1-9 思い出
「――天音ちゃん!」
「……せつ……くん……?」
天音――天音ちゃんは、力の抜けた瞳のまま、こちらを振り向いた。そして俺の顔を認めた瞬間、目を大きく見開く。頬がみるみる赤くなり、慌ててメイド服の胸元を掻き寄せた。
その前に立っていた男は、重厚な軍服へ身を包んでいた。ただの大柄な男ではない。戦場という概念がそのまま人の形を取ったみたいな、鈍く凶悪な圧がある。
肩章は黄金色に沈み、無骨な階級章が無言の功績を誇っていた。首元を覆う金属の拘束具は、怒りを閉じ込めるための楔にも見えたが、逆にその獣じみた荒さを際立たせているようでもあった。眉間の皺は深く、眼差しは冷えた鉛みたいに重い。膨れ上がった腕は、もはや人間の筋肉というより砲身だった。
「クッソ……いいところだったのによォ!」
軍服の大男は、舌打ち混じりに吐き捨てる。
「この陸軍大佐・東條芭硫幌様に逆らうんじゃねえ!」
肩へ担がれた斧の刃が、鈍く光を返す。
「天音ちゃんは俺の女だ。お前みたいなカスが手出すんじゃねえ」
「せつ……くん……やっと……思い出して……くださったんですね……」
天音ちゃんの瞳から、ほろほろと涙が零れる。八十五年分の想いが、余りにもそのまま滲んでいた。その涙を見るだけで、胸の奥の何かがひりつく。
「殺してやる!」
東條は吠えると同時に斧を振り下ろした。咄嗟に身を翻し、その軌道から飛び退く。直後、俺がさっきまでいた場所の床板が、容赦なく抉られた。木片が宙を舞い、部屋に木の粉塵が散る。
――あっぶ……!一歩間違えていたら死んでいた……!
「やっぱ治安終わってんな……」
足元に転がっていたマッチを掴む。箱の側面で擦ると、掌から炎が弾けた。火弾となったそれを東條へと放つ――が、斧の腹で叩き落とされ、煙を上げて霧散する。男が眉間に皺を寄せ、歯を剥き出しにして、怒りを露わにした。
「クソがァ!図に乗るなァ!!!」
「――天音ちゃん!逃げろ!」
「ですが、せつくん……!」
「――男は死ねェ!」
斧が唸る。家具が砕け、壁が裂け、日常が音を立てて崩壊していく。東條の「暴力」は、先程まであった筈の日常を一瞬にして奪い去った。
何れもすんでのところで回避しながら、小瓶の投擲で反撃を試みる。だが、全て斧に弾かれ、火花と破片を散らすだけ。攻撃は通らず、時間と体力だけが削られていく。東條は、俺をこの場で確実に殺すつもりだった。
「天音ちゃん!俺のことはいい!逃げろ!」
「出来ません!せつくんを置いて……!」
「なんでそこまで……!」
――未だ〈天衡〉の力の全貌が判明した訳ではない。大陸を消滅させる程の力。下手には使えない。何か他にないか……打開策は……!より小さく、より確実に、ここだけを切り抜ける術は……!
