でも、忘れるな」


詰所の中に、短い沈黙が落ちた。


カイルの筆置きは、まだ机の端にある。


その横に、誰かが小さな木片を置いていた。


何も書かれていない木片だった。


名札ではない。


ただの木片。


だが、誰かがそこに名を書こうとして、まだ書けずにいるように見えた。


ロランはそれを見て、舌打ちした。


「勝手に増やすな」


そう言いながら、木片を捨てなかった。


夜の白壁は、静かだった。


静かすぎるほどだった。


王宮では、一名という言葉で名を伏せる。


北門では、知らない名を間違えないように覚えようとする。


どちらも、名を軽く扱わないための行いだった。


だが、片方は人を見えなくし、片方は人を見ようとしている。


その違いは、まだ小さい。


紙に書けば、すぐに消されるほど小さい。


それでも、白い王宮の廊下で、聖女が一つの名を口にした。


フィン・マレ。


その名はまだ、王宮の記録には戻っていない。


だが、人の声には残り始めていた。

第13話まで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、カイル不在の北門と、王宮の記録室に残されたフィンの話でした。


王宮は、フィンの名を「見習い一名」として伏せようとします。

それは完全な悪意だけではありません。

また名札が薄れたら本人が傷つく。

記録室の人々が怯える。

だから番号にした方が安全だと、王宮は考えています。


けれど、安全なはずの「北棟見習い 三番」という呼び方は、フィン自身を少しずつ見えなくしていきます。


一方で、ラダはフィンを名前で呼びました。

年配の記録官も、番号ではなくフィン・マレと呼び直しました。

そしてミレイアも、「見習い一名」ではなく、フィンの名と出来事を受け取りました。


名前だけを唱えるのではなく、

その人を知る出来事と一緒に呼ぶこと。


少しずつ、名を守るために必要なことが見えてきています。


次話では、王宮の記録には残らなかったフィンの名が、どこまで人の声に残るのか。

そして、王宮監督下に置かれたカイルが、何を選ぶのかへ進みます。

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