思考を叩き潰すように、斧が再び唸る。タイミングを図って高く跳躍――そして回避――。しかし、それすらも東條の想定内だった。
「――死ねやァ!」
空いていたもう片方の拳が、容赦なく飛んでくる。横腹へと突き刺さるような衝撃。対処が追い付かない。
視界が揺れた次の瞬間、壁に叩き付けられていた。肺の空気が一気に抜ける。背中から全身に激痛が走った。後頭部を強打したらしく、頭から流れた血が口内に広がる鉄錆の味となる。
「ぐっ……!」
「せつくん……!」
臀から床に摺り落ちる。霞む視界の先で、太い腕が、腰を抜かした天音ちゃんの胸元を乱暴に掴んだ。
「こうなったら無理矢理にでも犯してやる!」
「っ……!」
東條の手が、天音ちゃんの胸を鷲掴みにする。天音ちゃんは怯えた様子のまま、苦痛と羞恥に表情を歪めた。腰に巻いたベルトへと、ゆっくりと男の手が伸びていく。その仕草一つで、胸の奥で何かが爆ぜた。
「――汚ねえ手で俺の女に触るんじゃねえ!」
パリン、と鋭い破砕音が室内に木霊する。東條の後頭部に叩き付けられたのは――俺の右手に握られていた酒瓶だった。さっき殴り飛ばされた時、偶然手に触れた酒瓶だ。
「クソがァ……!」
東條の身体がぐらりと揺らぐ。
――そうだ、思い出せ……!俺は前世では仮にも天才と世間に持て囃された男だぞ……!この程度の逆境、跳ね除けられなくて何が天才だ……!
「せつくん……!」
「お前、そんな手段じゃないと女を抱けないのか?可哀想な奴だな」
挑発混じりに吐き捨てる。
――ブラフでも何でもいい……!兎に角、この男の脅威から二人無事に生還出来る策を……!
「まだ生きてやがったか……!いいだろう、先にお前を冥土に送ってやる……!」
「メイドだけにってか?死ねよ、クソつまんねーな」
――それでいい……!ヘイトを俺に向けろ……!
「砕け死ねッ!!」
東條が怒り任せに斧を振り下ろす。だが、我を忘れたその攻撃は、先刻よりも単調になっていた。軌道の癖さえ掴んでしまえば、避けるのは難しくない。
「いいのか?そんなにチンタラしてて。俺のユニークスキル、神話級なんだぜ?」
男の喉がごくりと鳴った。焦りが、その巨体をじわじわと包み始める。
「大ボラ吹きが……!十傑でもあるまいし……そんな嘘で俺を言い包められると思うのか……!?」
僅かだが、東條の口調が早くなっていた。それは他でもない、東條が、本気で焦り始めている証拠だ。
「嘘じゃない。俺のユニークスキルを使ってしまえばこの家ごと消し飛んでしまうんでね。使うのを躊躇っていただけだ」
――その心理を利用する。今のこいつは、焦っている。そして焦る人間は、自分が信じたくないものほど意識してしまう。
「くっ……!」
東條は眉間に皺を寄せ、そっと右手に掴んでいた斧に左手で触れた。すると驚くべきことに、その斧が、左手にも握られた。とどのつまり、斧が二挺に増えたのだ。
「俺のユニークスキルは中位級!〈複製〉!見ての通り一時的に武器を複製出来る!俺はこのユニークスキルで何人もの弱者を屠ってきた!」
誇示する声。だがその実、焦燥に駆られて自ら手札を晒している。動揺が行動を粗くしていた。
「一時的にか。成程。中位級だ」
「三下が……侮るな……!」
「終わらせようか、クソ野郎……!」
「貴様……まさか本当に……!」
こんなクズ相手になら、出し惜しみをする理由は――何処にもない。
『掟:懐疑を禁ず。
破れば、全身を骨折する。』
思考と同時に、世界の何処かで何かが「定義」される感覚があった。見えない書類に、見えない法文が刻まれていくような、不思議な手応え。
直後――バキバキバキッ、と、骨が折れる音が室内に響き渡る。悲鳴を上げたのは、東條だった。
「ぎァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!?」
全身を見えない力で締め付けられたかのように顔を歪め、その場に崩れ落ちる。両手両脚、肋骨、肩、無数の骨が同時に折られていく。皮膚の下で、不自然な角度に骨が動いた。
「な、な、な……何しやがった……!」
手足は不自然な方向へ曲がり、立ち上がることすら出来ない。
「――せつくん!」
天音ちゃんが、慌てて何かを俺に投げて寄越す。キャッチすると、それは鉄製のスリングショット――所謂、パチンコだった。
「ナイス!」
床に転がっていたコルク栓を拾い上げ、ゴム紐と共にぐいと引き絞る。ゴムが軋む音が、静まり返った室内にやけに大きく響いた。
「ま、待ってくれ……!」
東條が、骨折した身体を引き摺りながら命乞いを始める。その狼狽が、逆に冷静さを取り戻させた。
「相手が悪かったな」
ゴムを解放する。凄まじい衝撃音と共に、コルクは一直線に飛び、東條の眉間を正確に撃ち抜いた。巨体が、糸が切れた操り人形のように後方へ倒れ込む。
――静寂。
暫しの沈黙を挟んで、俺は大きく息を吐いた。
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――数十分後。陸軍大佐・東條芭硫幌は椅子に縛り付けられ、両手首を後ろで縛られた状態で、妙に愛想の良い笑みを浮かべていた。
「いやぁ、ははは……すみませんねえ、雪村さん。いやほんと、まさかアンタが本物の神話級ユニークスキル持ちだとは……いててて」
さっきまでの威圧感はどこへやら。へらへらと媚び諂うその顔は、さっきまで斧を振るっていた男と同一人物だとは信じ難い。
その傍らで、メイド服姿の天音ちゃんが祈るように両手を組む。淡い光が彼女の掌から溢れ、東條の全身を包み込んでいく。骨の軋む音が逆再生されるように静まっていき、歪んでいた四肢が、元の形へと戻っていった。
「私の偉人級ユニークスキル・〈白使〉です。単なる回復系ユニークスキルですが……骨折も、もう治ったはずです」
――自分を犯そうとした相手にすら施しを与える、か……。この優しさは弱点に成り得るな……。
「あはは、す、すみません。助かりました。……そ、それじゃあ、俺はこれで――」
東條は怯えた目付きのまま、椅子から転がり落ちる勢いで立ち上がり、逃げるように玄関へ向かっていった。振り返ることもなく、音を立てて扉を閉める。
静寂だけが残る。
「せつくん、その……本当に、ありがとうございました……」
天音ちゃんが、胸の前でぎゅっと手を握り締める。潤んだ瞳で、俺を見上げていた。
感謝だけじゃない。安堵も、信じられない気持ちも、色々なものがそこに混ざっている。
「天音ちゃん、散歩に行こうか」
こういう話は、壊れた部屋の中でするべきじゃない。もっと、約束を思い出せる場所で言葉にしたかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
エーデルワイスが一面に咲き誇る花畑。その中央で、俺と天音ちゃんは肩を並べて立っていた。風が妙に温かく感じる。天音ちゃんは、そっと俺の腕に自分の腕を絡めた。
「せつくん……思い出していただけて嬉しいです。ずっと、せつくんに思い出していただける瞬間を待ち侘びていました……」
滲んだ涙が、白い頬を伝って落ちていき、そのままエーデルワイスの花弁を濡らす。
「天音ちゃん……いや、天音」
呼び名を少しだけ変える。八十五年という時間の重みを、その一音に込めるように。
「ごめんな、何も言わずにいなくなっちゃって。俺に会うために、何十年も待ち続けてくれてたんだよな」
「いえ、いいんです。せつくんにまたお会い出来ただけで、私はもう十分……幸せ者です」
西日を受けたエーデルワイスが、柔らかく揺れる。白銀の波が、俺達二人を包み込むように煌めいた。
「せつくん、覚えていますか?エーデルワイスの花言葉……」
「ああ……」
忘れられる筈がない。あの小さな公園の隅で、幼い彼女が笑いながら言った言葉を。
「――『大切な思い出』、です」
天音がそう囁いた瞬間、風が花畑を駆け抜けた。エーデルワイスの群れが、一斉に風に戦ぎ、白い花弁が漣のように揺れた。まるで、遠い昔の約束に、この世界そのものが応えているかのように。




